私は、前世というものを、少しばかり信じていなかった時期が有った。前世とか守護霊とか、全く関心も無く、興味が有るはずもなく、うさんくささを感じている時代や人々と同じような目で見ていた一人のはずだった。 だからこれから話す私の前世だと思われる記述は、絵空事、又は例えばこんな夢を見た、と思って本気にされなくてもしょうがない人が居ることも私は知っている。 けれど、実際にこうして細部まで同じだと、何のために生きているかと言えば、前世で後悔した事をそのまま解消しに生きている、としか思えないほどだ。
一つ目はエジプトの私が男性で妻を持ち、高くて遠いところから指揮をしながら、壁に石碑?を掘らせている責任者のような時代の話。
私は奴隷達の一人の男に殺される。その顔は見た事があった。以前付き合った彼だった。 現生では私は彼からひどい事をされ、包丁を持ってすんでの所で刺すくらい憎悪を持っていて、自分が気がつかなかったら多分彼を今度は私が殺していただろうと思う。
彼とは今は全てが解消された一人として、普通に世間話が出来る位の仲に戻った。
12月22日、23日二人、この誕生日辺りの人と、結婚寸前までお付き合いをしたり、縁があってお付き合いをしていた。その中の一人は私の前世の子供であり、日本の古代、平安?前後のその昔との前世で、今生に深く関わっていた一人でもあった。
私は巫女の家系で育ち、幼少から能力を発揮していた私には、3人のお兄ちゃん的なお守役が居た。そのうちの二人は既に今生で出会い、その一人とは来世でもどうせ会えるから、いつでも会えるから、もしも今生で今死んだとしてもまたね、と言っておくから、と言われている。
私はお迎えの時期が来て、おばあさんに連れられて本格的な巫女となるべくその地を離れる。その時にその3人の子守役だった彼らはなすすべも無く、泣いて別れを嫌がり、行くのを嫌がる私を、ただ黙って見ているしかなかった。
そこは海の近くだったと思う。
私は巫女となり、多くを語ったし、舞って歌った。やがて私の能力にあやかろうと、沢山の地位有る男性達が私と性交しにやってくるようになった。
私は2人の子供を授かる。一人は男の子、もう一人は女の子。
男の子は非常に母親思いで、何をするにも一番はお母さんが笑ってくれるように、と思う子だった。 それは心が痛むほどの献身的さで、花を摘んでは母親に渡し、何をするにも母親を気遣う思いが伝わる言葉や行動に、母親である私は男の子をきちんと勉強させて良い暮らしをさせてあげたい、と願うようになる。
見受けの話が出る。条件は男の子に沢山の勉強をさせてあげて、立身出世が出来るようになる事。それを承知した地位の高い、私を見染めたその男性は私と女の子だけを迎え入れ、男の子に修行や勉強が出来る場を与え、立派な衣服をまとえ、食べたい物が食べられる生活を提供する。
男の子は思う。何故お母さんは僕を捨てたのだ、と。
どんな環境でもお母さんと一緒に居られるだけで幸せだったのに、と。
彼は猛勉強と修行をし、立派になって力を得れば、今度は自分から堂々と母親に会いに行けるはず、と山の中に籠り、必死に悲しさに打ちひしがれながらも頑張り続けて行ったが、志なかばで蛇にかまれて死んでしまうのだ。
彼は多分、蛇が異常に嫌いかと思われる。
私はこれらの前世を信じていなかったが、とある出来ごとによって、信じざるを得なくなってしまった。
続きは有るのだが、ここには書けない。
私はまだまだ前世でやり残したことをやらなければならなくなったからだ。これからがまた新たな始まりになってしまったから。
袖触れ合うも、多生の縁。
よく言ったものだと思う。何となく気になるあの人もこの人も、実は今まで沢山生きてきた多生の中で、相当深く、又は浅く、お付き合いや知り合いだった可能性は非常に高い、と言う事を身をもって知った。
余談だが、何人かスピリチュアルカウンセリングをする時は、メールアドレスと名前だけやりとりして、全くご相談者様の顔や風貌や何をしている方か、どんな悩み相談かは一切聞かない。
だが、何人か全く事前に思ったそのまんまのイメージと以前の前世での風貌などが重なって、初めてお会いするのに「また来たの?今度はあれでしょ?」と言う感じで、目の前にはちょこんと私に前世の姿のまま現代化したような方々が現れる。 まったくしょうがないわねぇ・・、と私は老婆心のような感覚で初めてお会いするその方々を「今度はうまくやるのよ?噂はここまで届いているんだから、自重しなさいよ!」とか、意味不明の事を言ってしまう時も有った。
全ては全て、輪になり、遊ばれているかのように繰り返し繰り返し、私たちは私達自身の魂によってその場所を選び、学び、カルマ?を解消する為に同じように苦しんだり、許せたり、解消出来たり、出来なかったりをしている。
まるで夜中に延々と同じところを走り回るハムスターのようだ。
これからも多分、私が思う通りの人生が待ち構えているだろう。
私は誘う者であり、道を尋ねられてそこへ向かえ、と指を指し示す者。
道しるべだ。
世の中には沢山の道しるべをしている人たちが現れる事だろう。そうしてそれら彼ら彼女らは「行け」と、ただ、道を選び取り、さあ、ようこそいらっしゃいました、と右か左かまっすぐかの道を選ぶように促すだろう。
それを実際に選び取るのは、勿論、自分だ。間違えないで。