●◆■(日中連句交流)資料編
(実例 2) 2001年5月 於 中国北京大学 日中比較文学交流会
(1講演)
(2分科会:(漢句は短俳による)連句実作)
(3総合連句会(漢句は短俳による)実作)
:::::::::::::::::::::::::::::::::::
(1講演)
「日中連句交流 韻律論―短俳(Duǎn pái)の薦め」 青宵 建議)
2001年5月
中国北京 (北京大学)
日漢連句韵律論 nikkan renku inritsu ron
要旨 Resume
中尾 青宵(述)nakao seishou
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇日本連句の韻律(拍)
〇中国(漢)詩との比較(日漢連句の 律 の同調)
〇連句の連関・連環(連繋・連鎖)ということ(連句の基本原理と方法)
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
〇 日本連句の韻律(拍)
日本古来の文芸の連句は、
(1)伝統的な原則、(5音+7音+5音の音数律を為す十七音の長句)と、(7音+7音の音数律で構成する十四音の短句)とを、交互に繰り返し、或る長さを持つ。長いものは幾つかのブロックに分けられることがある韻文(の応酬)である。
それぞれの句は、詩の一節ではなく、前後に関連や映移があるけれど、基本的には独立句である。
(2)連句は一巻の句数即ち長さで呼称する習慣があり、古来、百韻の他、八十八、五十、四十四、
三十六、二十四韻……等の形式がある。短い形式は、八、六、四、三句で為すものも、更に二句で為すものもある。長さによって認識呼称されるので、定型韻文(定句数連句)と呼べる。
(3)一方、近年、自由な長さの形式も案出され、実践されるようにもなった。それらは現代の時代に合致すると考えられる。これには非定型と半定型がある。
定律文芸・・・長さの定型及びその中の節章の定型が固定されると、固定律が生まれる。日本文芸の定律は、5字音と7字音が基調で、和歌は57577=31字音、俳句は575=17字音が伝統的である。但し、日本語の字音と漢音の字音は、音節の数え方が異なり、漢音の1音節語は、その読み方(発音)は1音節とは限らず、1~3音節(2音節が多く)に発音され数え方をする。
従って、漢語詩歌の日語翻訳や日漢(語)混合作品制作の場合は、その韻律の調合、統一についての理解と合意が為されねばならない。
長句と短句の例 (日本語読みの音節数 拍数のこと)
南簷は 午后の日 静に 回りけり (発句。長句、17字・17音節=17単拍)
切り干笊に やがて 夕月 (脇句。短句、14字・14音節=14単拍)
一般に、実拍の章句の末には、幾つか価(1~3単拍)の「休止拍」がある。
南 簷 は (日本語式5音節(字)) (上五という)
Nan en wa (日本語発音 ローマ字式 )
11 11 1 +(3休止(単拍)) ••・(5実単拍+3休止単拍=8単拍=4V復拍)
\/ \/ \ (/\/)
午后 の 日 静 に (7音)(中七という)
gogo no hi shizu ni
11 1 1 11 1 +(1休止拍) ••(7実単拍+1休止単拍=8単拍=4V復拍)
\/ \/ \/ \ (/)
回り けり (5音) (下五という) (注 けり=過去回想詠嘆助動詞)
mawa ri keri
1 1 1 1 1 +(3休止拍) ・・・ (5実単拍+3休止単拍=8单拍=4V復拍)
\/ \/ \ (/\/)
上記は発句長句字面(5、7、5実音(単拍))の例であるが、休止拍まで考えれば、どの(一句の)構成章も8単拍の音価(8、8、8単拍、計24単拍)と考えられる。
V型は手を打って数える音楽(ビート)の1拍であり、このビート拍(=V復拍)で言えば、長句の中のどの(上、中、下の)一章も、4V復拍(4ビート音楽拍)と言える。
従って、長句は4V拍×3章=計12V拍(12ビート音楽拍、12復拍)である
次に、先の[付合]例の 短句 の解
切り 干し 笊 に (7字音)
kiri bosi zaru ni
1111 11 1 +(1休止拍) ••••(8単拍=4V、4音楽ビート、4復拍)
\/\/ \/ \ (/)
やがて 夕月 ( 7字音)
Yagate yuuzuki
111(1)1111 ( Σ* ) ••••(8単拍=4V、4音楽ビート、4復拍)
\/\(/)\/\/
すなわち短句も字面(7+7計14実音)であるが、休止拍まで考えれば、短句も(8+8=16単拍=8V、8beat拍、8復拍)なのである。
結局,長句短句一対で、(字面17+14=31実音(単拍))だが、休止拍まで考えれば、長句と短句で、24単拍(12復拍)+16単拍(8復拍)=40単拍(20V、20ビート、20復拍)で一対のものが、日本連句の隣接二句であると言えるのではないか。
しかもまた二句付け合った後には味読鑑賞の別の大きな休止拍( Σ* )があると考えられる。
こうした(休止拍)の考え方は中国(詩)でも理解出来よう。
七言の例(4+3)
峨眉山月 半輪秋(・) (李白) ••••日本連句の短句(4+3)に相当
vvvv vvv(v) (計16単拍=8V=8復拍)
清明時節 雨紛紛(・) (杜牧)
vvvv vvv(v) (同16単拍=8V=8復拍)
これに対して,五言の場合はやや異なり、2字+3字で構成し、6ビート拍である。
何日 是帰年(・) (杜甫)
vv vvv(v) (12単拍=6V、6ビート音楽拍,6復拍)
明月 来相照(・) (王維)
vv vvv(v) (12単拍=6V、6ビート音楽拍,6複拍)
これを次のように読むとしても、休止拍の考えは無視し得ない。
何日 是(・)帰年(・(・))
vv v(・)vv(v(v)) …(6~8V)
明月 来(・)相照(・(・))
vv v(・)vv(v(v)) …(6~8V)
〇 日本語連句との同調 =新しい日漢混合連句(漢和・和漢)の方法
日本語の長句と短句の12V,8Vに相当する漢句は、例えば、
漢句の長句:12V(復拍)〔含む休止拍)
OOO(・) OOOO OOO(・) 343 =10音字句(+2休止拍)
漢句の短句:8V(復拍)
OOOO OOO(・) 43=7音字(+1休止拍)
等の詩句(の長さ)が、よく同調すると考えられる。
→→よって私は ◎日漢混合連句も同調を重視するならば、漢句長句は10言、
漢句短句は7言を薦める。
なお
中國で既に導入発展している「漢俳」は、この所謂、連句の長句に相当する一句独立句であるが、日本の発句(=俳句)に似せての出発から、語数を575=17で作り、主として三行詩に為している。しかし日本語の俳句575=17字は、助辞や語尾変化などを含んでの575=17なのであり、述べる内容(主題.副主題など)は中國語の漢俳と較べると、半分の極小の詩形(句)なのである。乃ち漢俳(漢語575)では、多言過ぎるとも云える。よって、真の短小の句による映発を追及するなら、新しい漢俳=乃ち=短俳(青宵試称)343=10言を提唱・推奨するのである。
〇連句の連関・連環(連繋・連鎖)ということ (連句の基本原理と方法)
連句は前句と後句の間に、顕在的または潜在的を問わず、意味(内容と言葉)や情景や思想や情感(印象)を通じての連関a があり、それが連句を成立させる付合(つけあいtukeai)ということになることは既述したが、そうして成った句を更に並べて三句とする場合、その三句のの様態は、中の句を挟んで、二つの別の連環(映り、移りuturi)の様態があり、図で、2なる中の句は前後の1と3の両句を結合する。それが連句を継続させる主要な原理なのである。
(1〈 2) 3〉
その三句の間に於いては、1→2への契機の要素aとは別の、2→3への契機の要素bがあり、“2の句”は[(1+2)の付合と(2+3)の付合]を結合し,(1+2)の文芸世界を(2+3)の世界へ移し発展させる。
もし後者の付合の契機の要素が先の同じ要素aであれば、1→3への飛躍は小さいし、一般に避けることが望ましい。それが「打越」禁忌(=前進を阻害し停滞させる)の原理である。(但し最近はこれらを厳密に忌避しない(=許容する)場合の立場の理論と実践もある。詩的ないし歌謡感覚の連句の許容。ここでは詳説しない)。
そうしたことが有効に働き、文芸的に好ましい緊密性をもって、(1+2)だけで終わることもなく、(2+3)だけで終わることもなく、前の関連が薄れ消滅しつつ、変化して行き、次々に新しい二句の文芸が生み出す世界を展開し連環し継続され、その二句間や数句あるいは一巻の移りに於いて、それぞれの結合の要素の選択や彫琢が、座や捌によって自ずと個性的である筈だから、その連環は、「ストーリーを追わない建前(方針)の文芸」、「二句の世界の重視とその連続」という意義に於いて、連句という一巻が成立するのである。筋を追うばかりが真の文芸でもないのは当然で、絵巻物*のように、場面の変化・展開を身上とする文芸がこうして存在するのである。
(*「清明上河図」の面白さと価値を志向するのと同じような)。
それは基本的に、普遍的な意味・意義・情感・表現の連環であると同時に、個性的なそれらの連環でもあり、またそうでなければならない。なぜなら座の人々が理解出来なければ、最早その後の句を継ぐことは出来ないので座は[連句をなすこと]が不成立となるし、十分個性的でなければ、魅力に欠け、後句を作ろうと言う意欲が沸かない。
故に又さかのぼって、前句自身も普遍的、個性的でなければ、後句への触発はないので前句の資格は薄弱といえよう。つまり、全ての句は同時に次句の前句であるから、どの句も前句として、そういう(普遍性と個性的の)資格がなければならないので、一句たりとも疎かに出来ない。
それと同時に、“一句が短いこと”が、連句(聯句)を成立させるのに最も重要な必要条件である。「短詩」は、もの(思想、感情、ニュアンスなど)を十分言えないという制約により、又述べた時に、既に何らかの詠嘆〔=いい終わったとたんの感情)を伴うものである。それが読者(=次の詠者)に、その十分言えなかったこと、もどかしさ(=心焦)或いは敢えての消義・消情に対して、理解し、同調し、批判し、補足し、発展させようとする意欲が沸く(沸かせる)のも、連句制作・成立の一端の契機ではある。これら(連環)が、連句という短詩に於ける 対話(ダイアロ-グ)であり、付けるという行為になるのである。
連句に於いて留意することは、漢詩と異なり、
① 起承転結」による進行は不必要であり、また
② 一編を貫通するべき主題を持つ必要もなく、
③ 最後に結論を述べねばならないこともない。そうしたことがたとえ無くても、連句は成立するのである。すなわち、それらの有無に拘わらず、進行の途上における≪和≫≪二句間の調和≫の喜びに浸ること、それが連句の動機なのである。
そして連句は人生や自然の移りと同じく、ただ流れ、漂泊して行くものである。その漂流の間の、刹那の、真(まこと 誠 makoto)の把握を嬉しむ。
敢えて漢詩の構成に例えて言うならば、
起
承
起(この第三句は、前の承の承である。先の起と異なる起である故、転とも考えられる。これが新たな起となるのである)
承(この第四句は、第三句の承であり、しかも既に 転でもある)
起(同)
承(同)
…………
…………
すなわち、第三句以降の各句は、(承であり、同時に起であり、また転)である。それが続くのが連句であって、漢詩のような或いは西洋詩のような、論文や小説に不可欠な「結」の部分はない。(そういう作り方も無いではないが、本質ではないので説明を省く)。或いは「結」は、二句の責任の関係で、それぞれのどこかの起や承に、表現され(てい)るともいえる。連句は二句の世界に生きる韻文芸なのである。
