【麒麟がくる ゆかりの地】

 

明智光秀は丹波地方の攻略へ

 

【1575年】

織田信長より丹波国攻略を任されますが

丹波国は地形的に山続きで強豪武将がたくさんいて攻略は困難な地域でした。

おまけに丹波国人は信長に従っていたけど義昭追放で敵に転じてしまいます。

 

【1575年7月】

明智光秀は小畠・川勝の協力を得て宇津頼重に攻撃を始めるも

途中で信長より越前・丹後方面への援軍を命じられて(え?丹波攻めは?)

明智光秀が離脱したところを見計らって8月に宇津頼重が反撃してきて

丹波戦線は大ピンチに!!!!

 

【1575年10月】

一旦坂本城に戻った明智光秀は改めて丹波攻略を開始すると

宇津頼重は戦わずに逃亡。

続いて竹田城攻略を断念して帰還してきた赤井直正の黒井城を包囲開始。

 

【1576年1月】

八上城波多野秀治が裏切り、不意を突かれて明智光秀が敗走する。

この結果、多くの丹後国の武将が離反。

 

【1576年4月】

石山本願寺との天王寺の戦いに出動。(え?丹波攻めは?)

明智光秀は天王寺砦の攻勢を受け、危ういところを信長が救援し助かる。

ん?信長協奏曲でこんなシーンあったけど史実やったんか?

あの作品、登場人物がやたらとワープしたりするか演出と思ってたわー。

ちなみに明智光秀は23日には過労で倒れ、しばらく療養に。

織田信長はこき使い過ぎやなー。

 

【1576年11月】

明智光秀の正室の煕子が坂本城で病死する。(涙)

 

【1577年10月】

紀州雑賀攻めに従軍する。(いやだから丹波攻めは?)

松永との信貴山城の戦いに参加して城を落として丹波攻めを再開。

強固な守りの八上城を包囲し続け

その後も丹波攻めと各地への転戦を繰り返す。←めっちゃ大変やな!

 

【1579年1月】

丹波攻めは最終段階に入る。

波多野軍の反撃で親織田派であった小畠永明が討死。

 

【1579年2月】

包囲を続けていた八上城が落城。

 

【1579年5月】

澤田城が明智光秀勢の攻撃を受け落城した。

 

 

その八上城の支城であった沢田城

 

澤田山にあるから澤田城なんやね

 

こんな感じらしい。

 

澤田と沢田が混在しているね。

沢が常用漢字だったと思うんだけど、さるるは【澤】を重宝してます。

まあ別に大きな理由はないですが、こだわりです。

 

標識は【沢田】でした。

 

お寺っぽいね

 

【沢田山小林寺】

実際にお寺やったんやね。

 

小林って

沢田城の城主も小林なんとかって人やったから

だから小林寺なんかね~?

 

なんとなくいい風景だね。

 

ここに竹ぼうきがあったから

 

さるるが頭に乗っけて「すっごい枝毛♪」って言うたら

お嫁ちゃんが腹抱えて笑ってくれて

とても幸せな気持ちになることができました。

ありがとう(*'ω'*)ラブ

 

裏山に【澤田城址】があるらしい。

 

2分ぐらい歩くと

 

大きな石碑に大満足♪

 

【1579年6月】

八上城主波多野秀治・秀尚が明智光秀によって捕らわれ

安土に送られ織田信長の命によって磔刑にされる。

 

【1579年8月】

黒井城が落城し、ついに丹波国を平定。

さらに細川藤孝と協力して丹後国も一気に平定。

 

いや~明智光秀

いろんなところ転戦しながらの丹波攻め

大変やったやろうねー!

 

あれ?

玄奘三蔵法師の骨があるの!?

 

行ってみるで


すいません

ブログの構成上こんな感じですけど

沢田城に行く途中にあり〼ので一緒に歴史ヒストリアして下さいね。

でもなんで玄奘三蔵法師の骨がこんなところに!?

 

天竺に旅をした人やんな!?

 

ここに三蔵法師の骨が・・・・。

 

昭和17年、玄奘の骨を日本軍南京守備隊が偶然に発掘。

その聖骨は全世界の9ヵ所に分けられ、そのうち六ヶ所は日本にあるんやって!(驚)

んー日本軍守備隊が持って帰ってもよかったんやろうか????

 

 

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