天和三年(1683) 3月28日

放火事件で江戸を騒がせた 八百屋お七が鈴が森処刑場において火刑に処された日です



事件の概要は

火事により家族ともども焼け出されたお七は正仙院という寺に非難します。
そこで出会った寺小姓に恋心をいだきますが当時寺小姓との恋愛は
諸事情によりかなわぬ恋とされていました。

そうこうする内、自宅の再建も進み二人は離れ離れになってしまった・・・

時間が経つにつれ寺小姓に対する思いは増すばかりのお七は
なんとかして逢えないかと一計を案じます。

それが

「火事になればまた避難先でお逢いできるかも・・・」

というはかない乙女心でした。


前年の天和二年(1682)12月28日 寺小姓に逢いたい一心のお七は
再建された自宅に火をつけてしまいます。

しかし、すぐに「大変なことをしてしまった!」と
正気を取り戻し火は消されたため大事にはいたりませんでしたが
自首により放火の罪で捕縛。

翌年、火刑に処された というものです。




江戸時代の刑罰において放火は

引き回しの上 獄門(火刑)
俗に言う「火あぶりの刑」です

とかなり厳しい罰と定められていたが江戸時代にも未成年法みたいなものがあり
若年(確か15歳以下)などにより刑を2ランク下げることもあったそうです。

事件当時 お七は16歳。

吟味方与力などが供述調書を作成する際
未来のある若いお七を不憫に思い

「お前は15歳ではないか?」

とあえて尋ねたところ

「いいえ」 ときっぱり否定と言う(諸説あり)


江戸時代は自白が最重要視されるため結果 引き回しのうえ獄門火刑が下される


もし、うそをつけていたら2ランクダウンで
「遠島」 だった可能性もあり死なずに済んだかもしれません。

しかし、一人の男性を思い焦がれ放火までしようとするお七は
汚れ無きピュアな心の持ち主だったかもしれません。


その後、近松門左衛門が「好色五人女」に取り上げたことにより
歌舞伎、浄瑠璃などこの事件を取り上げた作品が多く作られ
いまでも語られています。



元禄14年(1701) 3月14日

江戸城松の廊下において
播州赤穂五万三千石城主 浅野内匠頭長矩が高家筆頭吉良上野介義央を斬りつけた。

有名な 「刃傷松の廊下 」は約300年前の今日です。


刃傷に至った理由は諸説あり真実を突き止めるのは難しいかもしれませんが
今年正月に放送されたNHK特集では現代に残された江戸城本丸御殿の設計図面や襖絵の下絵などから事件当時の松の廊下をほぼかんぺきな形でCG再現してましたね。

番組内で導き出した当日の天候は薄曇り。しかも松の廊下は映画などで見る明るく開放的な廊下とは違い扉で閉ざされほぼ真っ暗の中での凶行だったようです。
薄暗い廊下に響き渡る「この間の遺恨覚えたるか!」という内匠頭の声。三太刀斬りつけたところで周りに取り押さえられ本懐を遂げることは出来ませんでした。

幕府がこの事件を裁く時に重要視した点は
上野介は自らの刀に手をかけ応戦しようとしたか?という点。
刀を抜こうとしていればこれは「喧嘩」になるので
喧嘩両成敗適応で両者共に切腹もしくはそれなりに処罰されるはずだった。
しかし、上野介はとっさのことに背中を見せ逃げ惑うばかりで
内匠頭の一方的な逆恨みとして処理される。

結果、内匠頭 即日切腹。上野介は時の五代将軍綱吉(縁戚だった)より「養生するように」と言葉を賜る。

江戸時代の武士道からすると
抜刀した相手を前に応戦せず背中を見せるのはたとえそれが殿中であっても
士道不覚悟とされるはずが
片手落ちとも言える処罰に江戸中は浅野贔屓になってゆく。

そしてその気運に後押しされるように一年九ヶ月後赤穂藩浪士による吉良邸討ち入りへと繋がってゆく。



手違いがあって日にちがずれたけど
3月3日は一般的には「ひな祭り」 ですが
約160年前の安政7年 3月3日 日本史史上大きな転換点の一つとなった事件が起きました。


桜田門外の変 です。



時の大老 井伊直弼が江戸城へ登城途中桜田門外にて水戸浪士ら数名の襲撃を受け暗殺されました。
この事件を境に日本は幕末の動乱そして討幕へ加速していくことになります。

幕府のトップを暗殺したからと言ってアメリカと交わした日米修好通商条約が破棄されるわけでもなく依然攘夷の気運は昂まります。

その後、直接攘夷を行った薩摩と長州はやみくもな攘夷は意味を持たないことを悟り幕府に内緒でイギリスなどと貿易を行い国力を貯めていきます。

一方、幕府はフランスからの資金援助により軍備を整え反幕府軍へ備えます。

それはペリーが来航したことにより泰平の眠りから覚めた日本人が
欧米列強の代理戦争となり植民地化させないよう必死にもがき
新時代へ走り抜けて行く まさに ターニングポイント

と言えるかもしれない重大な事変でした。


個人的には、
シーンと鎮まりかえった中での事件(赤穂事件もそうだった)と思われがちですが実はギャラリーが沢山いた中での行動というのがとても興味深いです。

登城の日は決められていたので有名大名の行列を一目見に今のプロ野球選手名鑑のような「武鑑」を持って「追っかけ」がいる中での大事件だったんですね❗️
この事変を描いた絵にはちゃんと「追っかけ」をめあてにチャッカリ商売をしている庶民も描かれています。

いつの時代も一番強いのは庶民なのかもしれません。










ひさしぶりの江戸散歩。

今回は兼ねてから行きたかった

王子稲荷神社 です



王子稲荷社は創建が平安時代以前と古く

康平年間(1058~1065)には

関東稲荷総司の称号を戴く 由緒ある神社です。



江戸時代の伝説によると

大晦日に関八州の白狐は装束をあらため

王子稲荷に集まりその年の豊作を願いお参りしたそうです。



$サービス業という生き方



現在では大晦日に白装束に狐のお面をかぶり稲荷社まで行列をする

「王子・狐の行列」として江戸の雰囲気を今に残しています。



王子は江戸時代、 桜で有名な飛鳥山などに

江戸市中から一泊かけて向かう行楽地でした。


江戸城から遠く離れているのでお花見などは

さぞ羽目をはずして大盛り上がりしたことでしょうね。


今と違い簡単に旅行など出来ない時代ですから

「稲荷に詣でる」と申請すれば比較的許可が出やすかったかもしれませんし


享保年間以降はお花見の時期はゆるかったみたいなので多くの人が

訪れたのでしょう。


歌川広重の「江戸名所百景」という浮世絵は

今で言う「るるぶ」みたいなもんですから数点も登場する王子は

当時から人気スポットだったんですね。



もっと探索する価値ありの王子でした。





サービス業という生き方
サービス業という生き方
サービス業という生き方
サービス業という生き方
今日は8月1日 「八朔」(はっさく) と言って

江戸幕府にとってはとても重要な日でした。



天正18年8月1日、徳川家康が江戸に入府したのを

記念日とし諸大名、幕臣などが

江戸城(今の皇居)に登城する日でした。


その際、家康が白帷子長裃(しろかたびらながかみしも)で

入府したことにならい 諸大名も白帷子で登城しました。



幕府は「家康ブランド」にカリスマ性を持たせたからこそ

主従領主性が264年も続いたんですね~



ちなみに 白装束を着るのは幕臣だけではなくて

吉原のお嬢さんたちも「白い着物」を身に着けて

夜のお出迎えをしたそ~です。

今で言うキャバクラの「浴衣ナイト~!」的な



$サービス業という生き方




ドラマや映画の見すぎで多少麻痺してる部分もあるが

この事件は異常・・・


薬物の過剰摂取と言ってるが

顔を食いちぎるかぁ? 


わたくしのスベらん話・・・



先日、駅前広場で仲睦まじい3人の親子と行き違いました。



パパはアフリカ系の黒人、ママは朗らかな日本人、

子供は2人の愛情いっぱいに注がれた2歳ぐらいの女の子。

3人がとてもいい笑顔でお買い物中って感じで歩いてた。


その彼らを追い越そうと近づいたとき

パパがママに向かって


ジャンボ!」「ジャンボ!」って


大きな声であいさつしてた??



僕はアフリカの習慣がわからないから

きっと家族に対しても日常的に

こんにちわ!」「こんにちわ!」って

コミュニケーションをとるんだなぁ~   

なんて ちょっと感動してたら・・・

ママがすかさず


あぁ~ 買ってない。お金ないから



???



いくら文化がちがうったって愛する夫が満面の笑顔で

「こんにちわ」って言ってるのに

「金がない!」ってどうゆうこと!?



意味がわからず数歩歩き出したその先には


「ドリームジャンボ宝くじ売り場」が・・・


あっそ~ゆ~こと