最近再確認したこと。

1.人に計画とかやりたいことは言わない

2.春は眠いからカフェインぶち込むべし

3.サボってOK。一生ダラダラ過ごしてもOK。

 

 

1.人に計画とかやりたいことは言わない

 同じように夢や目標を追う人の中でも、ごく一部の無意識下でも自分の足を引っ張らなそうな人、もしくは応援することを仕事にしている人、もしくはAI以外にそういうことは言わない。

 でなければ、信頼を失う→期待されなくなる→自信なくなる。目標ややりたいことがコロコロ変わる人の気持ちを基本的に人は理解できない。なぜなら大半の人はそんなものについて考えたりしないから。生き方が違うので理解されない。夢やゴールについて考える人ほどそれらはどんどん更新されるし、根本が更新されるから行動予定はもっと変わる。目まぐるしく。だから、人に口だけのやつと言われないためにも、公にすべきでない。別に言われても平気、むしろ言われた方がやる気出るんだおれは、と心の底から言えて無理していない自覚がある方なら言ってもいいが。どれだけ自分を確立しようとも他人に張られるレッテルは自己効用感をさげるしセルフイメージ悪くするからやめる。どうせなら自他ともに信頼され、応援されていた方がよい。不言実行が吉だ。

 

2.春は眠いからカフェインぶち込む

 春は、というが基本俺は眠いので朝カフェインぶち込んでしまうのは特効薬だと思う。あと夜運動して神経サイクルの波を強めよう。

 

3.サボってOK。一生ダラダラ過ごしてもOK。

 基本的にどの宗教でも怠惰は認められないが、大乗仏教の空においては立場が変わってくる。一生ダラダラしてOK。怠惰もOK、そして同時にその結果起こることも受け入れよ、という立場だ。すべてが縁起で成り立ち、あらゆる概念は自性を持たないから、すべては空じられる。そして戯論寂滅の、めでたい境地、仏教ではこれを別名「捨」という、すべての見解からの出離を目指すわけだ。現代風に言うと、すべてをありのまま見ることを目指すわけだ。だからこそ、怠惰が善い悪いという話でもなく、その結果起こることが善い悪いでもなく、ありのままを見つめ、そのうえで仮に世界を見ることで行動する、ということだ。

 例えば怠惰に生きた結果お金が無くなり生活できなくなるのが怖いから悲観して、仕方なく何かをする、というのとも異なる。悲観するということは執着を強く持っているからにほかならない。執着やものの区別をなくし、あらゆるものをありのままに見たうえで、あくまで仮に言語にし、どうしたいかを見ればいい。ありのままにすべてを見るから、とっても頭を使う。けれど、苦しみから出離できる、それが龍樹の中論だと俺は思う。