自由意思があるかどうかは実際のところ自由意思を何と定義するかによるところが大きいと思う。行動は0.35秒前に脳が決定していて、決定した後に自分が決めたかのように意識に上っていることがわかっている。つまり、動機は後付けにすぎず、すべての行動は脳の生態的反応が決定した結果であるともいえる。しかしその脳も我々なのであって。
そう考えていくと、いかに自分というものが統合の取れていない幻のようなものであるかがわかる。
最終的な運動神経に移るまでにたくさんの脳内での科学反応が影響を与え、それらの影響の結果行動が出力される。
我々の思考ですらそうだ。
独自で思考しているつもりだが、これはあくまで言語野に他の様々な脳内の神経が相互作用的に生み出されて表層に上がっているに過ぎない。
そして、これらの理論は単体で周知されるべきではない。もしこれを現代人が考えると、極論人生や行動、理念もすべて脳の生理活動の結果、つまり脳のクソであると結論付け、虚無論的発想に至らしめる可能性がある。
ニヒリズムは積極的虚無を展開したが、ニーチェのような人生を皆が生きることが幸福かと言えば俺はそうは思わない。
我々はそれら事実を知りながら冷静に受け入れる必要がある。中途半端な知性は人を不幸にする。発展した国家の幸福度が必ずしも上がらない理由はたくさんあるが、これもまたその一つである。
以上の話で分かる通り、脳一つ、人生一つとってもそれらは関係性や連鎖によって引き起こされているにすぎない。
そしてそれらを系の外側から見てみる。そうすると、思考だけは他のヒトよりさらに大きな系に飛び出ることができる。そうして思考し、知識を集めることは私の脳内の神経回路・化学反応がもつエントロピーを増大させる方向に向かう。
行動や意思が脳のクソであるからといって絶望する必要はない。ありのままを見る効用がそこにはある。衆生の世界の外側の系にアクセスする知慧を手にしただけだと俺は考える。それは人生をゲームのように自由に楽しむためのツールであると同時に、自分から離れて人や世界に優しくなれる初めの一歩だ。