何かに執着を持てば苦しみが生まれる。苦楽は表裏一体である。

 

 

 

例えば今仕事をしていて、思いっきり現実世界で仕事をしようとするとタスクがたくさん生まれ、期日も生まれ、ピリピリした感情が自分に生まれるのがわかる。

 

 

 

そして、仕事に追われることは楽しみと苦を同時に生み出す。

 

 

 

どちらにせよこれに固執し過ごせばこの緊張感は家族に伝わり、周囲の人間に伝わり、人の心の余裕を奪う。

 

 

 

しかも現代の日本の多くの人がしている仕事は特にタスクや大変な目標が多く、これは当人を苦しめるだけでなく周囲の人間を介して、環境を介して連鎖的に人々の心から余裕を奪う。

 

 

 

執着をすれば苦が生まれ、それは連鎖する。

だからこそ、固執しないための、執着を捨てる鍛錬によってそれらから適度に心の距離を保つことが必要になる。

 

 

 

仏教思想の縁起、空観の考えは、あらゆるものへの区別をなくし、執着のない状態を作る効用がある。空観については最後にまとめておく。

 

 

 

今俺が実践しているのは、

昼間:思いっ切り現実世界を執って見て、あるものとして働き、自分のゴールに向けて精力的に活動する

空いている時間・夜間:寝る前に瞑想などを実践し、縁起の考えを学び、物事の区別をなくすための鍛錬の時間をとる

 

これで心の安寧を保ちながら厳しい現実世界で生きていけるかなと考えている。

 

 

 

 

空観の考えのまとめ

この世のすべてのものは関係性(=縁起)によって起こるものであり、事象それ自体の自性を否定される。そしてすべての事象の存在の有が否定されるなら、同時に無も否定され、戯論寂滅の世界になる。つまり、執着する対象そのものが否定されるということになる。すべてを否定し、執着や区別をなくし、あえてそこから世界を執ってみることで生きること、またそれを利他行のために立ち上がるのならそれを菩薩とした。

 

そしてこの考え方は、論理学の系の外側にあるおかげで安心して論理的な人ほど信じることができる。なぜなら論理学は存在の有を仮定することで理論が始まるからだ。この縁起、空の思想は存在の有も無も双方否定して始まる。

キリスト教の宗教学では論理学をもとにしているから、どうしても論理で否定されるし、オカルトが混ざる。しかし仏教は頭のよい龍樹がその仏教哲学を論理学の系の外側に定義したおかげで、否定も肯定もされない、論じ争う必要のない哲学へと昇華させた。