彼女がいるかも知れない推し輩。
幸せになってほしいと願いながら日々過ごしていくうちに、好きという感情であると認識した。
彼女がいようといなかろうと、タイミングがあったら告白しようと思った。愚直に素直に伝えることしかできないが、結果がどうであれ、推しに変わりはない。
恋の駆け引きはよくわからないので、自分のしたいように動くしかない。
相手がロマンチストとか、私に何者かを望む人であると難しいけど、そうでないとなんとなくわかってきたから動けそう、と思ったのかもしれない。
この感情は、芸術や絶景を見た時に、脳の後頭部がゾワゾワっと汗をかき、心から生きててよかったなぁと思う感情にとても似ている。推し輩と手を繋ぎたいとかキスしたい等の一過性の欲求ではなく、この子がこの先幸せだといいなあと心から思う。
その願いが、私と付き合うこととは直接関係ないのだが、私がその幸せを与える立場であれたらこの上ない喜びであると感じるだろう。だから告白するのだ。
相手に翻弄されるだけのように見えるが、告白は告白、その他はその他で区切りをつけるつもり。
翻弄などとっくにされているのだ。
話は変わるが、人を好きになる要因ってなんだろうと考える。
求愛行動はsuper egoであるのに対し、感情(精神)の原点はegoにあると思っている。
それは仮にesにいるとすると、同性に感じる根拠がないという背理帰結に至るからである。従って、精神を司るのはegoの部分ではないかと思うのだ。結局フロイトと言いたいことは同じだ。
相手を好きになり告白する、というのはegoの部分だ。それを、理由づけて善悪の判断をするのがsuperegoの役割だ。何をしてはいけないとか、何をするべきだとかである。この言語化も、superegoがやれと言っている行動だ。
振られた時に心を落ち着かせることもsuperegoの為せる技だ。
だから機能していることを確かめられただけでも今日は満足だ。