人は二度死ぬという。

 

一度目は肉体的な死、二度目は誰からも話題にされなくなるとき。

目の前からはいなくなったかもしれない。だけど、その人のことを話し続ける限りその人は生きている。

 

父が亡くなったとき、その言葉に救われた。

命日や法事(13回忌など)があるのは故人を思い出すための、先人達の知恵なのだろう。

普段はそんなに意識しなくても、法事が来ればその故人について話す。そうして故人が生きていく。

 

お子さんを亡くされたお母様にその言葉を語ったことがある。〇〇くんのこと話し続けましょうと。

お母様はうんうん、と泣き崩れていた。私が救われたように、そのお母様の心にも何か響いたのかもしれない。

もちろん、父親を亡くすのと、我が子を亡くすのは全くレベルが違う。ただ、少しでも心に何かが届いたならと思う。

 

奥様の13回忌を迎えた。

奥様側のご親族の方は結局、参加されなかった。というか、事実上主人が断ったようなものだ。

再婚しているから、お互い気まずいのだと思います。

 

ご親族が参加されるのであれば、私は遠慮する。そう決めていました。もちろん、準備等はしますが、表にはでない。

ただ、一方で、ごあいさつはすべきだとも思ってもいました。お位牌はお守りしますと。

でも、それも私のエゴなのかもしれないとも思っていました。ご両親様からすれば私の存在は複雑だと思います。

少なくとも歓迎はされない。

 

結局は主人の家族(両親、妹さん夫婦子ども2人)+私となった。それでも私は出席すべきかどうか迷った。私がいれば奥様の話はできなくなる。読経の時は参列しても、食事の時は遠慮しようと思っていた。が、ここも結局、私もすべてに参加した。

不参加は不自然だということになった。

 

「あの日もよく晴れていましたね」と和尚さん。「そうでしたね・・・」という反応。

この時点で、何とも微妙な空気だった。再婚のことは和尚さんもご存知。こういう場面は慣れているのかもしれないが

普通な感じでもないだろう。

 

和尚さんも同席して食事会になった。

お父様が「〇〇ちゃんを偲んで話しましょう」と言われたが、誰も奥様の話をしなかった。お子さん2人は奥様の記憶はない。

中学生だから状況もよくわかっているのだろう、奥様の話を聞くこともなかった。

食事中の話と言えば、そのお子さんの学校のこと、お父様のゴルフのこと・・・・本当に普通の会話。

私はご遺影が気になり、本来、こうした家の集まりには前妻様がいたのであり、さぞかし幸せな家族団らんだったんだろうなと思うと、とても複雑で私はここにいるべき人間ではないと言葉にできない感情だった。

 

ただ、唯一、主人のあいさつは違った。主人が最後に「死んだ人は課題を与える。あの時のあの判断が正しかったのか・・・残された人間は一生その課題を考え続けて生きなければならない。」と。

主人からは「病気にさせたのは自分のせい、もっとしてあげられることがあった・・・」と何度も聞いてきました。それを言い換えているんだと思います。私も父を亡くしているのでその気持ち、言いたいことはわかります。でも、今の「妻」としてはとても複雑でした。違う判断をしていたら、死なずに済んだ、生きていたら一緒にいれたはずなのに、そう突きつけられている気がしてしまうのです。

 

「奥様がいれば私とはいない」そんな当たり前のことが理解できなくなります。

 

奥様の出した課題に答えはあるのでしょうか。彼はその問題を解き続ける。私はその課題を一緒に問い続けていくのが役目ですか。 その日の帰り「13回忌のあとは17回忌。和尚さんは23回忌、27回忌もあるっていっていたよな」と。その通りだし、法要はするべきだと思います。ただ、素直に「そうですね」と言えない自分がいました。 人として失格ですね。

 

こんな話を以前、ネットのある相談窓口に投稿した。いろんな意見があったが「悲劇のヒロインになっている」とあった。

嫌なら結婚しなければいい、別れたら?と。

あれ以来、どこかに相談することも怖くなった。私はやっぱり、おかしいのかなと。

 

奥様の話題をすることがご供養、頭ではわかっている。気持ちよく聞ける自分でいたい。

 

でも、そのときは、今もだけど、私にはまだ無理です。私はそんな出来た奥さんではない。

 

「人は二度死ぬ。一度目は肉体的な死、二度目は誰からも話題にされなくなるとき」

 

主人から奥様の話は聞きたくない、話題にしてほしくない、思い出す暇も与えたくない、きっと私の本音。

 

私は、生きる権利のある奥様を殺そうとしている。私は殺人者なのだろうか・・・・。

 

やっぱり、悲劇のヒロインなのだろうか。でも、満たされない気持ちはどこかで吐き出していたい。