はい。昨日はは3.11ということで、長文投稿します。
私の想いが全国に届けばと思います。
みたくない人もいると思います。なので見たくない人はスルーはしてください。
最後まで読んでください。あと、誤字などがあります、ご了承ください
2011.3.11 14時46分18秒
当時私は11歳。小学5年生
その日も私は普通に学校行ってた。
金曜日だったのもあってその日は、普段ある部活がなく、バス通学だった私は46分のバスにのった。
帰る時も、隣の席の男の子に「また!月曜日!!」っていって、放課後になった。
バスに乗って、発車する時突然揺れたんだ。
最初は、ミラーが揺れてて「あ、風かな」って思った。
でも、その揺れはだんだん大きくなった。
バスの運転手さんは、地震がおさまりかけた時「とりあえず発車するから」
っていってバスを走らせた。
私の家は山側だった。海からは結構離れてた。
家に帰る途中瓦屋根は下に落ちてて、幼かった私は当時何が何だかわからなかった。
家に着くとおばあちゃんが「近くの避難所に避難するよ!」って言って、着るものとか必要最低限のを持って避難した。
そっからおにぎり貰ったりして、避難生活が始まった。幼い私は何が何だかわからなかった
原発?何それって感じだった。
津波でたくさんの人が死んでいる。親戚のお兄ちゃん、友達、おじさん。掲示板に貼られてる名前の数。
私はただ、呆然と、立ってることしかできなかった。
クラスメイトの、子が走ってきて、「〇〇くんが‥」って言ってた。
私はその掲示板を、みて泣くことしかできなかった。
その掲示板には私の隣の席だった男の子の名前が書いてあった。遺体で見つかったんだ。
避難所だった場所に津波が来てのまれて、制服のまま‥。
私はそこから記憶喪失になった。
でも、そこまでの重症ではなかったけど、昔の記憶が思い出せなくなった。なんでなったのかは
多分ショックだったからだ。
そして、地獄が始まった。避難所の、トイレが故障してて外の公主便所を、使ってたのに原発爆発したせいで中のトイレを直して外は出ちゃいけなくなった。
あそぶ場所が制限された。
そのうち、県外に避難を余儀なくされて
お父さんと、おばあちゃんと私の三人で親戚のある千葉へ避難した。
なにもかも始めてで、人の多さにびっくりした。
すぐ地元に帰れると思った。
でも、それが逆のことになった。
いつ戻れるのか話してるうち、うちの小学校が再開しないってのを知った。
だから、千葉の学校に通うことになった。
はじめての友達、環境、慣れないことばっかりだった。
でも。友達はいい人ばっかりで飽きなかった。
そこから二年間千葉の学校に、通った。
でもその二年間は辛いの一言で表せなかった。
お父さんとは月に会えるのが二回程度、
いつ帰れるのか‥不安に、なる日々。
そして、避難して二年後地元に帰ることを決心した。
帰って来てからは、色々あった。
千葉との差が激しかった。仲間には入れず、
でもそのことがあったからこそ、今の私があると思う。
そして今、私は高校を、卒業した。
四月からは新社会人になる。
あの時の私には未来は見えてなかった。
でも、目標はあったから。
皆さんは、普通の生活を、してたのにある日を境に普通が、普通じゃなくなったことを経験しましたか?
今までは家族三人だったのが、お父さんと離れ離れで暮らし辛い思いをしましたか?
私に起こったこと、東北の人に起こったこと
これは、本当につらくてつらくて仕方なかったことかもしれません。
今まで隣にいた我が子、親戚、兄弟、家族。
ある日を境にもう会うことのない人になってしまったとしたら‥
叫んでも、叫んでも
返してって叫んでももう二度と戻ってこなくなったら‥
一回は考えてみてください。
もし大切な人がいなくなったとしたら‥
たしかに、私に起こったことはちっぽけなことかもしれません。
べつに家族死んでないし。
でもね。友達をなくした辛さは何にも変えられません。
普通だったら、って今でも思います。
この想いが全国の人に伝わると嬉しいです。
被災地はまだまだ復興の途中です。
これからもどうか支えてください。
そしてこれが現実に起こったことを忘れないでください。
最後に。
長くなってすみませんでした。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
どうか全国にこの気持ちが伝わりますように。