父も母も、叔父も叔母(伯父も伯母)も、祖父も祖母も、「二十歳を過ぎるとあっという間よ~」という。
これを小中高の時代に聞いたとき、大人も子供も1時間は1時間だし、1日は1日だし、1年は1年だろ。
そう思っていたのだが、大学生になってはたちを過ぎてから、
はて?
と思うことがよくあるようになった。
というのも、実際に1日というか1年というかそういう単位で”いつの間にか時間が過ぎている”、と、感じているタイミングが増えてきたのだ。
いやまあ、酒も飲むようになったし、記憶を生産しない時を過ごすということも多々とあるが、にしても。。。。ということに同意は得られるか。
22にしてこんなことを感じているのは、大分寂しいことだというのは十分自覚しているが、始に上げたようにいずれは誰もが感じることであるので、、、この理由を考えたのであるが。
いつの間にか過ぎているというのは、どういうことを言っているのであろう。記憶がないのである。1日何かしら、家を出て、電車に乗り、職務をこなし、間に飯を食べ、糞をし、終えたら電車に乗り、酒を飲み寝る、などテンプレートな日常を過ごしたとする。でも、朝食は何を食べたか覚えている人はどのくらいいるのだろうか?電車に乗っていて自分が何をしていたか覚えているだろうか?
覚えていますという人もいるだろうが、”1週間前の”という修飾がつくだけでほとんどが答えられなくなるだろう。ハイパーサイメシアでもない限り、”1年前の”のそれを答えられない。
しかし、子供の、特に幼稚園生くらいの時なら、その日とその次の日くらいなら、朝ご飯に何を食べたか、電車の中で何をしていたか覚えてたような気がする。
この理由を何かしらで調べると、大体出てくるのが
①ジャネーの法則
②新鮮さ、驚きが無くなるから
③同じことを繰り返すことが多くなるから
ということが、NAVERまとめとかに書いてあるのだが。
①、③に関しては、正直理由になっていない。と理系的に、というより医学的に思う。
まず、ジャネーの法則というのは
”生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)と主張したものである。
例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。”
*Wikiコピペ
ということらしいが、具体的な数値とか出す割に経験則でしかなく、しかも何故そうなるのか全く説明がない。少しでも、理由を全知全能の最愛の友google先生に探ろうとすると、仏陀は「命の長さは一息つく間もありません」と言った弟子を褒めたたえたとか訳のわからない方向に結論を見出そうとするので却下。(別に宗教を否定したいとかではない、ただそこに理屈を求めたい訳ではない)
③に関しても、小中高と学校行って帰ってくるといった行動のパターン性はあるので否定的である。
最も、理屈を求められそうと私が思ったのは、②に関してである。
ここからは、神経科学にもとづいた私個人の見解である上でよんでいただきたい。
記憶というのは海馬というところで作られるのはご存知であろうが、実は保存される場所は海馬だけではないということは知っているだろうか?
医学を少々かじっている身ながら私も今年になってから知ったことだ。何かを見たり聞いたり味わったりする、それを快、不快に感じ
るということが、それぞれ後頭葉の1次視覚野、側頭葉の1次聴覚野、島皮質、偏桃体で興奮として脳受け取ると同時または後に、海馬に信号が送られ、記憶の生産が行われる。記憶の形成は一瞬にして行われるわけではない、記憶の重要性やインパクトによって強いほどより長く海馬の興奮(活性化)が起こる。
その過程で、海馬の興奮がある一定より強く長く興奮したものに関して、再びその興奮の出どころ、つまり1次視覚野、側頭葉の1次聴覚野、島皮質、偏桃体等に返球され、記憶は定着する。
一般に(世の中的に)、脳内で海馬の興奮している最中に引き出されたものが短期記憶、海馬以外の出どころから引き出されたものを長期記憶という。つまり、短期記憶に関しては、遅かれ早かれ1時間、1日、1週間という比較的早いタイミングで捨てられることの決定した記憶である。
さらに、記憶の形成にかかわるのは何も感じたことだけではない。前頭葉(前頭前野といった方がより的確か)では、何をしようか(昼食に何を食べるか、帰ったら何をしようか)といった主体的な行動概念のプログラムを生み、そこから一次運動野等に信号が送られ実際に行動する。その過程の脳の興奮、つまり昼食でラーメンを食べよう、と考えたこと、帰ったら部屋の掃除をしようと考えたこと、また、実際には昼食でカレーを食べたこと(これは行動を司る前頭葉の部分と、視覚、味覚などの知覚の部分)、家に帰ってから面倒になり漫画を読んだこと(前頭葉、視覚野など)、out put に関しても記憶として保存されうる。
さて、記憶とは初めて経験したことはより強く興奮するようになっている。それは何故かというと、あるものを見たり聞いたり(知覚)したとして、それに対してある行動を起こす場合、それを知覚する段階でそれを分析し解釈する必要があり、さらに初めての何の対抗策も持ち合わせていない条件で前頭葉によって行動のプログラミングが起こる。その結果、より多くのそしてより長時間の神経細胞興奮が必要となり、海馬の興奮時間も比例して長くなるからである。例えば、山で熊に遭遇してどのように生き残るか考えるというようなときこのようなことが起こる。(現実的な出来事としては、今まで食べたことのないほどおいしいが、形状が米でもパンでも麺でも無かったときに、友人にどんな食べ物でどんな味がしたか説明しろと言った時など)
この長期記憶の結果によって得ることを説明するのはなかなか難しいが、私は知覚から行動の最速化であると考える。
信号の例えは分かりやすいと思う。信号を見て赤であったとしたら、止まって待ち、青になったら渡る。すべての者が、信号を見たときそれを信号であると認識し、赤か青か確かめ、赤の場合止まり、青になったら渡ってよいことを認識し、渡り始める。が、どれだけの人が、意識下でこれを行っているだろう。恐らく、多くの人は赤→止まる、青→進むという知覚から行動へのプログラムが記憶されているため、最適かつ最速の行動を行えている。記憶を生産していなければ、いちいち赤でも渡れるのではないかと青でも危ないのではと考えたりと赤青と認識してから行動するまで判断を要するので、最適は可能でも最速はかなわない。
子供にとっては、朝昼晩にご飯を食べること、またその内容、電車に乗ること、電車から見える景色や駅名といったあらゆることに無知であり、また、その情報を必要性の上で分別する基準の情報も、すべてにおいて無知であった状態から少しづつ記憶として刻み続け成長している。
その結果、朝食、電車の景色等大人の覚えていないことも一旦は頭に記憶として刻み込む。
大人にとって、特に社会に出てからは、すでに知っていることも多く、また新しい情報に触れたときそれが必要か否か判断する基準も個々で持ち合わせているため、一旦でも記憶として刻み込む必要のあるものは限られてくる。社会に出てしばらくしたら、一見未知なものでもそのほとんどが実はパターン化された生活の上では、不要もしくは記憶(この場合長期記憶)を形成するほどの脳の興奮を要しないで判断(すでに記憶していることの中から対応策をひねり出す)でいけるからである。
その知覚と行動において記憶化するに値しない。
と、いうわけで我々は効率よく人生を生きれるようになっていくわけだが、記憶化の過程が日常生活において少なくならざる得ないので記憶の中で短く感じるのである。
これに対する対抗は、また書くかもしれないが、それはだいたいNAVERまとめと結論は変わらないと思われる。
はあ、疲れた。自分の考えていることをただ文章化するだけでこんなにも疲れるものなんだなあ、、