TABIBITO

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自然に 素朴に 明日をみつめて

少し前になるが、5月にNHKで「ヨウジヤマモト~時空を超える黒~」という番組が放映された。

 

ヨウジ・ヤマモト(山本耀司)は、黒を基調とした服で、パリ・コレなどで世界的にも脚光を浴び、「ファッション界に革命を起こした男」と呼ばれる、世界のトップデザイナーである。

 

この番組の中で、日本で古くから伝わる風習である「背守り」が登場した。

 

これまで、私も神社で、七五三でお参りに来た子どもさんの背中に、花の紋様のついたアップリケのようなものを背中に縫い付けているのを見たことがあった。

 

 

「背守り」とは、乳幼児の着物の背中に着けた、魔除けのお守りである。

 

「広辞苑」(机上版)には、「背守り」とは「幼児の一つ身の着物の背の中央にお守りとして縫いつけた紋。襟肩下に色糸で飾り縫いをする。背だて。せまぶり。せもり。」とある。

 

背守りは、遡ると鎌倉時代頃からあった風習で、江戸時代~大正~昭和初期位まで続いていたとされる。

 

鎌倉時代に描かれた絵巻に、子どもの背中に、それらしいものが描かれている。

 

 

なぜ、そんな慣わしが昔からひろまったのか。

 

その昔、あっけなかった乳幼児の命──おまじないや願かけ

 

江戸時代の平均寿命は30歳~40歳といわれ、その大きな原因が乳幼児死亡率が高かったことにある。生まれたばかりの赤ちゃんの3人に1人は、生き延びることができなかった。

 

生まれたばかりの乳幼児があっけなく死んでしまうことから、「7歳までは神のうち」と云い伝えられたほどだった。つまり、7歳まではいつ、ふっと消えて神様のいるあちらの世界に帰ってしまうかもしれない、7歳(当時の満年齢で6歳)を過ぎてやっとこの世の人間として数え、ちゃんとした名前も付けたという。

 

当初は、生まれたばかりの赤ちゃんの無垢な愛らしさが、神様や魔物が、乳幼児をあちらの世界に連れて行く理由だと考えて、母たちは、わざと汚いボロに包んで赤ちゃんを隠したり、おまじないを唱えたりもしたという。

 

東北地方では、夜外出する際や、子どもがくしゃみをして風邪をひきそうになったときなどに、赤ちゃんに「いん(犬)のこ(子)いん(犬)のこ(子)」と唱えた。「この子は犬の子で、人間の子じゃありません。とるに足らない犬の子だから、神様どうか命を奪ったり、災いを与えたりしないでください」と願ったという話も伝わる。

 

また、地方によっては、「オムツを夜、外に干しておくと魔物に赤子がいることが分かってしまう」「夜泣きすると泣き声で魔物を呼び寄せてしまう」からと、魔物が動き回る夜になると親たちは細心の注意を払っていたという言い伝えもある。

 

さらに、「苦い物」、「臭いもの」を魔物が嫌うとされ、よもぎやショウノウを魔除けにしたという例や、赤い色が魔を除けるからと、赤い布や南天などの赤い実、赤い餅や赤いお札を赤ちゃんに身に着けさせたという話しもある。

 

子どもを魔物から守るために、考えられる、ありとあらゆるおまじないや願掛けをしたのてある。

 

能動的に、母親が針と糸で形を作る守り方が「背守り」

 

それぞれの地方や時期によっても違うが、それらが、もう一歩、能動的に、母親が針と糸を用いて形にして、小さな命の守り方の一つの方法として定着したのが「背守り」である。

 

背守りは、東北地方では「エナギ」、沖縄では「マブヤーウー(魂護)」、他にも「背紋」「モンカザリ」「セジルシ」などさまざまな名前でよばれ、日本全国にあったという。

 

 

古来から魔物は、背中から忍び寄り、襟元、袖口などから入るとされていた。背中と言うのは、自分で決して見ることができない部分で、人にとって「弱点」とされていた。また、背中は、中世以前に伝わった、鬼が棲む「うしろ」の世界(様々な霊魂が自由に行き来できる領域)に通じる境界とされた。

 

大人の場合は、反物を2枚並べてそれを縫い合わせるので背中の真ん中に、左右の見頃を縫い合わせた「縫い目」がある。この「縫い目」が、後ろから来忍び寄る魔物を見張る目となり、魔物がやってきても、その目が睨んで魔物を退散させる役割を果たしたという。

 

しかし、小さい子どもの着物の場合、「一つ身」で反物1枚で間に合うため、背中にこの「縫い目」がない。そのため、わざわざ背中に糸目を施して、魔よけとする風習が生まれた。それが後に「背守り」とよばれるようになった。

 

糸で縫い目を付けただけの素朴なものから、吉兆文様などをかたどった刺繍やアップリケなど、事態゛や地方によっても様々だ。ただ、針と糸さえあれば、母親なら誰でもでき、特段、高価な材料を買う必要もないため、圧倒的多数の貧しい家庭でもできたため、日本中に広がったのである。

 

長年に渡って「背守り」の収集と研究を続けてきた、逗子市在住の藍染作家・鳴海友子さんが、「背守り 子どもの魔よけ」(LIXIL出版)の中で次のように述べている。

「裕福な家の子どもは病気になっても治療を受けることができました。でも、庶民の子ども、あるいは、もっと下層の子どもたちは治療も受けられない。食べ物も貧しい。今よりはるかに厳しい生活環境だったと思います。そうした中で、とにかく丈夫に育ってほしいと、母親は針仕事に祈りを込めて背守りをつけた。貧しさゆえの祈り、その祈りに込めた母親の思いの深さが切々と胸に迫ってきます」

 

 

 

1本の糸に、あるいは、紐や布切れに、母親が子への願いを託したのが「背守り」である。

 

様々なバリエーション

 

その「背守り」にもいくつかバリエーションがあった。

 

一番シンプルで、基本的なものが、「糸じるし」で、着物の背中の中央に、縦に何針か縫い目を付け、それと交差させるように、また何針か横や斜めに縫いつけるというもの。

 

 

例えばの縫い方として、縦に9針、斜めに3針縫う、1年12カ月にちなんで12針というわけだ。そして、その最後の3針が男の子なら左に、女の子なら右に縫い降ろす。糸の端は、男の子なら切り、女の子の場合は結ぶというやり方。

 

縦に1本長く縫い、左右に斜めに1本づつ縫うやり方。縫い終わりの糸の先に、おみくじのように畳んだ和紙を結び付けて置くというもの。

 

他にも、色どりの糸を何本か合わせて、縫い終わりの糸を房のように長く垂らすものなどもある。

 

また、糸で縫い目をつける代わりに紐を縫い付け、背中に長く垂らしておくというものもある。

 

縫い終わりの糸や縫い付けた紐などは「長いほど長寿になる」と言って長めに残しておく場合が多かったようだ。

 

なぜなら、川や囲炉裏に落ちるなど、子どもに何か危険なことが起きたときに、神様がこの糸や紐をつかんで拾って助けてくれるようにとの思いからだった。

 

ただ、地方によっては、逆に、垂れさがった糸やひもを、ひっぱるとすぐに抜けるようにしている場合もある。これは、魔物に掴まれたときに、すぐ逃げられるようにするためである。

 

引っ張ってくれる相手が、神様か魔物かによって違ってくる。

 

地味な着物に真っ赤なひもを垂らしたり、襟に赤い糸で飾り縫いをするなどのケースもあった。これも「赤」が魔除けになるという言い伝えからだという。

 

いずれにしてもやり方は、それぞれの地方や、それぞれの家庭によっても様々だったらしい。

 

 

もう一つは.刺繍で、鶴・亀・松葉・熨斗(のし)などの吉祥文や、打ち出の小槌、麻の葉や龍目など、めでたいもの、魔除けの意味を持った模様を色どり良く刺繍した。「背紋」あるいは「飾り縫い」とも呼ばれた。

 

 

明治以降は、背守りが女学校の裁縫教科書にも載るなどで、文様がさらに多様化し、装飾性を備え、千鳥や花束、でんでん太鼓、日の丸の国旗、パラソルなどおしゃれで多彩な刺繍も施されるようになった。

 

そして、押絵(おしえ)。

布細工の1種で、小さく切った布の中に薄綿を包み込み、ふくらみを持たせ、それを着物に縫い付けた。押絵は江戸時代の羽子板などで流行したものだが、立体的なアップリケといえる。

押絵は、ある程度の高度な裁縫技術と時間を要するが、その模様は、亀や鶴、宝袋に蝶々、人形、ネズミなど種類も豊富で、見る者の目も楽しませるものだった。母親たちは子どもの無事な成長を願いながら、一針、一針丁寧に仕上げて行った。

 

しかし背守りのデザインは厳密に定められていたわけではなかった。モチーフや運針数、糸の色などには母親の習慣や伝統、趣向などが影響し、さまざまなデザインの背守りが生み出された。

例えば、生命力が強くまっすぐに育つ麻にあやかった「麻の葉」や、長寿の象徴である亀を図案化した「亀甲」、持ち主の身を守ってくれる道具である「矢」などのモチーフもよく用いられた。

 

「背守り」に似た各地の風習

 

昔も今も、「背守り」とはよばないが、背守りに似た風習が各地に伝えられ続けてきた。それらも、きわめて興味深いものがある。

 

金沢では「百徳」と呼ばれる子どものための着物がある。「寄せ着物」ともよばれた。子育ちの良い家庭や、長寿の年寄りから端切れをもらい集め、100枚を丹念に縫って子どもに着せると丈夫に育つというものだ。つなぎ合わせ、重ねられた端切れが実に多彩な色のグラテーションを生み出している。100人もの多くの人から徳をいただき、その加護によって健やかに成長することを願ったという。地方によっては33枚とか48枚というのもあったようだが、250枚の端切れを縫い合わせた「百徳」もある。

 

 

そして、この気の遠くなるような、端切れを縫い合わせる「縫い目」に、子どもの命を魔物から守る呪力があると、母親たちは、ひたすらこの大仕事に精を出したのであろう。

 

また、沖縄では、ススキなどの葉を十字に結んだ「サングァー」(サン)というお守りがある。その昔から、家や子どもたち、お供え物や、食べ物などをマジムン(魔物)から守ると信じられてきた。ワラやススキ、糸芭蕉の葉を輪結びにしたもので、魔除けの役割があると信じられている。

 

沖縄では昔から親が子供に持たせたり、近所に食べ物をお裾分けする時に一緒に渡したりする。

家の玄関先にサンを刺して、家にマジムンが入らないようにしたり、子どものいる部屋や枕の下に置いたり、出かけるときに持たせたりして、子どもにマジムンが取りつかないようにしたという。

 

また、中国でも、昔から子どもたちの使う帽子、手袋、胴着、靴、枕、腹掛け、掛布団などに虎の顔を縫い付けた。また、ヘビ、サソリ、カエル、ムカデ、トカゲなどを、子どもの服やよだれ掛け、チョッキや腹掛けなどに刺繍を施したりしたという。地方によっては、5月5日の端午節には、布で虫を形作った小さな人形を子どもたちの背中に吊るすという風習もあったという。

 

やり方や名前は違っても、子どもに魔物を近寄らせず、子どもを守りたいという親の強い願いは変わりない。

 

現代でも生きる「背守り」

 

背守りは洋服文化が発展し、着物を着ることがなくなる中で姿を消し、子どもの背中の「縫い目」に祈りを込めるという慣わしも過去のものとなった。

 

しかし、子どもが元気で健やかに成長してほしいと願う親の心には変わりがない。
各地で、ワークショップ、母親の会や手芸愛好会、親子支援事業などで、現代版の背守りづくりが行われている。その中で、「背守り」という文化についても語り継がれている。

 

Tシャツや赤ちゃんの肌着、ハンカチや帽子、さまざまな場所に願いを込めたお守りが付けられる。
デザインも時代に合わせて、豊富で自由になり、さまざまなモチーフが使われている。

 

針と糸、背守りの型紙などがセットになって、初心者でもすぐに背守りを縫うことができる、「【背守り】練習帖」(発行【株】エクスプランテ)というセットも売られている。、

 

 

 

こうした中で、ヨウジ・ヤマモトのファッションデザインのひとつとなる中で、いっそう関心が広がるかもしれない。

 

 

今よりも、子どもが不慮の事故や病によって命を落とすことの多かった時代に、子どもの命を守ることを祈り、健やかに成長を願い母親の愛情を込めた手仕事である背守り。

 

いま、新型コロナ感染症の「デルタ株」が広がる中で、子どもの感染割合が増え、学校や保育園、学童保育などでもクラスターが広がっていることに、多くの親たちは不安を募らせている。

 

また、保育園児の散歩の列や小学生の通学の列に車が突っ込むという事後が相次いで起きている。

 

さらに、毎年のように、日本各地を「50年に1度」「100年に1度」の記録的な大雨が襲い、土砂災害や川の氾濫・決壊などで甚大な被害が出ている。

 

着物を着ていた時代とは違った様々な危険が子どもたちをとりまいている。

 

こんな時代だからこそ、あらためて、古の時代から続けられてきた、我が子の命と健康を願う母親の思い、優しいまなざしを、針と糸に込めた風習である「背守り」が、伝えられ、広がっていく意義があると思う。

 

前出の鳴海さんは、背守りについて次のように言っている。

「祈りには《静》と《動》の2つがあると思います。思いを込めてひたすら祈るのが《静》だとすれば、その祈りをなんらかの形にしようと行為に移すのが《動》。母親が自ら手を動かしてつくった背守りは、この《動》の祈りから生まれたかけがえのない造形なのではないでしょうか」(「背守り 子どもの魔よけ」LIXIL出版)

 

現代においても、形はどうあれ、母親の「 《動》 の祈り」こそ、子どもたちが健やかに育つための、かけがえのないお守りとなることだろう。