究極的には、この世界には、

 

大いなるひとつの意識しか存在していません。

 

ところが、自我やマインドには、そう思えず、

 

絶えず、「これを得よう」「こうなりたい」と思考を働かせています。

 

大いなるひとつの意識からすると、すべての現象は、

 

「体験学習遊園地」

 

遊びであり、内側を映す単なる映像に過ぎません。

遊園地に行くとき、そんなに目標を掲げて行きませんよね。

 

大多数の人は、時間があって、楽しそう、面白そうだからひまつぶしに行くわけです。

 

 

 

昔、余語翠巌老師という、素晴らしいお坊様がいらっしゃいました。

 

何かの講演会の帰り、タクシーに乗ったときのお話です。

 

タクシーの運転手は、お坊様が乗車してきたからでしょうか。

 

これまでの自分の人生の艱難辛苦を

「あれが辛かった」「こんな大変な想いをした」と20分程にわたり語り続けました。

 

その間、老師は聞き続けました。

 

 

で、到着して、老師がひとこと。

 

 

 

 

「色々あったから、退屈せんで済んだんじゃ」笑い泣き

 

 

これが言い放てる老師は、本当にすごいです。

 

 

このセリフもそうですが、私が本当に素晴らしいと感じたのは、

この言葉だけではありません。

 

老師の観点からすると、目の前の出来事は、大いなるひとつの意識の投影であると

心底感じてるので、

 

すべてはひまつぶしなのす。

 

普通のお坊様なら、「お辛かったですね」「でも、こういう考えがありますよ」

「こう捉えたら楽になりますよ」と運転手の話を遮り、説法したいところですが、

 

老師は、どこまでも「心ある聞き手」として、20分間話を聞き続けたのです。

そのすごさ、そして優しさなんです。

 

人生経験が深い人ほど、何かアドバイスしたくなりがちですが、

老師は、徹底して、この世界の真実「人生はひまつぶし」ということをご存じだったのでしょう。

 

つまり、諸々の想念や思考が重要ではなくなるという表現ができます。

 

ですから、すべてが「たわごとびっくり」となります。

(「たわごと」とは、枝葉末節的であり、ほとんど重要性がないという意味で使ってます)

 

それが解ってから、老師の表現や行動にも、まったく引っかからなくなりました。

 

 

だって、老師の言っていることも「たわごと!」だからです笑い泣き笑い泣き

 

 

そして、もちろんこのブログの記事も「たわごと!」なのですガーンガーン