佐高信『いま、なぜ魯迅か』ロゴス    櫻井智志

 

 ロゴス、とは言葉であり、理性、論理と解している。著作の言葉と論理に沿って、という意味で付した。

 佐高信氏は、『いま、なぜ魯迅か』を執筆した。全14章から構成されている。私は、ひとつの章を140字のツイッターで表した。いままでの書評のように自分の言葉を使わず、佐高氏の言葉―書中の語句―を使い、140字を1章として、はじめをひとつにあてて最終を15番目とした。1~15のはずが、己のツイッターを遡り、4月30日で容量を終えていることにはっとした。したがってここに掲載したのは、後半の8~15までである。

  1~7章の前半は今回には入っていない。後日を期したい。

 

 

 

魯迅は死を美化してはいない。野垂れ死ぬより生きることを主張。『彷徨』に収められている「孤独者」という作品で、「ぼくは・・・もうしばらく生きていたい・・・」と作中人物に言わせ、こう呟かせる。「今ではそんな必要はなくなったのに、生きられる・・・」

 

魯迅が東京留学中に友人と共に漱石の旧居に住んだことはよく知られている。日本の作家の中で、魯迅は唯一、漱石にだけは傾倒したと言う人もいる。では漱石の何に惹かれたのか?私はその諧謔に共感したのではないかと思う。共にユーモアの風が吹いているのである。

 

魯迅の影響を受け、“日本の魯迅”と呼ばれた作家やジャーナリストの中で、私は中野重治、竹内好、そして、むのたけじに注目したい。佐藤春夫や太宰治、堀田善衛の名を逸することができないが、中野、竹内、むのは私が切実に生き方に関わって読んだからである。

 

 戦後まもなく竹内は「中国の近代と日本の近代」と題した評論を発表している。副題が「魯迅を手がかりとして」。中国文学者でありながら思想家とも言えた竹内の思想の核にあったのは魯迅だった。竹内は一九七七年三月三日に亡くなった。通夜わが師久野収は号泣した

 

竹内好の怒りは太宰治が魯迅を天皇制賛美者にしてしまったからだ。仙台で幻灯を見て「健全で長生きしようとも無意味な見せしめの材料と見物人になるだけではないか」(『吶喊』)と思い医学から中国人精神改造の文学へ転向した魯迅がどうして天皇制讃美者になるか。

 

「沖縄の差別の現実はなぜ生みだされてきたのか。その差別を生み出したものは何であるのかを歴史的に問いつめながら私たち教師は『わたしたちの沖縄』を教えてゆかなければならない。沖縄の現実を教える教育が偏向教育なのではない。沖縄の現実が偏っているのだ」

 

 「今度の革命の先頭に立って、旗を振った者は魯迅である。魯迅は大文学者であり大思想家であった。青年よ魯迅の足跡を踏め」。私はこの毛沢東のホメ殺しのような讃辞には異論がある。毛沢東は文化大革命をやるが、魯迅が生きていたら断固として反対しただろう。

 

  魯迅は永遠の批判者である。評論家ならぬ小論家の私に対してよく「あいつは批判ばかりしている」とか「批判するのは簡単だ」とかいう言葉が投げつけられる。簡単と思うなら批判してみるがいい。歓迎しないリアクションが返ってくることを彼らは知っているのか。

 

  私は魯迅の徒として「批判が生ぬるい」という批判は受け入れても、「批判ばかりして」という難癖を受けつけるつもりはない。私は「批判をし抜く」ことを基点としているのであり、「お前の批判は足りない」と言われた時にのみ、さらに奮起するのである。

 「批判をし抜く」人は必要であって、そこにしっかりと踏みとどまって批判の言葉を研鑚したのが魯迅だった。 <了>