禅と悟りの違いを臨済録に学ぶ|分別を超えた本来無事の心とは
「悟った」「悟っていない」という言葉にこだわる私たちの心の奥には、常に何かと比較し、評価し、区別しようとする傾向があります。しかし臨済の言葉は、それ自体が私たちの思考の枠組みを打ち破るものでした。今回は『臨済録』を通して、「本来無事」とは何か、「求める心」をどう手放すかについて一緒に考えていきましょう。
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1. 本来無事ということ
・自分自身が無事であると知る
臨済は、「大丈夫児(偉丈夫)は本来無事である」と言いました。ここでいう「無事」とは、何も問題がないという意味ではなく、外に求めずともすでに満ち足りているという境地を表しています。私たちはそれに気づかず、いつも何かを足そうとしてしまいます。
なぜ人はそれを信じられないのか。本来無事の自分を信じられないからこそ、人は不安になり、評価を求め、比較をし続けてしまいます。悟りとは、そうした心の動きが静まり、「ただ在る」ことの中に安らぎを見出すことなのです。臨済のこの一言には、深い安堵と厳しさが込められています。
2. 頭を探すという愚かさ
・外に向かう心が苦しみを生む
「頭を捨てて頭を探す」という言葉は、私たちがすでに持っているものを見失い、さらにそれを外に探そうとする愚かさを表しています。自己の本質は常に内にあるのに、それを外の世界や他人の評価に求めてしまうのです。
比較と評価の罠から抜け出す。他人と比べたり、自分に何かが足りないと思い込んだりすると、心はどんどん不安定になります。求めれば求めるほど、自分を見失っていくのです。禅はそのことを厳しく指摘し、「今ここに在ること」へと意識を戻すように導いてくれます。
3. 修行とは何かを問い直す
・見解の真偽を見極める
臨済は、あらゆる師に教えを請い、認められることばかりを求める学人に対して、「それは本物の修行者ではない」と断じています。真実の修行とは、外の評価ではなく、自分自身の内にある真理を見極めることにあります。
弁舌よりも内なる沈黙を。言葉の巧みさ、理屈の巧妙さが修行を意味するわけではありません。臨済は「弁舌が滝のようでも、それは地獄行きの業作りだ」とまで言います。真の修行とは、沈黙の中に心を澄ませ、余計なものを手放していくことにほかなりません。
4. 「今そのまま」が悟りである理由
・禅における「現今」とは
臨済は、「わが禅宗の見地は現在そのままである」と語っています。ここには、過去を悔やんだり未来を案じたりすることなく、「今、目の前の現実にこそ悟りがある」という深い教えがあります。私たちは何か特別な経験や理解を求めがちですが、禅はそれを否定します。
実体のない法という指摘。「説法はその時その時の病に応じた薬であり、実体的な法などない」と臨済は言います。これは、教えそのものにとらわれることの危険性を指摘しているのです。教えはあくまで導きであって、絶対的な真理ではない。今の自分に必要なだけを受け取ればよいのです。
5. 分別を超えるという修行
・悟りへの執着が分別を生む
「悟った」「悟っていない」といった区別をする心そのものが、すでに分別の心であると禅ではいましめられます。そうした区別心を持つ限り、私たちは永遠に本当の意味での自由にはたどりつけません。
差別と評価からの解放。日常生活の中でも、私たちは無意識にあらゆることを比較し、評価しています。それが煩悩の源であり、心の安らぎを妨げる最大の要因でもあります。禅が目指すのは、そうした思考を一つ一つ手放していくこと。すべてのものが、あるがままでよいという境地に至ることです。
最後に
『臨済録』に込められたメッセージは、現代を生きる私たちにも大きな示唆を与えてくれます。自己を信じきれない不安、何かを得ようと外に求め続ける心、評価や比較に左右される日常。そのすべてが、「本来無事なること」を見失わせている原因なのです。
禅は、決して特別な知識や体験を必要としません。目の前の一歩、今のこの瞬間に、すでにすべてがあると知ること。それだけで、人生の風景は大きく変わっていきます。
求めることをやめ、分別を手放し、ただあるがままの自分を認める。その中にこそ、臨済が語った「真の修行」があるのではないでしょうか。日々の暮らしの中で、少しずつでもその境地に近づいていけたらと思います。