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学白 gakuhaku

精神科医 斎藤学のコラム

前に述べたと思うが「浪人時代」(1983~’85年頃)の私はアメリカ・ミネソタ州ミネアポリス郊外にあるヘーゼルデン・インスティテュートという、アルコール・薬物依存者回復施設に滞在した。私がリカバード(回復者)カウンセラーなるものを知ったのはこの時だった。湖畔の広大な土地に宿泊施設が点在する贅沢な作りなから、医者も精神科医も非常勤で、専ら回復者カウンセラーがセラピストを勤めているのが新鮮たった。私も「東京から来たアルカホリック(アルチュー)」ということにしてもらって朝晩のシェアリング・グループに参加した。因みにヘイゼルデンという名前は、この土地の所有者だった人の姓だと聞いた。

ここを去ってからフィラデルフィアのペンシルヴェニア大学を訪れたのは先輩の林田基先生(後年日本に戻り久里浜アルコール・センターの所長を数年務めた)がそこの準教授ポストに就きつつ、アルコール・薬物専門外来(入院は隣接するヴェテランズ・ホスピタルを使っていた)に勤務していたから。そこでも数人のリカバード・カウンセラーが、正規のカウンセラーと一緒に働いていた。「正規の」というのは臨床心理学の修士号を取り、一定の研修を経て州の認定を受けた心理士という意味である。リカバード・カウンセラーの方はAA(アルコホリックス・アノニマス)やNA(ナルコティクス・アノニマス)を使って断酒・断薬を達成してから18ヶ月ほどの研修を受けてカウンセラーとしての資格(おそらく州の認定)を与えられるそうだ。

「嗜癖からの脱出に成功すれば良いことがある」と説いていた私は、アメリカでの体験を経て、「良いこと」のひとつにリカバード・カウンセラーとして働くことがあるのではないかと考えるようになった。

既にダルクはエクス・アディクツ(元嗜癖者)がカウンセラーを勤めている。その形で全国90カ所に施設があるというのだから、国家資とか学会認定とか、お構いなく、既に沢山のリカバードないしリカバリングのカウンセラーがいるわけだ。その人々は主としてNA(ナルコティクス・アノニマス)という12ステップを使うアノニマス・シェアリング・グループで自身のクリーンネス(薬物を用いないこと)ないしソブライアティ(素面でいること)を維持している。

薬物嗜癖者以上に数も多いし、事態も深刻を極めているのは、男女のうつ病者や女性の摂食障害者や、主として男性の自己愛的対人恐怖者(「ひきこもり」の多くはこのタイプ)たちである。彼らの多くには医師や心理セラピストによる「治療」が効果を持たない。いっそのこと、彼らにもリカバリング・カウンセラーによる自助的で、シェアリングを多用する回復の場を提供できないだろうか。

このように考えて摂食障害者のための自助的グループ(NABA)を立ち上げたのは1980年代のこと。一時はナバ・ミーティングをクリニックで開いたりもしていたが、10年間関与してからは、これにはかかわらないことにした。勿論、本物の自助グループとするためである。私が抜けてからの方がナバは良くなったと思っている。

彼女たちの過食ビンジも病的ファスティング(飢餓維持)も、下剤乱用も、窃盗も医者たちが直すものではない。彼女たちの気が済むまで待つほかない。同じことは痴漢行為や覗きなどのパラフィリア(性倒錯)についても同様(「依存症と家族」学陽書房、2009)。なら、この人たちの中の回復者や回復途上者に自らのアディクションについての話しをさせた方が良さそうだ。

依存症と家族


そのように考えて去年の5月から、毎日曜日5時間を回復期助言者(リカバリング・アドバイザー)の養成にあてることにした。これは何の資格もとれませんよ、私(斎藤学)の塾みたいなものですよ、断って入塾してきた第一期の30人は既に卒業し、私のスーパーヴィジョンを受けたり、私から紹介されたクライアントと接したりする養成第2年目に入っている。一方、5月3日(日曜日)からは定員20名の第2期生の講義がスタートした。

なお、今年度から、平日午後6時半から2時間半ずつ2年間の平日コースが始まり、定員の15名に達したとの連絡を受けた。とは言え、スタートする7月までにはまだ間があるので入塾のご希望のある方は問い合わせでみて欲しい。

リカバリング・アドバイザー養成講座〈平日コース〉第2期
昨日(5月7日)の午後2時半から5時まで、伊藤比呂美さん(詩人)をお招きして、我がクリニックの利用者たちと歓談した。私は1980年代の詩集『青梅』以来、彼女の読者だが、『あかるく拒食、ゲンキに過食』(平凡社)という本を共著したこともある。彼女は10代後半からの7年間拒食症女だった。

私には伊藤さんが何回も変身してきたように見えたのだが、昨日の午後、彼女自身の言葉で自分を繰り返し破壊し、それによって両親が、後には世間が期待するものから脱皮してきたと語ってくれた。

伊藤比呂美さん1


板橋から熊本へ、熊本からアメリカへという変遷。それに伴って「おまんこ」を連呼する女子高生詩人は「あたしは便器か」から、「胎児はウンコ」と詠いあげる「女の性の詩人」となり、親(特に父親)の期待を見事に裏切った。娘カノコの母親になると長編詩「カノコ殺し」を発表して、ジェンダー論者たちを置き去りにする。ところがこの子殺し詩人は、どういうわけか『良いおっぱい悪いおっぱい』の頃から「幼児を持つ母たち」の育児カリスマに祭り上げられ、これに耐えられなくなっての自己破壊が離婚と熊本脱出になったとの由。板橋から呼び寄せた両親を熊本に残して。

詩人は異国で言葉(日本語)を封じられることにより言葉を洗練し、苦難の後に大輪の花を咲かせた。それが『とげ抜き・新巣鴨地蔵縁起』(講談社、2007)というのが私の素人見立てです。この本のテーマは熊本に残した母と父をカリフォルニアと熊本の往還を繰り返しながら看取る話し。そこに基調低音のように説教節・信太妻(しのだつま)の一行が繰り返される。

 こいしくば
 たづねきてみよ
 いずみなる
 しのだのもりの
 うらみくずのは

漢字を入れて書くと、

「恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森の恨み葛の葉」
となって分かりやすいが説教節の風味は消える。

伊藤比呂美さんのは「かなもじ」の上に、「ふふふ」が入る。

 ふふふ、たづねきてみようらみくずのは。

のように。

どうやら比呂美さんは「しのだ妻」こと、童子丸、後の安倍晴明(平安時代、藤原道長の頃の陰陽師)の母に姿を変えていた白狐に自らを擬していたいらしい。たしかに彼女には「ふふふ、わたしほんとはたぬきだよ」と言いたいらしいと、いつも感じる。

先日、彼女宛に自著『「毒親」の子どもたちへ』(メタモル出版、2015)を送ったところ、共感した趣旨のメールを頂き、それと共になんと『新訳 説教節』(平凡社、2015)まで御寄贈頂いたので、これを機会に「お話伺いたい、皆で」とお願いしたわけ。御快諾頂いた上に今日は御著書『父の生きる』(光文社、2014)というお土産に恵まれた。私は新しい訳本『性嗜癖者のパートナー』(クラウディア・ブラック著、斎藤学訳、誠信書房、2015)を献呈した。

この木曜午後の時間はいつもだとクリニックのプログラム参加者に「古今の映画」を観てもらって、それについて私が一言言うという枠。で、先月からは「恋に落ちたシェイクスピア」、「十二夜」、「宝塚版・十二夜」、「ロミオとジュリエット」、「ウエスト・サイド物語」と来て、来週からは「もうひとりのシェイクスピア」、「ヘンリィ五世」(ローレンス・オリヴィエ監督主演)などを観ることになっている。シェイクスピア劇に出てくる人物たちは全て、我がクリニックの利用者と同質の人々なので、観ておいてくれた方が何かと便利なのだ。

また今日も話しが逸れた。次回は確実にシェアリング・グループの話しに戻す。
2週間前の日曜日(4月26日)には、私たちが「ジャスト(JUST)フォーラム 」と呼んでいるものがあった。ここ5年くらいは永田町にある日々谷高校の講堂・星陵会館を使わせてもらっていて、300名くらいが集まる。3000円ばかりを徴収する有料のもので、目的は我々(所謂、患者を含む)の日々の臨床で経験する「世間で可視化していないアディクション問題」について世間に紹介するという性格を持つので、その時々の話題に合わせたゲストをお呼びしてきた。少しでも多くの人々に私たちの気づきを知って貰いたかったからである。



母と娘の葛藤に焦点を当てた時は『放蕩記』(集英社)を出して数年後の村山由佳さんをお招きし、彼女とはその後『「母」がいちばん危ない』(大和書房)という対談本を出版した。

ここ2年は父・娘近親姦をテーマにしたので、かつて日本で始めて名前(通常用いているペンネーム)を出して『ファザーファッカー』(文春文庫)を書いた内田春菊さんに来て貰い、さいとうクリニックでの臨床から派生したインセスト・ヴィクティム(近親姦犠牲者)の自助グループ「SIAb.」(シアブ=サバイバーズ・オブ・インセスト・アビューズ)を立ち上げた人々のスピーチを聞いてきた。

それぞれに盛会だったが、年のせいか時間の流れが速すぎる。今年は未だ明けたばかりだ(と筆者は思った)のに広報用のチラシを作る時期だというのでゲストの準備もないまま「パーソナリティは変化する」というテーマを決めた。

かねてからの持論なので、今更なのだが、そう言えばアディクション現象を通じてこれを正面から取り上げたことはなかった。と考え、嗜癖者のキングとクイーンみたいな人々をゲストに招くことをようやく思いついた。

それが近藤恒夫(ダルクの創始者)と上岡陽江(女性ダルクの創始者で私のクリニックで週に一度のシェアリング・ミーティングを開いてくれている)それに松沢時代から私と歩みをともにしてきた岩本昭男(さいとうクリニック職員)で、それぞれ覚醒剤依存、過食症・自傷癖、アルコール依存からの回復者である。この人々と我がクリニック20年の経過を介した成長(パーソナリティ変化)がわかりやすい5名(うち一人は痴漢アディクションで2回計6年近い刑務所暮らしを体験し、ここ6年、再発のない人)との交流を考えた。

そういうわけで身内だけのこぢんまりした会になったが、参加した人々の満足感はむしろ例年より高かったのではないかと思う。私個人としては先史時代(?)からと思うほどに長い友人と思っている岩本、近藤両氏と私とが殆ど同年であることが何ともしれず嬉しかった。近藤恒夫とは半年、岩本昭男とは1年、私の方が年上である。

閉会後壇上で私が最年長であることを他の二人に確認させ、3人でハグした。オヤジハグは見た人には気味悪かったろう。

2週間も経つと他のことが書きたいので、ごく短い紹介になった。「パーソナリティは変化する」ということの中身は、この欄でおいおい明らかにして行く。

話が横道にそれている。リカバード・カウンセラーの話をしていて、私かその種の人たちの有効性に気づいたヘーゼルデン・インスティテュート(アメリカ、ミネソタ州ミネアポリス近郊)に入所(そこの理事長にお願いして見学者としてではなく、東京から来たアルチューということにしてもらった)したときの体験のこと、そこへの訪問を可能にした私の「浪人時代」のことを説明しようとしたら、出だしのところが長くなった。何事もことの事情を説明すると長くなるものだ。

今回もまた、全く別の方向へと話はそれる。私の現在の臨床活動のひとつは、幾つかの地域でワークショップを開くことである。私の治療方法は「家族介入に焦点付けられたアディクション・アプローチ」だが、私のいうアディクション(嗜癖)はDSM-5(アメリカ精神医学会が提案する統計のための診断基準集で、精神医学の論文を書くときには慣用的にこれを用いる)が規定しているものより遙かに広いので、大抵の家族問題はこのアブローチで取り扱うことが出来るのだ。

先日の日曜日は千代田区永田町の星陵会館で開かれたジャスト(JUST:日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン)という団体のフォーラム、その前の日曜日は、京都でLA関西のワークショップだった。いずれについても書きたいことが沢山あるのだが、プライバシーに触る部分を回避しながら最小限の記述に留めて、先を急ごう。

京都のワークショップは例年通り六角堂近くのウィングス京都(女性センター?)で、朝10時半から午後4時半まで。主宰したLA関西というのは夫婦葛藤や子どもたちの問題などに悩む女性たちの緩やかな集まりで、LA(レディーズ・アノニマス)と名乗ってはいるものの12ステップを使っているわけではないし、アノニミティ(匿名性)を強制させることもない。「とにかく会ってみませんか」(大阪弁ではどう言うのだろう?)という大阪的柔軟性で発足し、そのまま20年近く続いている会で、会則や会費もなかったような気がする。何分、年に1回のワークショップの時に接するだけだから、知らないだけかも知れないが。

LA関西は、さいとうクリニックが発足して数年後に、大阪から相談に来た女性が発起人になっている。この人は大阪の中学校の美術教師だが、現役の絵描きでもあり、二人の子どもの母でもあり、ギャンブルとアルコールに嗜癖している男(教師)の妻でもあった。わざわざ新幹線に乗って私のもとを訪ねた最初の理由は夫の嗜癖のことで、「どうしましょう?」という質問に対する私の返答は、「離婚して、放っておきなさい。それが夫である男性にとっても、あなたにとっても最善の結果をもたらします」というものだった。事実、結果は悪くなかったと思う。離婚後数年して、その人の元夫はひっそりと病死したが、その頃の彼はギャンブル癖から遠ざかり、泥酔を繰り返すこともなくなっていた。娘と息子一人ずつ、二人の子どもたちは成人し、それぞれの形で生きている。

この女性の他にも私のクリニックを利用してくれていた大阪の女性たちが何人かいて、15年前ほどに、まず大阪市での講演会が何回か開かれ、その後長岡京や京都でワークショップが開かれるようになったと記憶している。初期の頃は一泊二日の泊まりだったりしたが、ここ10年ばかりは今回のような日帰りにしてもらっている。その方が先方の手間も省けるし、こちらも楽だ。

とは言え、午前10時30分からのスタートとなると品川発7時17分の新幹線がギリギリ。これを逃さないように飛び乗ればいいのだが、入眠はいつも通りの午前2~3時だから結構きつい。今回は出がけに迷いが出てパソコンを抱えこんだので、一層つらいことになった。往復4時間の車中が勿体ないと突然思ってしまったのだ。原稿を書くためというより、映画を見ようと思い、持って出たのは『悪童日記』と『リトル・ブッダ』。結局、見なかった。原稿は数百字書いたが、今すぐ使えないものばかり。こうした時間惜しみが身を滅ぼすと知りつつ、またやってしまった。こんなものなのですよ。老人になったといっても。

このワークショップは午後4時半終了だが、12時半からは1時間の休みが入っているので、30人近い参加者全員(女性のみ)の話を詳しく聞くのは無理だ。まず、ここに初参加の人に手を挙げてもらい、その3人の人々からここに来るまでの経緯を訊いた。このワークショップのことをどこで知ったか、なぜ来ることに決めたかといったこと。この会話に絡めて私の治療的介入が目指しているところを知ってもらう。その後、私との会話を「今日ここ」で必要としている人々に挙手してもらい、手を挙げた5~6人の女性たちにジャンケンで順番を決めてもらった。ここまでで午前のプログラムは終了。午前、午後を通じて私自身は楽しい対話の時間を過ごしたのだが皆さんはどうだったろう。

細かいことは書けないが、ご参加の女性たちも、ふだん東京・麻布で接しているご婦人たちにも共通する「葛藤の骨格」みたいなものがある。私の場合、仕事はこの骨組みを正しく認識し分類するところから始まる。難しい作業ではないのだが、人の言説は会話の状況やそのときの気分、こちら側の訊きかたや同席者の有無などで千変万化するので、ときどき話しの筋を誤解してしまうことがあるのだ。この種の骨格の幾つかはこの日のワークショップでも見つかった。例えば以下のような場合である。

何らかの理由でその家の父親が機能していない。既に死んでいたり、アルコールやギャンブルなどの嗜癖を抱えていたり、事業に破綻して遁走してしまっていたり、暴言と暴力がひどすぎて一緒に住めなかったり。そのとき母にあたる女性がスッキリと夫をあきらめ、それだけでなく、愛する人を自ら見つけて新たな人生を迎えようとする。ここに思春期から早期成人期にかけてくらいの息子がいると、ここには必ず葛藤が生じる。殆どの場合、息子は母を責め、そしてなじる。それを私はガートルード母とハムレット息子と呼ぶ。

こうしたとき、ハムレット息子は決して先に私の前に出ない。私はワークショップなどでガートルード母に会い、夫と同じように息子も捨てることを勧める。息子は母を難詰している限り自己を成長させることができないからである。自分の人生を誰かが邪魔しているなんて考えに囚われている人が成長できるはずがない。京都で出会ったガートルードにも家を離れて恋人と暮らすことを勧めた。でも、それを実行するのは難しいだろう。母は息子の自殺を恐れるからだ。「自殺もそれはそれで一つの人生の閉じかたなんですがね」と私は出来るだけ気楽そうに言い捨て、「息子を捨てきれないようなら、東京の私のところまでいらっしゃい。捨てられるようにお手伝いしますよ」と付け加えた。
私は1983年12月(42歳)に国立久里浜病院に2度目の辞表を出し、その足で京浜急行久里浜駅から品川・新宿 経由で京王線八幡山駅に着いた。その朝まで久里浜を辞めると思っていなかったので、訪問先に電話を入れたわけではない。その朝、出勤したら医局の私の机に「辞表の書き方」という本と便箋が置いてあったので、便箋に3行半ほどの辞職願いを書いた。辞任の日付は公務員の給料日にして、その日から休暇に入った。

というのが私の記憶なのだが、実際には患者の引き継ぎなどがあったから、こんなに簡単に進むはずがない。よく思い出してみると、以後も非常勤医師として週に何日か久里浜病院に通っていたような気もする。それどころか、テニスがしたいというだけの理由で久里浜まで出かけて行ったことまで思い出した。相手は今も久里浜病院に残っている樋口進君たちで、彼のシュート回転のサーヴを何とか打ち返したくてならなかったのだ。彼らにしてみれば、当時の院長との感情のもつれから、仕事を放り出してフッと居なくなるような上司に退職後まで付き合わされて迷惑だったろう。都合の悪いことはたちまち忘れてしまう。後で「記憶の病理」について話すつもりだが、これが本来の(健康で日常的な)記憶だと私は考えている。「嫌なストーリー」の記憶がいつまでも残っているとしたら、残っていることに快楽(必要)があるからだ。

話しを八幡山駅に始めて降りたところへ戻す。駅からの標示に沿って数分歩くと松沢病院の表門らしきところに着いた。そこを入って、広い車寄せを突っ切ると4~5階(?)建てのビルの玄関に至り、そのホールの正面の壁に各階の主だった部屋の標示が出ていた。
そこに院長室の所在も書かれていたので、そのまま標示に従った。この時点では何となく下見に来たという感覚だったので、窓口で案内を乞うこともしなかったのだが、今考えるとつくづく無礼な奴だと思う。

というわけで何の障害も無く院長室のドアの前に立つことになり、取りあえずそのドアを叩いた。どうせお留守と思っていたのだが、ドアの向こうには当時の院長、秋元波留夫先生がいて、私を見ると当たり前のように笑ってくれた。先生は東京大学で精神医学の教授を勤め上げてから府中の国立精神医療センター(という名前だったかどうか忘れた)の所長に任じられ、そこも退いてから東京大学・精神医学の牙城である都立松沢病院の院長職に就かれていた。

派とか閥とかがあるとは思わないが、それまでの私は慶応の医学部を出てからその界隈の人とだけ関わっていた。勿論高名な秋元先生のことは存じ上げていたが、あるとき何かの学会で先生の方から声をかけられたことがあって、びっくりしたことがある。私のような下っ端のことを覚えていてくれたことが嬉しかったのだが、そのとき「河野君(当時の久里浜病院院長)と君と二人で久里浜に居てもしょうがないだろ。君はこっちへ来た方がいいよ」と言われた。あの日、松沢病院へ行ったのは、そのことが頭にあったからなのだが、忙しそうな人だし、そんなこと忘れてるだろうな、とも思っていた。

で、その記憶のことは棚上げにして「お国でやれることはやったと思うのです。これからは東京都で仕事をしたいのですが、雇ってくれますか?」と訊いた。そしたらなんと先生は手を拍って「それはいい、君、その方がいいよ」と悦んでくれた。それどころか当時副院長だった金子嗣郎氏や、都精研(東京都精神医学総合研究所)所長の石井毅先生まで呼び集められ、私の処遇について検討してくれた。金子先生や石井先生が若干迷惑そうにしていたのは仕方なかろうが。まったくもって人を誑(たら)す人だ、この秋元先生は。しかし、先生のこの反応がなかったら、1995年まで続いた東京都職員としての私の仕事もなかったろう。

秋元波留夫先生


もっとも、それですぐに東京都の正職員になれたわけではない。私は松沢病院の構内にある研究所の職員になりたいと言い、そこでは医長(都の課長職に当たる)ポストの空きがないからちょっと待ってくれと言われて、それから2年前後続く「浪人時代」に入った。しかし浪人というのは私の勝手な思い込みで実は私はまだ慶応義塾大学医学部の助手だったらしいのだ。その5年ほど前、退職祝いということでパーティを開いてもらい記念品と花までもらっていたから、私は慶応とは切れたと思い込んでいた。あの「お別れ」はいったい何だったのか。

実のところ、あの2年、慶応の助手だったというのは「ストーリー」だと思う。ものごとをうまく滑らすためのストーリー。その作り手が居たはず。ややこしい話しだが、そのストーリーは2年後の4月、都精研の社会精神医学研究室に入室してから準備されたと思う。入室直後のある日、そこの室長だった吉松和哉先生(その後、信州大学医学部教授)がひっそりとした声でこう言った。

「君ね、私は麻布の先輩(これは偶然)として心配だから言うのだがね、この履歴書はまずいよ。履歴が途切れてるでしょ。君、ここはね、どこかの大学へ移るためのプールみたいなところでね、君もいずれどこかの大学へ移るわけだが、この途切れた履歴のままじゃ受け入れ先も困るんだよ。明日にでも慶応に行って繋げてもらいなさい」。

「繋げる」って何だと訝りつつ、とりあえず慶応の精神神経科学教室を訪ねると当時の浅井教授が待っていて、「君はこの3月まで慶応の助手だったんだからね。久里浜にはここから出向してたってわけ。で、今回は君のことで秋元先生からお手紙を頂いてね、是非君を譲ってくれって。こういうの割愛人事というんだよね。で、君さえよければ、慶応としてもそういうことにしたいけれど、いいよね」。ということで、私の「浪人時代」は世間知らずの錯覚だったことにされてしまった。しかもなんと100万円を超えた(と思う)退職金付き。

私の同級生たちはいずれも退職金などもらっていないという。そして「よほど持て余してたんだろうな、おまえのこと。都が引き受けてくれたんで嬉しかったんだろう。退職金は手切れ金ということだな」。多分そういうことだろう。それにしても秋元先生はすごい。このタイミングでの手紙ひとつで私を感動させた。これこそ、治療ってものじゃないか。私のような自己愛人格障害者にとって。