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学白 gakuhaku

精神科医 斎藤学のコラム

ここに暫く戻れなかったのは大急ぎで「意見書」を書いていたからだ。意見書というのは、私の精神科医としての仕事のひとつで、弁護士からの依頼を受けて、特定の人物の精神状態について記すこと。
似た仕事に「精神鑑定」があり、これは裁判所の判事からの要請で書く。指示ではなく、要請なので、断ることも出来る。現に1週間ほど前にも断った。関心をひく殺人事件ではあったが、前に来た仕事が終わらなかったので諦めた。
その仕事は「不倫を働いたある女性がセックス依存か否か」について判断して欲しいというものだった。以下はその考察の一部。

そもそも不貞とセックス依存とは関係ない。不貞は倫理、道徳(特に婦徳)の問題であり、一部の国では法律の問題でもある。セックス依存は欲求昂進(渇望=精神依存)という医学生理学的問題である。

所謂不貞は、結婚生活に伴う退屈、拘束感、空虚感、寂しさからの脱皮を図るものであり、当事者にとっては跳躍である。極めて主体的な行動であって、依存症者(嗜癖者、アディクト)が生理的要求に屈服して行為表現するような「生理的・心的欲求への隷属」ではない。

セックス依存(アメリカ精神医学協会は「依存dependence」の語を、「嗜癖addiction」にもどすことを決定し、2013年5月から実施されているので、現在の精神医学論文では「セックス嗜癖」ないし「セックス・アディクション」と書かれる)は、他のアディクションと同様、有害で貪欲な欲求充足行動であり、ひとつの欲求充足行動が更なる欲求を求めるという「充足パラドクス」(斎藤学『嗜癖』、土井健郎他編・異常心理学講座第5巻、みすず書房1989)を中核障害とする強迫反復行動である。

その基本形は自体愛(性的自慰 masturbation)であり、ジグムント・フロイト(フロイト・S.『性欲論3編Ⅱ・小児の性欲』〔原著1905〕、懸田克躬他訳、フロイト著作集・5、人文書院)が指摘したように「乳児・幼児のおしゃぶり」から始まる始原的衝動行動である。これは後年、異性ないし同性の性対象との性交渉にまで発展することもあるが、成人同士の性的接触は実際のところ、極めて多大な労力ないし代償を必要とするので、実は、こうした成人対象性愛そのものの占める割合は、成人生活の中で極めて少ない。多くは成人に達してからも自体愛ですませており、近年は電子通信機器の発達により、いわゆるアダルト動画の配信が有料無料で行われたり、スカイプ画像を介した疑似性交渉で、数日のうちにかなりの時間と大金を浪費したりする社会現象も見られ、一部の青年、中年はこれによる借金が原因になって筆者の外来患者となる。彼らはセックス嗜癖者である(クラウディア・ブラック著、斎藤学訳「性嗜癖者のパートナー;彼女たちの回復過程」誠信書房、2015.特に斎藤学による「訳者あとがき・感想」)。

こうした自体愛に充足できない者の中から発生するもののひとつはパラフィリア(paraphilia性倒錯)で、これには異性(殆どは女性)の靴や下着にのみ固有な執着を見せるフェティシズムや電車内などでの痴漢行為、更には窃視狂や露出狂が含まれ、これらもまた警察に拘束されるなどの難儀に駆られて筆者の外来患者となり、筆者の意見書を求める。彼らもまたセックス嗜癖者であり、受刑後ないし執行猶予中に、その治療を命じられる。

パラフィリアの中には成人の性愛対象を避けて小児(同性も異性も)を狙うペディアトリック(小児性愛者)がいて、その被害者は疫学的統計よりはるかに多く、この隠れた被害者たち男女が成人期に達して、性倒錯、境界性パーソナリティ障害、難治性うつ病などの罹患者として精神科外来に登場してくることが希でない。かくして成人性愛対象からの逸脱は次世代の成人精神障害者を産む。

繰り返すが、異性の性愛対象と性交渉を持つのは難しい。婚姻とは社会から適正を保証された異性対象性愛(heterosexuality)の制度であり、結婚した二人は様々な性的タブー(その代表は近親姦タブー)が張り巡らされた家族の中で、かろうじて「安全な異性対象性愛」を成就する。だからこそ、この暗黙のルールを無視する不貞(adultery)が一大スキャンダルとして位置づけられてきたのである。

しかし実際に行われている性交渉の多くは、婚姻関係にある配偶者以外の人々との間で行われており、その多くには金銭の授受が伴う。売春である。昨今、セックス・アディクションを主訴に筆者のもとを訪れる人々の多くは、この種の売春異性愛による借金によって、あるいは、その実態を知った配偶者等の怒りによって、筆者への受診を強制された人々であり、彼らもまたセックス・アディクツと呼びうる。このような人々と本件の当事者との相違を以下に述べる。(略)

毎日の外来で相変わらず多いのは、40歳だの38歳だのという良い歳をした「我が子」たちに家を乗っ取られたという親たちの訴えである。所謂「ヒキコモリ」だが、中には兄弟そろって大卒で、数年の職歴があるのに引き籠ったままという場合もある。私を頼られても魔術があるわけではないが、憔悴した老婦人たちと会話すること自体に意味がないわけではないと考えているのでお話を伺っている。そのうち話題のヒキコモリ当人が自分の悩みについて相談してくれるようになるかも知れない。事実、私の外来を訪れる男性の多くは、当初母親の相談に応じていた人々である。ただ、母親に会ってすぐに当人が登場という場合は、今回紹介する例のようにうまく行かない場合が多い。何事も「好機」という時があるもので、これは無理をして作れるものではない。

ヒトは婚姻して家族を作り、その中で子生みし、子育てし、そして我が子たちを社会にランチする(launch=新造船を海に向けて進水させる、ロケットを発射する、新製品を市場に出す、産み育てた子を社会に出す)。こうして私たちはこれまでの歴史を紡いできたのだが、
20世紀に入って、こうしたヒト固有の次世代作りが滞りはじめた。日本の場合、戦後30~40年たって、親にあたる世代がそれまでに無いほど豊かになった頃から、その豊かな親が子どもたちのランチを焦らなくなってきたのだ。

ヒキコモリは20世紀型市民社会の基盤であった核家族が産み落とした奇形児である。彼らが増殖すると社会からは新婚さんや新生児が居なくなり、結果として核家族社会の解体が促進されることになる。その結果今や、両親と彼らの血を分けた子どもからなる核家族世帯は日本の全世帯の3分の1以下になった。代わりに急増しているのは高齢単身世帯や中年単身世帯で、これらの一部はヒキコモリのなれの果てである。

彼らの多くは少年期ないし青年期に生産者ないし生活者としての訓練を受けていないので、一人前の稼ぎがない。そのため親の年金を横取りするか、生活保護を受けるしかないから、消費者としての価値も低い。とは言え、我々の社会の一定割合は彼らに占められているのだから、彼らを活用するしかない。これという単一の解決法はないので、事例に合わせて工夫してみるしかないだろう。職業訓練のシステムを使ったりして。

今朝来たのは60代前半の母に連れられた30代半ばの男。母親とは以前に数回会っていて、当人がその気になったらお会いしましょうと伝えてあった。しかし直接会った息子は、治療の必要も感じていなかったし、そもそも現状を危機的なものとは考えていなかった。サラリーマンと聞いていたが、どことなくだらしなく、全体の雰囲気がすさんでいた。数年にわたってIT系企業数社を渡り歩いてから退職して引き籠もり、ここ3週間は横浜だか川崎だかのキャバクラでボーイを務めているそうで、「今の仕事は充実しているし、自分に合っている」と言った。要するに彼は困っていない。医師は困っていない人に対応出来ない。

この辺りから隣に座った母親が口を挟むようになったので、当人にはいったん退席して貰って母親の言い分を訊くことにした。ところが彼は明らかに母親を一人にするのをいやがった。母親とだけ話してみてわかったことは、彼女が息子の行動を殆ど把握していなかったことである。キャバレーのボーイ(というより客引きと思う)をしていることも知らなかったし、息子につきまとう「危険な感じ」にも無頓着を様子だった。「息子さんの将来は危ういでしょう」と言ってみたら、さすがに母親は動揺した。「息子さんは薬物か交通事故が犯罪か、何か問題があると思いますが、ご存じですか?」

「え!まさか」というのが母親の反応だったので、私は「治療の好機は今ではないと思います。そのうちやってくるから、じっくり待ちましょう」と言った。息子の行状に関する母親の無知は不思議だったが、そのうちわかるだろうということにして、次に息子さんとだけ会った。

前に述べたように彼の顔、というか全身から「気だるく、投げやりな感じ」が漂ってくる。口角には正体不明なニヤニヤ笑いがあった。違法薬物の使用歴について聞いてみると、「それはないが私は悪いことをいろいろしてきたんです」という。高校2年で部活を引退すると、3年からはコンビニでのバイトに精を出したが、この頃から万引きが常習化したそうだ。どういうわけかこのことを母親は私に言わなかった。知らないのだろうか。

「それだけ? 前科はないの?」と会話を揺さぶってみた。「あぁ、ありますよ。酩酊運転で。前科一犯です」。「あぁ、やることはやってるんだね。でも酩酊運転だけ? 万引きにしたって10代終わりの頃のことですよね。20代、会社員になってからのことを聞きたいんだけど」。この質問は無視され、彼は母親と私との面接がいつから始まったのかを問い始めた。そして「先生は母に何回か会ってるンですね?今日が始めてじゃないんですね?」。「だから言ってるでしょ。お母さんが、あなたのことを心配してここに来たの。それで、あなた自身に会ってくれないかと言われたので、〈いいですよ〉ということで今日の面接になったわけ。それより、あなた、今なにか困っていることないの?」「私は今の生活が合っていて、別に困ってないんですよ」。

話が噛み合わない。というか噛み合わせないようにされている。で、私はこう言った。
「あのさ、さっきから話が通じないで困っているんだけど、私は別に警察じゃないから、あなたに関する事実なんて知らなくてもいいの。ただ、あなたはそのうち私を必要とするようになるから、それがどんな形になるのか知っておきたいと思ったわけ。でも、あなたの方はこの会話を今日限りで打ち切りたいんでしょ。じゃ、止めるよ。ただ、〈あなたはそのうち自分でここへ来るようになる〉と私が言ったことを覚えておいてね。では、今日は終わりにしましょう。ここに来たいと思ったら予約の電話を入れてね」。

この後もう一度母親と会うつもりだったのだが、息子の方は母親と私が今日初めて会ったわけではないことを、もう一度確かめる質問を挟んだので、それを否定して退室させた。診察後の受付では母親が次の予約を取ろうとするのを阻止しようとしたそうだ。

ヒキコモリ症例への介入の初期には、この種の会話が多い。治療者側からみた会話の要点は、いずれ私(治療者)がヒキコモリ当人にとって必要な人になるという断言(予言)を照れずに入れ込むところにある。
先々週土曜日(2015/6/27)早朝8時過ぎのANA広島行きの飛行機に乗ろうと13番入口から入って69番ゲートに向かっていた。15分はかかりますよとグラウンド・スタッフに警告されていたのでなるべく早足で歩いていたら、荷物運びのカートを操車している初老の男性に「乗りませんか?」と声をかけられた。

一泊二日のこぢんまりしたワークショップと聞いていたし、朝の支度も面倒だったので、いつも使っているバーバリーの書類鞄をそのまま提げて出ようとしたのだが、洗面セットに最小限の下着を入れたズタ袋がもうひとつ欲しくなって、振り分け荷物のヨタヨタ老人と見破られてしまったようだ。お声をかけて頂いたのは有り難いことだが折角の運動のチャンスなので丁重にお断りして歩き続けた、と言っても動く歩道を乗り継いだだけだが。

年に数回の広島ワークショップのうち、空港隣接のホテル内コッテージを使うものはアドバーンスドコースというか、数年来私との会話が連続している方々なので、各自との対話には摂食障害などの症状行動の話題など出て来ない。「そんな時代もあったねと、いつか笑える時も来る」と中島みゆき風の「時代」がきてしまっているのが、私たちの言語空間だ。

例えばある男性(20代)は血まみれの臓器と解体した四肢という自己像を直視できるようになってから、急速に自己意識の統合が進んでいる。このあたりの「自己意識の統合」問題については他日、ゆっくり話したいので今回は省略。とにかく今の彼は、その身体を東京に運んで私(「まとまった自己」のモデル)と日常的に接するための工夫(職業と住まい)を具体的に考えられるようになっている。

他の女性(主婦)は、ここ数年来の文章教室での努力をついに恋愛小説への挑戦へと進めた。いよいよ小説なるものを書いてみたところ、文章教室での評価は散々だった。というのも、ヒロインが愛の対象とした男との出会いがきちんと書けていなかったからだ。ヒロイン、つまり自分の性衝動に直面するとひるんでしまうので、男と出会うあたりの話しに現実味が欠ける。

その主婦の話を聞きながら、一昨日会ったばかりの村山由佳さんのことを連想した。村山さんは今や当代きっての恋愛小説の名手だと思う。その彼女の比較的長いロマンス小説を読み終えたばかりだったこともあって、素人と玄人の間にあるのはスキルの問題だけなのだろうかと考えてみた。要するに、人を小説家という「病人」にするのは何か?ということだ。

村山さんはその日、私に呼ばれて私の集団精神療法の場へやってきたのだった。その場にいた所謂患者さんたちは、いつもより多く50~60名くらいか。時々このようにゲストを呼んで来診している皆さんと交流して頂いている。以前お招きした際は、彼女の著書『放蕩記』が話題になっていた頃で、私たちの話の中心も「母親問題」だった。今回の話題は更に絞られて「愛とセックス」。

後日、この日会場にいた女性が「彼女のアルトの声には癒やされる」と言った。なるほど、そう言われればそうだ。はっきりした標準語(実家の神戸のことを話すとき以外は)。話の内容に緩急はあっても、落ち着いたゆっくりした発音で、舌足らずになることがまったくない。この会話法で、かなり具体的なセックスの話をするから、意外性がある。刺青を入れているから華がある。以前は3カ所だったが、背中の方に増えたと笑うからショックを受ける。その日の出で立ちは地味な黒に見えたがシースルー。ミーティング終了後舞台にいる村山さんを取り巻く女性たちの注文に応じて、胸と背中のタトゥーの一部をごく自然に眺めさせていた村山さん。

人の顔というものには好みがあるだろうが、彼女の顔から悪意、ひねくれ、憤りのようなものを読み取るのは難しい。嘲り、冷笑、皮肉の類いも似合わない。頽廃、疲弊、荒廃とは無縁。というと惚れただけだろうと言われそうだが、そういうわけではない。というか、惚れるというより、親戚縁者の中のケナゲな娘と思えてしまう。私、老人だから。

ケナゲな勉強少女が汗をかきながら、「小説家」になっている。それがうまくいって無邪気に笑っている。夜の9時過ぎまで私たちの酒に付き合い、素面のままジープに乗って去ったかっこいい村山さん。





で、彼女が「作家」とすれば、小説は書けないと言いながら、結構達者なエッセイで日常の鬱屈をブログに載せたりしている人々とどこが違うのだろう。作家と言ってもいろいろいるし。

決定的な差は視点や手法といったところにあるのではなくて、覚悟の質量というか根性にあるのかも。私のところへ患者としてきていた人の中で、歴としたプロの作家と言える人は3人。うち一人は「中村うさぎ」のペンネームで有名な人で、今よりずっと名の出ていなかった頃にショッピング・アディクトとして来院なさっていたが、そのことを人前でも堂々と言うので私もここに書けるわけだ。

後の二人のウチの一人は残念ながら病没なさった。他のおひとかたとは、ここ何年かお会いしていないが、「なぜ作家は作家なのか?」という問いにスッキリと答えて下さった、と今になって思う。その人はプロの作家として多産であった頃、貧乏だった。一息ついたところで結婚した相手はお金持ちで、しかも「好きにお書き」と言ってくれる素晴らしい男性だった。で、結婚して数年たってみると、彼女は気力を喪い作品を出せなくなってしまった。「うつ病にでもなったのではないか」と思ったから、私のところを訪ねてくださったのだ。その彼女から「書けるようになりました」とか「書くっきゃないんですよ」とか言う言葉が出て来たのは3年前くらいのことだった。

夫の会社が傾いて、豪邸を引き払いそれまでの何分の一かの狭さの家に移ってから、彼女は気力を取り戻し、再び多忙な作家生活に戻って行った。

病気というものの本質の一つは「その人から個性を奪うこと」だと思う。結核患者はドイツ人でも日本人でも変わらない。フランス留学中一番ほっとした寛げる場所はサンタンヌ病院の病棟の中庭だった。その庭にいた人々は日本でなじんでいたのと同じ病気・精神分裂病の人々だったからだ。

このことと関連する、もうひとつの病気の本質は「自由の喪失と選択肢の減少」だと思う。
病人になると、その人に固有の動作の幅が喪われて、病気に固有の動作が目立つようになる。

COPD(慢性閉塞性肺障害)の人や、SLE(全身性エリテマトーデス)の人は、病気の進行に連れて、その人の個性より、その病気の個性が顕著になる。私たちが嗜癖(アディクション)を病気と定義するときに念頭に置くのもこのことである。

アディクションは人の生につきまとう寂しさへの怯えに備える簡便でしかも強固な防衛法だが、その進行にともなってその人から個性を奪い、その人は姓名で呼ばれるより「ジャンキー」(アヘン嗜癖者)などと呼ばれる機会が多くなる。

作家と呼ばれる人は明らかに書くことを渇望し、淫している。しかも一つ書き終えると、次が書きたくなるようなのでアディクションに特有の「充足パラドクス」(渇望が充たされることで、かえって渇望が強まる現象)の定義に一致している。一見、書くことで個性を磨いているようだが、書かねばならないという強迫に取り憑かれている点に個性はない。その結果、生み出される作品は、作家業という病気がもたらす爛れや膿のようなものだが、その異臭が読者やファンを魅了するのだから、所謂「ポジティブ・アディクション」(プラスの嗜癖、例えばランニング、ワーカホリズム、ストイシズムなど)に属するものだろう。
シャーデー・アデュのNo Ordinary Loveを聴きながら、村山由佳『ありふれた愛じゃない』を読み終えた。シャーデーのことなど全く知らなかったのだが、小説の半分過ぎのあたりからこの名前と曲名が出てきたので、アマゾンでCDを購入というかクリック。それが日曜の昼で、それから出かけたのが神田淡路町にあるCSPP(カリフォルニア・スクール・オブ・プロフェッショナル・サイコロジー)の東京キャンパス。午後5時半までそこで講義(アディクションとBPDとうつ病の遺伝性、など)して7時頃帰宅すると、昼に注文していたCDが届いていた。夕食の席に着こうとしたら、少量のステーキ(このところ肉食が苦手になった)があり、妻がワインを選んで、という。取りあえず貰いものの赤ワイン(Haut-MédocのChâteau Lanessan 2001)を選ぶと、ワイングラスを持ってきた妻が「父の日だから。私の父(故人)の代わりに飲んでね」と。我が娘たちからは電話も来ない。そんなことをしても機嫌を悪くさせるだけとわかっているせいかも。

で、食後はシャーデーを聞きながら、村山さんの小説を読んで過ごした。こんなに長い恋愛小説を途中で投げ出さずに読んだのは久しぶり。面白かった。特に終盤、ヒロインの真名が仕事を辞めてタヒチに永住しようとするところが。

前半、慎重な堅物として描かれていたヒロインは終盤で驚くほどに変わるはず。推理小説を当てた満足もあったが、それがタヒチの自然の変化と抱き合わせて描かれていて秀逸。小道具に使われるタトゥーも印象的で教えられた。これを読む人は筋書きでは説明出来ない面白さに酔わされるだろう。

このヒロインは小心に見えて実は「好奇心と冒険心が並みでない」と恋人に見破られている。この本の著者にそっくりだ。今週の木曜日、私のクリニックにお招きして、そこの利用者の皆さんと交流して頂くことになっている。楽しみ。

      村山由佳・斎藤学『「母」がいちばん危ない』(大和書房)

「母」がいちばん危ない


このところ、月に1 回くらいずつ私の運営する精神科デイケアセンターにゲストをお招きして講演や対談をして頂いている。2月は内田春菊さん。彼女が監督した『私の母ちゃんBitch!』のDVD版を皆さんに観て頂いた上で、私と対談して頂いた。5月は伊藤比呂美さん。

伊藤さんとは以前、一緒に摂食障害についての本を作ったことがある(『あかるく拒食、ゲンキに過食』、平凡社)。そのときから不思議な人と思っていたが、今回お会いして、その威風におののいた。何というか、今はもはや山姥。すっかり当てられ、あれからずっと説経節の世界にはまっている。その頭で村山由佳さんの小説世界を覗くものだから、奇妙な味わいにならざるを得ない。で、今読んでいるのが塩見鮮一郎『中世の貧民~説経節と廻国芸人』文春新書、2012年。こちらは未だ読了に至らず、ゾンビと化した「おぐりほうがん(をぐりほうがん=小栗判官)」が載せられた土車(つちくるま)は著者の蘊蓄に翻弄され、丸子(まりこ)の宿にも着いていない。

この他に読んでいる本がもう一冊あって、これは専らベッドサイド用。でも厚い。しかも堂々たる内容の本だ。山我哲雄『一神教の起源~旧約聖書の「神」はどこから来たのか』(筑摩選書、2013年)。

先日の「学白」で『人間モーセと一神教』に触れたが、この本は第1章で今までになされてきた様々な妄説・珍説が廃されており、そもそも出エジプト記を始めとする「旧約=歴史の反映」説が論駁されている。その中に「天才フロイトの珍説」というくだりがあるので、どうしてもよみたかったし、現在の考古学的エビデンス絶対主義についても知りたかった。といっても著者自身がそうした過激派というわけではなさそうだ。ただし、ダビデやソロモンの栄華については、そのようなものの実在がブリトンのアーサー王伝説程度の歴史的価値しかないことについては納得せざるを得ないようだ。ところで私はなぜこんなことにこだわっているのだろう。延々と。多分、精神療法的方法論が考古学と神話の関係によく似ているからかも知れない。
前回に述べた4分類の要は症候性窃盗をクレプトマニアから切り分けたことだが、それは前回に紹介した例のようにうつ病相(大うつ病性エピソード)と窃盗との関連が極めて明瞭である場合に遭遇することがあるからである。しかし、窃盗事件に先立つ罪悪感という点では、あらゆるクレプトマニアにそれが認められるという事実もある。そのことに触れた既存の文章(斎藤学「私はクレプトマニアをこのように考えている」、『アディクションと家族』誌、第29巻3号、204-206頁、2013年)を以下に紹介する。実は今回、この過去の考察を陵駕できると思って書き始めたのだが、読み直してみたら、これ以上には未だ到達していないと分かったので、そのまま紹介する。ただし一部の用語は現在用いているものに変更し、文自体も極力短縮した。



私はクレプトマニア(病的窃盗癖)を次のように考えている。

①窃盗癖の基底には対人恐怖がある
人が何らかの行為を反復するとすれば、そこにはその主体にとって必要なこと、言い換えれば欲求充足がある。病的といえるほどに執拗な窃盗癖 (kleptomania)や万引き癖(shop lifting)も同様。

ただし必要だから繰り返すという行為のうちにも、結果として社会に受け入れられるもの(生得的・生理学的欲求充足行動、社会に承認されたいという欲求にそった習慣など)と、そうでないもの(嗜癖addiction、悪徳vice、非行evil deed)、そしてどちらでもないもの(社会の承認と関連しないかに見える癖habit、習慣habituation、など) がある。

歩くことや歩き方、食べることや食べ方、話すことや話し方はそれぞれ人としての最低条件と見なされるような基本学習要件であり、人は乳幼児期からずっとこれらの洗練を迫られている。

排泄することは呼吸することと並んで、人としてというより、一生命体として不可欠なものだが、その方法は獣類と人とを区分するほどに重要なことと見なされ、ヒトの成人は決められた場所と様式のもとで密かに用便を済まさなければならない。生後のある時点でこれを会得し、以後ヒトが人として生きるためには用便以外の時には肛門を開かず、軽く閉じた状態で過ごすことを要請されているのだが、成人はこのルールについて特に意識することはないし、この習慣を会得するに至った学習について回想することも殆どない。

排泄に似ているが、個体というより種の生存に必須で、獣類というより他の類人猿と鋭く区分されるのがヒトの性行為である。排泄と似ているのは密かになされなければならないことだが、この行為の習得に成人が手を貸すことはない、というより成人の関与が許されていないという点が排泄とは正反対である。しかも性行為は秘匿の他にもさまざまな規制があり、それらは個体の置かれた文化によって異なるので複雑きわまりないものになる。

種の保存にとって不可欠であるにもかかわらず、乳幼児の性欲はその存在さえ無視され、否定されたまま放置されるので、個々の幼児は周囲の成人の反応をうかがいながら、様々な迷いと疑惑と不信のうちに、彼の置かれた文化の規範(諸規制の構成体)に添った性行為を行わなければならない。その結果として生じる「当惑、疑惑、不信、怒り=欲求不満」が嗜癖、パラフィリア(性倒錯)、強迫障害、不安障害、身体表現性障害、ある種のパースナリティ障害を生む。

なぜ、これらが発生するかというと性行為は本質的には対人関係の一種だからである。先に反復行動には良いものと悪いものがあると述べた際に、「社会的に承認される欲求」について触れたが、自体愛(性的自慰)以外の性行為には相手からの承認(これを象徴的に「ミルク」と呼ぶ) が欠かせない。この「承認の感覚」は原初の(乳幼児期の)母親ないし母代理(surrogate mother)から得られるはずのものである。はずと言わねばならないのは、必ずしもすべての人がこれを充分に得るとは限らないからだ。その場合、人はその空虚を代償する(すり替える)ための様々な行為を試みるようになるが、多くの場合、それらは対人関係を回避する方向(対人恐怖)へと進む。その好例はパラフィリアの一型・フェティシズム(物神崇拝、切片淫乱)である。この対人関係回避によって、これら代償行為は「空虚を満たすミルク」としては役立たない。それどころか、ミルクへの渇望は更に高まり耐え難いものに至る。

私はかねてからこれを「欲求充足のパラドクス」と呼んできた (「嗜癖」、土居健郎、他編「異常心理学講座-5」、みすず書房、1989)。パラドクスと呼ぶのは、ある渇望を満たすための行為(例えば飲酒、薬物摂取)が、その欲求を充足し渇望を鎮めることなく、かえってその昂進・暴走を招くからである。窃盗癖はこうした悪循環行為のひとつとして生じるものだから、その根源的治療は彼らのパースナリティの基底にひそむ対人恐怖を緩和することである。

②「根拠のない罪悪感」と「処罰マゾヒズム」
母親からの承認が「まあまあ good enough」の形で得られた場合、思春期に入った人は自己愛肥大(自己に向かう対象愛)の時期を経て異性愛へと進むのだが、一部の人はここで「根拠のない罪悪感」にとらわれる。性的成熟は子どもを親との密着関係から解放するナイフとして機能する。この分離そのものは自然なものだが、この際に生じる強烈な性衝動と射精、初潮などの成熟徴候を子どもは親から隠そうとする。この際に子どもの内面に生じているのは恥と当惑の意識で、こうした感情を無視して従前どおりに子どもへの介入を止めない親に対して子は憤怒(親殺しの欲望)を感じ、これが親を捨てて離れたいという欲求とあいまって罪悪感を形成する。多くの場合、これらは意識化(言語化)されないが、ここから生じる茫漠とした罪悪感は、それに見合った程度の「小犯罪」を生む。この犯罪は親への憤怒に対する自己処罰であり、事が露見すれば「自らに強制する屈辱」、つまりマゾヒズムとなる。実際、窃盗癖者(Kleptomaniac)の一部は、逮捕され拘束され見せしめの罰を受けることを望んでいるかのように見える。

性的成熟への恐怖や嫌悪があからさまに見られるのは摂食障害者だが、彼らに窃盗癖が付随しやすいことの理由はここにこそあるというのが私の見解である。更に言えば、この種の母子密着への依存葛藤(親からの介入を嫌悪しつつも、そこからの離脱にも恐怖を感じるという両価感情)は核家族のなかで母子関係が過剰に密接なものになりやすい現代社会においては必ずしも、摂食障害者の見られる家族にだけ生じているわけではない。

上記は単なる仮説ではない。「盗む喜びと罰せられる屈辱」が結びついているという実体験は、極めて重要な人物による陳述の中にも述べられている。ジャン=ジャック・ルソーがその人で、彼の死後に出版された「告白録」には性自慰、男根露出癖、不倫、5人の子捨て、マゾヒズムと並んで盗癖が語られている。それによれば彼の窃盗癖は貧しかった頃の食物盗みから始まり、徒弟に行った先の親方の道具や家僕として仕えた伯爵夫人からの宝飾品などがあった。盗みが露見して罰を受けるようになると、「盗む喜びと罰せられる屈辱」がむすびついて止められないものになっていった、と書かれている。啓蒙哲学者として名声を博し、フランス革命直前に死んだルソーは、この『告白』を生前に刊行したわけではない。この本もその刊行も彼のパースナリティの中核に位置する性倒錯(露出癖とマゾヒズム)と無関係ではないであろう。

③お洒落としての万引き
得てして悪習vice はドラマになる。ひと頃、映画のヒーローには喫煙や女たらしが欠かせなかった。殺人は悪行evil deed だが、ドラマのヒーローは「義による」大量連続殺人を行って罪も感じず、恥じてもいないように見える。一方、盗癖となるとヒーローには向かないが、自由奔放なヒロインの個性の一部として描かれることがある。その代表は映画版『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンの演じるヒロイン。そこには盗みという行為に伴うはずの罪や恥の感覚を観客が持たないような工夫がなされている。

アメリカのジャーナリスト、レイチェル・シュタイアによる『万引きの文化史』(黒川由美訳、太田出版、2012)はshoplifting(万引き)を kleptomania(窃盗癖、この翻訳書では窃盗症) やboosting(職業的泥棒、boostはアメリカ俗語で「かっぱらい」)と区別するという工夫のもとに、病気でもなく、プロ泥棒でもない、健全そのものとみなされている人やセレブたちの万引きに注目を促している。

シュタイアによれば、万引きによる「商品損失(シュリンク)」は全体の35%におよび、万引きシュリンクが売上高の2%を越えると小売店のレイオフや倒産に至るというのに、現在の万引きシュリンク率は既に1.4% を越えているという。万引き予防のための監視システムや警備会社への支払いもかさむ。結果として小売店は万引きシュリンクを前提とした値段設定をしなければならなくなり、そのために消費者が支払う、いわば「万引き税」は年間一世帯あたり450ドルにもなるという。いまや、一部の病人や大泥棒の話ではない。読者自身やその友人、隣人にも直接に影響を及ぼしつつある大問題が、「ふつうの市民」の万引きというわけだ。

商品の氾濫と浪費を前提とした市民社会そのものが万引きという行為の一般化をもたらしたという説に異論はないが、この議論には「いつか来た道」をたどっているという気配がある。かつて日本の「慢性アルコール中毒者」の数は、ある年の調査日に調査対象とされた精神病院に入院していた2万人だけとされていたことがある。この数は調査対象が「アルコール依存症者」と変わる過程で80万人になり、その周辺の状態にある人々まで含めると300万人にもなるという、ごくありふれた人々の問題とされるようになった。

やがて「窃盗問題」も窃盗症(クレプトマニア)から「万引き行為」へという名称の変更に伴って、その数が膨張するのであろうか。シュタイアの著書は我々臨床家の閉じられた視点を超えて、随所に照明を当て、我々の蒙を啓いてくれるのだが、窃盗症と万引きとの線引きについては異論がある。

『ティファニーで朝食を』のお洒落なヒロインの行為が窃盗ではなく万引き(ショップ・リフティング)だとしても、この女性に病的な窃盗衝動(クレプトマニア)が見られないとは限らない。自他ともにゆるすお洒落女優ウィノナ・ライダーに起こったことを見れば、これは万引きであって病気ではないとコメントするのは難しい。

ウィノナ・ライダーは、今をときめくアンジーことアンジェリーナ・ジョリーが助演をつとめた映画『17歳のカルテ』で主役を演じた儚げな美貌の持ち主だが、度重なる万引きに対して「演技の練習をしていた」などの言い逃れを続けた末に、窃盗累犯で実刑を受けた。とは言え、それは社会奉仕480時間と3年間の保護観察および薬物依存症のためのカウンセリングであった。無名の貧乏人なら同程度の犯罪で10年以上の禁固刑になるから不公平という声が渦巻く中、それでもなおウィノナが盗んだという噂は飛び交っている。そのため映画出演の際にかけられる保険(急な出演不能などに備えるもの)が巨額になり、出演料が高すぎて使えないという事態を招いて映画出演の道がほぼ閉ざされてしまった。残されているのは万引き癖そのものを冗談のネタにするようなトークショーで、この世界ではウィノナは今もセレブである。出演したバラエティでは司会者が監視カメラについての冗談を飛ばし、彼女が引っ込むと、司会者も他の出演者も気もそぞろに盗られたものを確かめるという仕草で笑いをとっている。この女性はやはり病気だろう。そしてそれは、この原稿の冒頭に記したようなメカニズムで始まり、彼女の人間関係をまったく違うものに編成し直すことによって治療可能と思う。

       〈参考〉『アディクションと家族』29巻3号

アディクションと家族29-3