悟りとは何だろうか。
昔、本当に悟るということが心底の願いで・・・。
それは、人間で生きることが本当に苦しかったから。色んな限界を感じてた。
何か上手くやっていけない、、、
考えがいっぱいになると、自然のあるとこに行って。寝そべって、空を見上げていると自然に前向きな心が現れる。見上げる空に、ゆっくりと毎瞬毎瞬姿を変えてく雲に、多くのことを学んだ。
樹木のその姿に、その在り方に本当に学んだし、その教えに救われた。
私は高校2年生の頃から旅を始めました。北海道、冬になると富士山へ。そして住み込みバイトして福島のユースホステルとか、清里でお好み屋さんとか、青ヶ島の島に1軒しかない居酒屋さんとか・・・。
それで最後に行ったのは、沖縄 波照間。
いつも自然のあるところに行って、旅したり働いたり。自然を通して本当に沢山の学びを得た。
私の憧れは、人間というより自然そのものの在り方と真っ直ぐに生きる姿。その意志というか、その生きる姿勢に本当に多くの学びを得てきたと想う。
沖縄を旅しているとき、あぁ本当に花の様に生きたいと想った。それは、その姿に憧れた。誰が見ているとか見ていないとか関係なくて、ただただ真っ直ぐに天に向かって生きる。その真っ直ぐな意志に美しさを感じた。
昔、那覇から名護までをひたすら歩いたことがあった。無我になりたくて。とにかく、無我になりたくて。。。
「自分」があるから苦しいんだ、と思ってとにかく無我になって我を忘れ自然そのものになりたかった。そうすれば、この苦しみから自由になれると思った。けど、その旅では、ただシンプルなことに気付いただけだった。呼吸していることや、歩いたら喉が渇くことや、お腹が空くことや。生きているということを、感じた。ただシンプルに。ただそのまま。
でも最後の沖縄の旅で、波照間の旅で本当に多くのことを学んだ。
毎日、夕陽を見て、海を見て、酒を飲み、散歩して、月を見上げ、星を見上げ、太陽の熱さを感じ、反対に日陰の涼しさを感じ・・・自然てよくできているなぁ~と。感動し。
ある日、海に浮かびながら水平線を見上げた。そうすると、上と下が逆になって水平線が本当に丸いこと、地球は丸いのがよく見える。耳を澄ますと、サラサラサラ・・・・砂が波に打たれる音。
そういった、自然のリズムの中で、小さな島に居ながら大きな繋がりを感じた。
そうして、全ては繋がっていることを感覚として感じた。
世界のイメージが変わった。自分という、意識が見る目の前に現れる世界。現象。
この五感覚の目で見る出来事や存在。そこだけから見てたら、何て人間で生きるって苦しいのか。
何でこんなことが起こるの?と不安やそういった、忙しい心で溢れている。目に見える世界は、ころころと変わってしまうから。。。
この世に、本当に信じれるものはあるのだろうか?そんな疑問があった。
本当に信じれるものとは、どんな条件状況でも変わらない。そんな真実があるのだろうか?本当に信じれる世界は存在するのか?そんな疑問でいっぱいだった。
そんな小さな穴から覗いている様な、人間の目で見る世界観から、大きな繋がりを感じたとき意識が拡がって・・・この世界のイメージが変わった。それは、なんだ。この世界は本当は素晴らしい世界なんだということを。全てが繋がって存在している、全てが絶妙なバランスを取りながら繋がって生きている。そういった繋がりを感じたときに、苦しみから喜びに。感動に世界が変わった。本当は、素晴らしい世界なんだ!ということ。
そういった、繋がりを感じながら。生きてるという、実感。
躍動感を感じて生きたい!そういう生き方がしたいって強く願ったし、それが一番大切なんだ!っていことに気付いた。どんなことしてても、どんな仕事しててもいいけど、何をしていたとしても今ココを楽しんでいるのか?生きている!という実感があるのか。マンネリで日々を過ごしていく様なそんな奴隷の様な人生ではなく、もっと主体的に生きる。そういった、創造性に溢れた生き方をしたいとそれが最も必要なことだと確信した。
ある一人の人間が、苦しみを抱え、そしてその苦しみの原因を模索し、その苦しみの限界を突破した時にあるのは、喜びであり最高の感動!人間であるということの感動。その実感。そんなひっくり返る変化こそ、悟りなのではないかと思う。
そんな悟りを求めていた道の中で出会った、ある人物が居る。。。
悟りのイメージが変わることがきっと必要なんだと思う。
悟り、真理が究極の本質を問うものであるし人間の五感覚の目では見えないものだからこそ、その実体がつかめない。空と、○っと書いてそれは悟りの境地であるけれど。
釈迦が何故○っと書いたのか?その背景悟りのイメージをより具体的に釈迦と同じ様に得るということはできないし、何故かがわかったらそれは悟りを得たということ。
でもその悟りは何の為にあるのか?
悟りは、人間の目には見えない究極の世界。それで終わっては、真実の悟りではないと。
そこに宗教の限界があるのかもしれない。究極の本質、その本質、真実と出会うということは、その真実の世界そのものとなることで、現実を変えていく、現実を次元上昇させて行くというそれが真実の真理の力。
本質を追い求めること。けれど、それで終わる世界ではない。悟りが目的ではない。
悟りをどう活用するのか?ちょっと表現が変かな。
悟りを通して、どんな世界を創るのか?究極の本質が明確になったならば、その本質からもうこの宇宙空間の外の世界とであったということであり、そのメカニズムによって全ての存在は存在している。そのメカニズムを悟ること。その全てはひとつである。そのひとつから、どうやって存在が存在されたのか?
これはビッグバンのこと。どうやって宇宙が誕生したのか?全てがひとつから、どうやってこの宇宙の存在が生まれたのか?ということ。本質と現実をしっかり疎通させて、本質の力で現実のあらゆる問題の壁を突破していく。そういった、真理の力を現実にしっかり昇華させて、本来の本質の底力を発揮する。
それは、新成長エンジンとなる。それは、人間の無限の可能性。
人間は悟ることができる。それは人間としての役割、使命であり、悟りを通して本来の人間の可能性を∞発揮することができる。
自分とは何者なのか?
人間とは何の為に存在しているのか?
そういった、本質のこと。本当の我を知る。
出てきたことをひたすら書いた。今日の日記でした。