今日も時間が空いたので書こうかな(笑)
養生法を解説する前に、養生法は何を基本としてできているかを話しておかないとね。それは「黄帝内経素問・霊枢」って本から抜粋して作っているんだ。室町~江戸初期の曲直瀬道三っていう医者も一般の人たちにわかりやすく、素問霊枢の抜粋の養生法「養生誹諧」という本を出版したよ。江戸時代の養生訓もそうだね。
黄帝内経っていうのは、多くの単発の論文集なんだ。多くの論文の原点は、インドのアーユルベーダっていう医学かもって言われている。アーユルベーダは中医学や漢方の原点だという説もあるよ(ただアーユルベーダは、英国のインド支配で、インドは独自の文化を禁止され、原書は焼かれ医学として壊滅したようだね)。
昔のインドには、世界に見ても文化的にとても発達したアーリア人が住んでいて(謎の民族とも言われているよ)、急に大移動をはじめたようだね。ヒマラヤ山脈を越え一方は中東・ヨーロッパの方へ、また一方は東アジアへと旅をした。話は違うけど、曼荼羅(マンダラ)って知ってる?色とりどりの?。あれはヨーロッパのキリスト教の方にもあって、四隅にワシとかライオンなどの動物がいたりして、マンドーラ(アーモンドの意)とも呼ばれているよ。
アーユルベーダは、外科(刀傷)の治療に優れていて、三国志に出てくる関羽の刀傷を治した華陀っていう医者も、アーユルベーダに精通していたと言われている。
続く(かな))
養生法は、まず時間を考えるのが大切。
養生の時間には3つの側面がある。
①春・夏・秋・冬の四季など一年の時間(外側の環境)
②本人の生・長・老・死など一生の時間(内側の環境)
③今日一日の時間(今、ここでの体の状態の変化)
①の外側の環境は、四季の温度変化だけでなく、梅雨時などの湿気や秋のからっ風、春一番など、天候なども関係する。
②は青年期など人間の体としての成長時期と中年以降の体の衰退時期で養生法を変化させる必要がある。
③は今日はどう過ごすか。衣食住。食は体が欲している物を取る(薬膳の考え方)。体質によって過ごし方が違うし、冷え性の人は暖める物を欲し、熱をためやすい人は熱を逃がす(二便)をうながしたりする必要がある。
体質・年齢・証(タイプ)を総合して、「今日は(何を食べて、どう運動して、寝るか)どうしようかな」って決めていく。
また心身というように心の養生も必要だ。
宗教的な修行などでは、体(ボディ的側面)と価値観(マインド的側面)と感情的な安定(瞑想)(スピリチィアル側面)などは深くやるが、無意識にあるシャドウ(もうひとりの自分)についての修行はしているところを見ない(ただ心理学ではこれが主体だよね)。
これらも養生法に含まれるのでおいおい話していければいいなって思っている。
いろいろな養生法でよく見られる「心を安定させ安らかに暮らす」など、やり方を知らなければ日々の不満や苦痛はなくならない(まぁ、なくなることはないのだが、それが意味するところを見つめれば、あなたはきっと変わりはじめる)。
ではどうするか。(次回に続く)
最近、頭のスペック(性能)が衰えてるなぁって感じる
難しいことを考えるのも、めんどくさいし
人の話を聞いても、よくわからない
だから、私は聞きながら妄想するのよ
今は、これでいいかなって思うのだ
難しいことを考えるのも、めんどくさいし
人の話を聞いても、よくわからない
だから、私は聞きながら妄想するのよ
今は、これでいいかなって思うのだ
欲求は感情の一種だとゲシュタルトでは捕らえているが、漢方的に言うと「欲求は精(実体)より出で、感情は神(作用)より出でる」と言える。
同じく気の動きであり、実体を動かし作用(こころ)を揺さぶる。
(実際のところ、体と用は一体・一如(一体とは統合、一如は統合の流れ)である)
あっ、ちょっと待って。ぶぶぶよ!本当に欲求と感情を一緒にしていいのだろうか。
う~んう~ん、今は考えてもよくわかんないなぁ。
この問題はほおっておいて、いずれ来る天からのおつげを待つとするかな(笑)by インテグラ理論より
同じく気の動きであり、実体を動かし作用(こころ)を揺さぶる。
(実際のところ、体と用は一体・一如(一体とは統合、一如は統合の流れ)である)
あっ、ちょっと待って。ぶぶぶよ!本当に欲求と感情を一緒にしていいのだろうか。
う~んう~ん、今は考えてもよくわかんないなぁ。
この問題はほおっておいて、いずれ来る天からのおつげを待つとするかな(笑)by インテグラ理論より
どうも、どうも。みんな元気~?
最近、霊魂に凝っていて赤外線カメラ(霊は赤外線にうつるらしい)をアマゾンで購入。先日もお墓の前で撮ったら、なんと人影が写っていた。おおおおぉぉぉぉ。
友人に見せたら、「お墓に反射したぶぶぶさんが写っているだけじゃないですかぁ」といわれた。ちっ、見破られたかぁ~。
日曜日は暇だったので、お墓に行こうかとドライブ。コンビニで手に取ったのが、一万円で作れるパソコン。
「おっと、これはおもしろい」とさっそくPCレボに部品を買いに。
見本どおりにやってみると、「おおおおおぉぉ、うごいたぁ」。
本にはなかったけど、DVDレコーダーとHDDを継ぎ足し、おおおおぉぉいっちょ前ぇ~!!!
OSはもちろん無料のリナックスのUbuntuを入れる。
無料OSだから、説明書がない。
インターネットを駆使して、オフィスの無料版を使い、中国語の言語を入れて、完成~~。
一万円の漢方の勉強にも使えるパソコンができたぁ~。
傷寒論をセーバーにして、中国語のピンインを自動音声で読めるようにして‥‥。うふふふふ。
そのに女房がきて「あんた、なにやってんのよ。そんなにパソコンがあってもしょうがないでしょう」と一括。しゅん。
おらのロマンが、通人にわかってたまるかぁ。

最近、霊魂に凝っていて赤外線カメラ(霊は赤外線にうつるらしい)をアマゾンで購入。先日もお墓の前で撮ったら、なんと人影が写っていた。おおおおぉぉぉぉ。
友人に見せたら、「お墓に反射したぶぶぶさんが写っているだけじゃないですかぁ」といわれた。ちっ、見破られたかぁ~。
日曜日は暇だったので、お墓に行こうかとドライブ。コンビニで手に取ったのが、一万円で作れるパソコン。
「おっと、これはおもしろい」とさっそくPCレボに部品を買いに。
見本どおりにやってみると、「おおおおおぉぉ、うごいたぁ」。
本にはなかったけど、DVDレコーダーとHDDを継ぎ足し、おおおおぉぉいっちょ前ぇ~!!!
OSはもちろん無料のリナックスのUbuntuを入れる。
無料OSだから、説明書がない。
インターネットを駆使して、オフィスの無料版を使い、中国語の言語を入れて、完成~~。
一万円の漢方の勉強にも使えるパソコンができたぁ~。
傷寒論をセーバーにして、中国語のピンインを自動音声で読めるようにして‥‥。うふふふふ。
そのに女房がきて「あんた、なにやってんのよ。そんなにパソコンがあってもしょうがないでしょう」と一括。しゅん。
おらのロマンが、通人にわかってたまるかぁ。

今日、犬が逃げてだしてちょ~大変だった。
畑の中を走るものだから、泥で真っ黒になりながら逃げ回る。必死で捕まえたときにはこっちも泥だらけだし、犬は肥やしのにおいがきつくて、くさくてくさくて、なんせ近くのなし畑に肥料用の馬糞の山があるのだが、犬はそれに頭からつっこんで中をほじくり、背中をごしごし馬糞に押しつける。私が「や、やめろ~~!」とさけぶとワンと吠えうれしそうにもっとする。
途中、犬のうんこくささがこちらに伝わってきて、捕まえるのにもチュウチョしたぐらい(このままほっといて帰ろうか迷った)。いつもは捕まえたアトブラシをかけるが、今日は到底かけられない。それに「よしよし」と頭をなでることも(とてもくさくて)ぜったいできない。
帰り際も、犬がこちらを向いて愛嬌を振りまこうとするのだが、「こら、だめ、こっち来るな」と怒ったりして(笑)。もう今日は悲しいぐらいとっても大変だったなぁ。
先週、生協で干しぶどう(130g)を買ったんだ。それを水(400cc)につけて一週間おいた(酵母を活性化させた)んだ。自然酵母だから、パンを作ってもよかったんだけど、最近パンは食べないので、お酒造りにした。
昨日、自然水を買ってきて砂糖を入れ砂糖水を作り、それに酵母をいれたんだ。あと一週間もすれば、お酒のできあがり。少し砂糖を足して、冷蔵庫に入れておけば炭酸がでて、口当たりもいい。味をつけて飲むと、これがカクテルになるんだなぁ。楽しみ。


畑の中を走るものだから、泥で真っ黒になりながら逃げ回る。必死で捕まえたときにはこっちも泥だらけだし、犬は肥やしのにおいがきつくて、くさくてくさくて、なんせ近くのなし畑に肥料用の馬糞の山があるのだが、犬はそれに頭からつっこんで中をほじくり、背中をごしごし馬糞に押しつける。私が「や、やめろ~~!」とさけぶとワンと吠えうれしそうにもっとする。
途中、犬のうんこくささがこちらに伝わってきて、捕まえるのにもチュウチョしたぐらい(このままほっといて帰ろうか迷った)。いつもは捕まえたアトブラシをかけるが、今日は到底かけられない。それに「よしよし」と頭をなでることも(とてもくさくて)ぜったいできない。
帰り際も、犬がこちらを向いて愛嬌を振りまこうとするのだが、「こら、だめ、こっち来るな」と怒ったりして(笑)。もう今日は悲しいぐらいとっても大変だったなぁ。
先週、生協で干しぶどう(130g)を買ったんだ。それを水(400cc)につけて一週間おいた(酵母を活性化させた)んだ。自然酵母だから、パンを作ってもよかったんだけど、最近パンは食べないので、お酒造りにした。
昨日、自然水を買ってきて砂糖を入れ砂糖水を作り、それに酵母をいれたんだ。あと一週間もすれば、お酒のできあがり。少し砂糖を足して、冷蔵庫に入れておけば炭酸がでて、口当たりもいい。味をつけて飲むと、これがカクテルになるんだなぁ。楽しみ。


さてさて、今日の話の鼻。
鼻は肺の付属機関ですが、肺以外に大きな影響を及ぼすところが2つあります。
ひとつは脾胃。
アレルギー性鼻炎のかなり多くの人は、胃腸が弱かったり、胃に熱を持っていたりします。
ただ、胃腸はわれわれ相談するほうも、される本人も、わかりやすく、漢方薬をふくようしても本人が治ってきたのがわかるので、「ん~ん、効いてみたい」って言ってくれたりします。
そしてもうひとつ大きな影響を及ぼすのが、肝ですね。
西洋医学で言う肝臓はそのものずばりで、役目は貯蔵・解毒ですが、漢方では内臓をそのものだけではなく、体全体におよぼす働きや関係性もさすので、肝といえばかなり広範囲のことを言います。
肝は疎泄(のびやかさ)を主る臓器。これはのびやか~な感じを各臓器にあたえてくれます。たとえば肺の呼吸をのびやかにしたり、胃腸の働きをのびやかにする。
この臓器は、ストレスによって悪化するのですが、
このストレスという一言が、よくわからない。「ストレスをなくしましょう」なんて医者が言うが、なくせるものならなくしたいが、ぜったいなくならない。
それにかかっている本人もよくわからないけれど、ものごとに反応する何かが本人のなかにある。
その関係性がわかるように、少し漢方の心理学をしっていると楽です。
漢方の心理学というと、話さなくてはいけないこともたくさんあるんですが、ここではかいつまんで話してみたいと思います。
まず、「人間の体は小宇宙」ですので、大宇宙の話から
皆さんは宇宙ってどうやって出来たかわかりますか。
たぶんわからないながらも、少し聞いたことがあるビックバンという大爆発から始まったんじゃないかと思っている。まさにそうだよね。
中国の神話では、宇宙はどうやってできたか。
太極という混沌から「盤古ばんこ」という巨人が生まれた。そこにあった、「澄んだもの(陽)」と、「濁ったもの(陰)」が上下に分かれて天地が生まれたんですね。これは日本書紀にも同じことが書かれている。日本はたぶん、この神話をぱくったのでしょうね。ただ少し変えて、盤古ではなく、光にしたんだけどね。
そして盤古が成長すると、それに従い、天は高くなり、地は深まり、2つは押し別れて、世界が広がったとあります。
そして盤古が死に、その死体から萬物がうまれた。
ではでは、漢方では宇宙をどう考えているのか。
昔々、我々の住んでいる宇宙は、太極という混沌でした。
そしてあるときにその太極の中で、神とともに陰陽が生まれたんですね。
神とは、物理の法則みたいなものも含んでいる。陽は拡散し、陰は収縮して萬物が生じました。
神を詳しくいいますと、萬物の中に存在する法則、万物の生・長・壮・老・病・死を、押し進め、はぐくみ、決定していく存在であります。
そして陰と陽は、たがいに混ざり合い、五つの属性に分かれていく。腕を見てください。漢方では、右は陽、左は陰。そして2つは、(手を開いて)それぞれ5つの属性に分かれる。
「木・火・土・金・水」これが陰陽五行論の基本ですね。
ここでは、そういうのがあるんだろうなぁなんて思っておけばいいと思います。
さてさて神ですが、萬物と一体になっている神があり、その生・長・壮・老・病・死を主っていて、その物 自体を支配し、そのもの自体を表している。神というと、内蔵の心臓など、しんだけでもいっぱいあるので、我々は大きな意味での神はカムイと呼んでいます。
このカムイというのは、アイヌ語で神さまという意味でして、また縄文時代のことばで「ムイ」というのがヘビを表しています。ヘビは、人を殺してしまう強い力を持っている。だから縄文の人たちは、ヘビを神さまとして祭ったんですね。
カムイは、アイヌでは人智を超えた存在として使われる。(アイヌは、縄文の名残を残している)。だから大きな意味での神は『カムイ』と呼びたい。これが私の説明のときに都合ががいいので、これから使います。
そして小さな意味での狭義の「神」は、自我をさしています。
さて人のカムイはなにに宿っているかと申しますと、人体を構成している基本的な物質である「精」に宿っている。
狭義の精は、生殖とか脳髄を補う意味で使われますが、大きい意味での精は、気血津液をも含め、その人の体全体をいっています。
だから、大きな意味では、体=精=神(カムイ)であり、カムイといえばその人の身体や活動、生命すべてを表す言葉になります。
そして、狭義の神。
神は、自我だといいましたが、神はいつもその人の中枢にいて、その人自身を表しているのですが、狭義の神の場合、カムイを木火土金水の属性によって、5つの神に分けています。
狭義の神は「神・魂・魄・意・志」の5つです。
ここでは、それぞれの詳しい説明はできませんが、肝臓のカムイであります魂だけ説明します。
まず魂はどんなやつかと申しますと、肝のカムイですが、血に宿っています。そして「~であらねばいけない」とか「~であるべきである」という、「規律」「しつけ」「道徳」を好みます。
また肝は将軍の将といわれるように、怒ればとてもつよいです。そしてからだに熱状があると、魂に関係する感情の『怒り』が強く出てきて、ひどくなれば狂症(狂ったようにあばれたりする)になってしまいます。
これはその人のカムイが狂ったように見えるのですが、実は、中枢が他の神に乗っ取られてしまうことで起こるのです。
たとえばいつもは毅然としているのに、お酒を飲むと泣き上戸になってしまう。しかし、お酒が冷めると毅然とした人に戻る。「昨日のあなたは、泣いてばかりいたよ」というと、本人はきょとんとする。「そんなことがあったの?」と、本人は何もなかったように平然としている。
これはその人の中枢にいつもいる神さんが、お酒を飲むことでどこかに行ってしまう。
そのスキに魂さんが入り込んで、中枢を動かしてしまう。魂さんは、いつも我慢に我慢を重ねている。やっと中枢を動かせるようになったものだから、いつものその人じゃない、あらぬ行動をおこさせる。
魂さんは違う人格のように、怒ったり暴れたりする。そしてお酒が冷めると、その人の神さんが中枢にもどってくる。神さんは、魂さんが暴れさせたのを知らず、あとで自分の行動を知ると「え~っ、俺じゃないよぉ~」っておどろく。
他人は、そんな変化がわからず、その人のカムイだけを見ているので、「あの人、お酒を飲むと人格が変わるよね」と、ひそひそ話をするようになる。
こんなことは日常でよく見られることで、いやなことがあった帰りに、ついクルマでスピードを出しすぎてしまう。そして事故になると、あの時どうかしていたと、なぜあんなにスピードを出したのかわけがわからない。
感情は気の動きです。怒れば、気はのぼり、喜べば気が緩む。
体に熱状がありますと、のぼる気が活発になり、怒りやすくなる。感情はかならず神を伴うので、魂さんも活発になるんですね。
だから怒りっぽい人は、清熱薬を飲ませる。あの苦いやつ。
よく我慢しているしている人は、気がたまり熱になりやすいので、よく清熱薬を使う。たとえば黄連解毒湯。怒っている人がいたら、黄連解毒湯を飲ませると、感情がおさまり、怒りがさまる。
また、たまった気は熱になりやすいので、薄荷などで「ぷしゅ~」って気を抜いてあげる。
清熱薬と薄荷、それに胃腸と補血薬が入っている加味逍遥散。
加味逍遥散が効くのは、だいたいいい人に多いです。
いい人は、いやなことがあっても怒らないで調整に回る。小さなことは我慢する。それがたまりにたまって、夜寝られなくなったり、ムネが脹ったりする。
魂さんは、血に宿っていますから女子は怒りやすくなる。
女性の子宮は「血海」と呼ばれ、血との関係が深く、魂さんも多いので、ストレスがたまると、生理も遅れがちになったり、ホルモンバランスがくずれる。
生理のときも、ホルモンが少なく、内膜が解けないので、生理のときに塊(レバー状)が出たりする。もちろん生理前は、魂さんの滞りがあるので、気分がイライラする。肝臓と子宮、女性には「怒りのボタンがふたつある」んですね。お~、怖い。
鼻は肺の付属機関ですが、肺以外に大きな影響を及ぼすところが2つあります。
ひとつは脾胃。
アレルギー性鼻炎のかなり多くの人は、胃腸が弱かったり、胃に熱を持っていたりします。
ただ、胃腸はわれわれ相談するほうも、される本人も、わかりやすく、漢方薬をふくようしても本人が治ってきたのがわかるので、「ん~ん、効いてみたい」って言ってくれたりします。
そしてもうひとつ大きな影響を及ぼすのが、肝ですね。
西洋医学で言う肝臓はそのものずばりで、役目は貯蔵・解毒ですが、漢方では内臓をそのものだけではなく、体全体におよぼす働きや関係性もさすので、肝といえばかなり広範囲のことを言います。
肝は疎泄(のびやかさ)を主る臓器。これはのびやか~な感じを各臓器にあたえてくれます。たとえば肺の呼吸をのびやかにしたり、胃腸の働きをのびやかにする。
この臓器は、ストレスによって悪化するのですが、
このストレスという一言が、よくわからない。「ストレスをなくしましょう」なんて医者が言うが、なくせるものならなくしたいが、ぜったいなくならない。
それにかかっている本人もよくわからないけれど、ものごとに反応する何かが本人のなかにある。
その関係性がわかるように、少し漢方の心理学をしっていると楽です。
漢方の心理学というと、話さなくてはいけないこともたくさんあるんですが、ここではかいつまんで話してみたいと思います。
まず、「人間の体は小宇宙」ですので、大宇宙の話から
皆さんは宇宙ってどうやって出来たかわかりますか。
たぶんわからないながらも、少し聞いたことがあるビックバンという大爆発から始まったんじゃないかと思っている。まさにそうだよね。
中国の神話では、宇宙はどうやってできたか。
太極という混沌から「盤古ばんこ」という巨人が生まれた。そこにあった、「澄んだもの(陽)」と、「濁ったもの(陰)」が上下に分かれて天地が生まれたんですね。これは日本書紀にも同じことが書かれている。日本はたぶん、この神話をぱくったのでしょうね。ただ少し変えて、盤古ではなく、光にしたんだけどね。
そして盤古が成長すると、それに従い、天は高くなり、地は深まり、2つは押し別れて、世界が広がったとあります。
そして盤古が死に、その死体から萬物がうまれた。
ではでは、漢方では宇宙をどう考えているのか。
昔々、我々の住んでいる宇宙は、太極という混沌でした。
そしてあるときにその太極の中で、神とともに陰陽が生まれたんですね。
神とは、物理の法則みたいなものも含んでいる。陽は拡散し、陰は収縮して萬物が生じました。
神を詳しくいいますと、萬物の中に存在する法則、万物の生・長・壮・老・病・死を、押し進め、はぐくみ、決定していく存在であります。
そして陰と陽は、たがいに混ざり合い、五つの属性に分かれていく。腕を見てください。漢方では、右は陽、左は陰。そして2つは、(手を開いて)それぞれ5つの属性に分かれる。
「木・火・土・金・水」これが陰陽五行論の基本ですね。
ここでは、そういうのがあるんだろうなぁなんて思っておけばいいと思います。
さてさて神ですが、萬物と一体になっている神があり、その生・長・壮・老・病・死を主っていて、その物 自体を支配し、そのもの自体を表している。神というと、内蔵の心臓など、しんだけでもいっぱいあるので、我々は大きな意味での神はカムイと呼んでいます。
このカムイというのは、アイヌ語で神さまという意味でして、また縄文時代のことばで「ムイ」というのがヘビを表しています。ヘビは、人を殺してしまう強い力を持っている。だから縄文の人たちは、ヘビを神さまとして祭ったんですね。
カムイは、アイヌでは人智を超えた存在として使われる。(アイヌは、縄文の名残を残している)。だから大きな意味での神は『カムイ』と呼びたい。これが私の説明のときに都合ががいいので、これから使います。
そして小さな意味での狭義の「神」は、自我をさしています。
さて人のカムイはなにに宿っているかと申しますと、人体を構成している基本的な物質である「精」に宿っている。
狭義の精は、生殖とか脳髄を補う意味で使われますが、大きい意味での精は、気血津液をも含め、その人の体全体をいっています。
だから、大きな意味では、体=精=神(カムイ)であり、カムイといえばその人の身体や活動、生命すべてを表す言葉になります。
そして、狭義の神。
神は、自我だといいましたが、神はいつもその人の中枢にいて、その人自身を表しているのですが、狭義の神の場合、カムイを木火土金水の属性によって、5つの神に分けています。
狭義の神は「神・魂・魄・意・志」の5つです。
ここでは、それぞれの詳しい説明はできませんが、肝臓のカムイであります魂だけ説明します。
まず魂はどんなやつかと申しますと、肝のカムイですが、血に宿っています。そして「~であらねばいけない」とか「~であるべきである」という、「規律」「しつけ」「道徳」を好みます。
また肝は将軍の将といわれるように、怒ればとてもつよいです。そしてからだに熱状があると、魂に関係する感情の『怒り』が強く出てきて、ひどくなれば狂症(狂ったようにあばれたりする)になってしまいます。
これはその人のカムイが狂ったように見えるのですが、実は、中枢が他の神に乗っ取られてしまうことで起こるのです。
たとえばいつもは毅然としているのに、お酒を飲むと泣き上戸になってしまう。しかし、お酒が冷めると毅然とした人に戻る。「昨日のあなたは、泣いてばかりいたよ」というと、本人はきょとんとする。「そんなことがあったの?」と、本人は何もなかったように平然としている。
これはその人の中枢にいつもいる神さんが、お酒を飲むことでどこかに行ってしまう。
そのスキに魂さんが入り込んで、中枢を動かしてしまう。魂さんは、いつも我慢に我慢を重ねている。やっと中枢を動かせるようになったものだから、いつものその人じゃない、あらぬ行動をおこさせる。
魂さんは違う人格のように、怒ったり暴れたりする。そしてお酒が冷めると、その人の神さんが中枢にもどってくる。神さんは、魂さんが暴れさせたのを知らず、あとで自分の行動を知ると「え~っ、俺じゃないよぉ~」っておどろく。
他人は、そんな変化がわからず、その人のカムイだけを見ているので、「あの人、お酒を飲むと人格が変わるよね」と、ひそひそ話をするようになる。
こんなことは日常でよく見られることで、いやなことがあった帰りに、ついクルマでスピードを出しすぎてしまう。そして事故になると、あの時どうかしていたと、なぜあんなにスピードを出したのかわけがわからない。
感情は気の動きです。怒れば、気はのぼり、喜べば気が緩む。
体に熱状がありますと、のぼる気が活発になり、怒りやすくなる。感情はかならず神を伴うので、魂さんも活発になるんですね。
だから怒りっぽい人は、清熱薬を飲ませる。あの苦いやつ。
よく我慢しているしている人は、気がたまり熱になりやすいので、よく清熱薬を使う。たとえば黄連解毒湯。怒っている人がいたら、黄連解毒湯を飲ませると、感情がおさまり、怒りがさまる。
また、たまった気は熱になりやすいので、薄荷などで「ぷしゅ~」って気を抜いてあげる。
清熱薬と薄荷、それに胃腸と補血薬が入っている加味逍遥散。
加味逍遥散が効くのは、だいたいいい人に多いです。
いい人は、いやなことがあっても怒らないで調整に回る。小さなことは我慢する。それがたまりにたまって、夜寝られなくなったり、ムネが脹ったりする。
魂さんは、血に宿っていますから女子は怒りやすくなる。
女性の子宮は「血海」と呼ばれ、血との関係が深く、魂さんも多いので、ストレスがたまると、生理も遅れがちになったり、ホルモンバランスがくずれる。
生理のときも、ホルモンが少なく、内膜が解けないので、生理のときに塊(レバー状)が出たりする。もちろん生理前は、魂さんの滞りがあるので、気分がイライラする。肝臓と子宮、女性には「怒りのボタンがふたつある」んですね。お~、怖い。
先日アレルギー性鼻炎の講演で、まくらを考えていたんですが、そのまくらをワープロに書いたので、ここに載せておきます。
ひまだったら、読んでね。
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皆さんこんにちは。
今日は、漢方をよく知らない方もいるようなので、日本の漢方の現状を少しばかり話したいと思います。
今、日本では、大きく分けて4つの流派があります。一つ目は、後世方派、つぎに古方派、そして考証学派、あと最近多くなってきた中医学があります。これらの流派は歴史的な背景がありまして発生してきました。少しこの辺をお話しておきます。
つい先日、TBSでJINという番組をやっていました。いまもBSでやっているようですが、これを見た方、おられますか?おおお、おられますね。
あの番組は、幕末の江戸に、現代の脳外科医がタイムスリップしてしまう話です。主役の南方仁さんは、医療機器も最新の薬もなにもない時代に降り立ち、孤軍奮闘し、エーテルや消毒用の焼酎などで、カナノコとノミで頭の手術までしてしまう。あのエーテルってどこにあったのかも不思議ですが。
またアオカビから、ペニシリンを抽出して女郎の梅毒をなおす。もう何でもやってくれっていうぐらいとにかくすごい。
その中で、緒方ゲンアンら蘭方医と敵対している漢方の大御所こそが、それが日本の最高の、いやあの当時は世界的に診てもトップクラスの医師であり、漢方家だったのが、多紀元堅ですね。
多紀元堅は、折衷派とよばれておりますが、なんの折衷かと申しますと古方派と後世方派の折衷。古方派と後世方派は、どんな感じだったかと申しますと、安土桃山時代から江戸時代初期に、中国の金元の医学(李朱医学ともよばれますが)が日本に広まりました。それまで坊主が医者をかねていたんですが、その頃から頭を丸めない漢方医が出来てきました。曲直瀬道三とか、田代三喜さん。この方たちの広めたのが、後世方派と呼ばれています。曲直瀬道三がかいたとされる「衆方規矩(しゅうほうきく)」は、江戸時代、生薬問屋には必ず置いてありまして、びにいりさいにいり、こんな病気にはこの処方がいい、風邪を引いたらまず香蘇散を飲ませて様子を見る。頭が痛ければセンキュウ・ビャクシを加えるなどなど、今でも読み物としても面白い。
そして江戸も中期に入りますと、古方派と呼ばれる、傷寒雑病論を中心の経典にした一派が生まてくる。古方派といっても、後世方派より後に生まれました。彼らは「理論なんかいらねえ。治ればいいんだ。それには経験的で実践的な古典の傷寒論に帰るのが本筋だ」ととなえ、理論が少ない実践的な傷寒論という経典から学ぼうとしたんです。なぜこんな一派が生まれたのかは、時代の流れがあります。
江戸時代は、皆さんもご存知のように鎖国をしておりまして。人は他人の言うことを聞かなくなると、大体、独自な、変わったおかしな考え方をするようになるようでして。
江戸時代初期は世の中、朱子学というのが主流になり、侍はみな学ぶようになって官学化し、昌平坂学問所では朱子学を中心において拡充されるようになったのですが、朱子学というのは「宇宙は理によって成り立っている」と唱えた学問なんですね。
理とは、物理の法則みたいなもので、「自然の理があるように、人間にも理がある。だから理を追求しよう」といって、道徳的なことも思弁的になっていきました。
それから思弁的なものを批判する一派、荻生徂徠とかの古学派というのが登場してきまして、理屈よりも経験をよりどころにすべしと、論語などの原典にもどることを主張したんですね。難しい理屈よりも、実践が重んじられる。
そして医学の分野も、それまでは中国(金元)の医学を受けて、陰陽五行論や五臓六腑論など理論的な李朱医学が中心になっていたんですが、これに反発する古方派がでてくる。「陰陽論は天地の気だから、体には関係ない」と言い出した。吉益東洞らは「陰陽は天地の気なり、医にとること無し」といって、我々のいる宇宙と同じように、人間の中は小宇宙であるとする、「人間=小宇宙」の人間観を否定していくんです。
そして古典の傷寒論にある理論だけを取り上げた。経験的、実証的な治療医学こそが漢方の本流であると言って。
ただ、こういう経験至上主義が、のちの蘭学に取って代われる原因をまねいたとも言われています。
そして江戸時代の後期になりますと、そんな古方派とさらに後世方派も、どっちも大切にしようという学派がうまれる。それがJINに出てくる多紀元堅らの折衷派と呼ばれる人たち(考証学派ともいうんですが)が出てきた。かれらは傷寒論・金匱要略などの経験実証医学も大切にするし、李朱医学の陰陽五行論や五臓六腑論なども大切にしていいところを取り込んでしまおうとした。
そんな彼らは、漢方の五経と呼ばれているすべての経典を深く読み取り、実力的にも世界一の医学を学んでいたと思います。また将軍の侍医となり、飛ぶ鳥も落とす勢いがありました。
地方から出てきて医学を学ぼうとする若者は、こぞって医学館の門をたたき、書かれた書物は、中国でも高く評価されました。
ですが、徳川の衰退と共に、明治になり、日本の医師制度が西洋医学に統一され、漢方では生業が立ち行かなくなり、本というのは高いものなのですが、漢方の本の価値は地におちまして、そこらへんに捨てられるようになったんですね。
そこで、漢方の本を安く集めて、中国に送ったのが、孫文ら中国の知識人たちです。
だから多紀元堅などの本は、いまでも中国語で出版されて、私でも読めるんですね。
かたや中国の漢方では、日本の比ではなくいろんな流派がありました。
中国で漢方家の集会をしようとしたのですが、いろんな流派があってひとつのところに集めることが出来ない。みんなで頭を寄せて考え、経典のひとつである傷寒論を書いた張仲景象を作ってそこに集めたぐらい色々な理論がある。
そして戦後、毛沢東さんが、田舎のほうにも医療をというので、西洋医学の薬は高くて手に入らない。だから手軽に手に入る漢方の学校を作ろうとする。しかし中国にはいろんな流派があって、とてもとてもまとまらない。
でも、毛沢東さんが言ったことは神の声に等しいんですね。
鶴の一声の号令のもと、もうとにかく作っちゃえと、中医学院というのを作った。
そして理論もごちゃ混ぜにして、中医学という名前にしたのですが、それが前の中医学の実体でした。
しかし、中国人は国家をあげて優秀な人が作るものですから、だんだんいいのが出来る。そして中医学院も大学に昇格され、いまや世界的にも一番とも呼べるようになってきたんです。
それが日本にも入ってきまして、中医学派として、ここ2~30年、だんだん増えてきまして、薬局漢方では主流になりつつあります。
これまで駆け足で話してきましたけど、日本には、古方派、後世方、考証学派、中医学派の4つがあります。
これをひとつの漢方団体としようという動きもありますが、各流派で話している言語、それ自体に違いがあり、お互いの言っていることが通じないという弊害もあります。
たとえば、「実証」という言葉ですが、古方派では「がっちりした丈夫な人」という意味で使われますが、考証学派や中医学派では、「邪が過剰」な場合を指します。「実」とは過剰という意味でつかわれ、邪実と呼ばれています。
さらに虚証とは、「やせて弱々しく冷え性」みたいなイメージで捉えられていますが、虚は不足の意味で、「虚証」は正気の不足、正虚の意味で言われます。
実は江戸時代は、古方派も「実は過剰、虚は不足」という意味で使ってたのですが、明治に入り、伝統医学は家伝薬ぐらいにしか使われず、さらに戦争が始まり薬草が手に入らなくなり、絶滅寸前の漢方家達は、薬草もないので日本独特の薬草を作る。「人参がないから、おらの裏山にある、竹節人参を使うべ」と四苦八苦していた。
そして戦後、若い漢方家を育てようとしたのですが、まずはわかりやすい方法として、実証とは「丈夫でがっちりした人」と言う意味で使ったようです。
山田光胤先生は、実証と虚証の間のひとを中間証と呼ぶようにしているところをみると、変更する気は、当分ないかとも思います。
もうひとつ大きな違いが、証の捉え方です。
古方派は、「方証相対」といいまして、処方名がそく証である(証とはあかし、その人の状態を言います)といいますが、かたや中医学派や考証学派は、「証とは、今、体に何が起こっているかをあらわすあかし」として『証』を使います。
だから古方派が、「この人は実証で、葛根湯証だ」といえば、われわれは「この人は、見た目が丈夫そうでがっちりしていて、いま風寒の邪に犯され、頭痛・発熱・悪寒があり、方が凝っていて、葛根湯を使いたいタイプなんだな」と通訳が必要なわけです。
ひまだったら、読んでね。
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皆さんこんにちは。
今日は、漢方をよく知らない方もいるようなので、日本の漢方の現状を少しばかり話したいと思います。
今、日本では、大きく分けて4つの流派があります。一つ目は、後世方派、つぎに古方派、そして考証学派、あと最近多くなってきた中医学があります。これらの流派は歴史的な背景がありまして発生してきました。少しこの辺をお話しておきます。
つい先日、TBSでJINという番組をやっていました。いまもBSでやっているようですが、これを見た方、おられますか?おおお、おられますね。
あの番組は、幕末の江戸に、現代の脳外科医がタイムスリップしてしまう話です。主役の南方仁さんは、医療機器も最新の薬もなにもない時代に降り立ち、孤軍奮闘し、エーテルや消毒用の焼酎などで、カナノコとノミで頭の手術までしてしまう。あのエーテルってどこにあったのかも不思議ですが。
またアオカビから、ペニシリンを抽出して女郎の梅毒をなおす。もう何でもやってくれっていうぐらいとにかくすごい。
その中で、緒方ゲンアンら蘭方医と敵対している漢方の大御所こそが、それが日本の最高の、いやあの当時は世界的に診てもトップクラスの医師であり、漢方家だったのが、多紀元堅ですね。
多紀元堅は、折衷派とよばれておりますが、なんの折衷かと申しますと古方派と後世方派の折衷。古方派と後世方派は、どんな感じだったかと申しますと、安土桃山時代から江戸時代初期に、中国の金元の医学(李朱医学ともよばれますが)が日本に広まりました。それまで坊主が医者をかねていたんですが、その頃から頭を丸めない漢方医が出来てきました。曲直瀬道三とか、田代三喜さん。この方たちの広めたのが、後世方派と呼ばれています。曲直瀬道三がかいたとされる「衆方規矩(しゅうほうきく)」は、江戸時代、生薬問屋には必ず置いてありまして、びにいりさいにいり、こんな病気にはこの処方がいい、風邪を引いたらまず香蘇散を飲ませて様子を見る。頭が痛ければセンキュウ・ビャクシを加えるなどなど、今でも読み物としても面白い。
そして江戸も中期に入りますと、古方派と呼ばれる、傷寒雑病論を中心の経典にした一派が生まてくる。古方派といっても、後世方派より後に生まれました。彼らは「理論なんかいらねえ。治ればいいんだ。それには経験的で実践的な古典の傷寒論に帰るのが本筋だ」ととなえ、理論が少ない実践的な傷寒論という経典から学ぼうとしたんです。なぜこんな一派が生まれたのかは、時代の流れがあります。
江戸時代は、皆さんもご存知のように鎖国をしておりまして。人は他人の言うことを聞かなくなると、大体、独自な、変わったおかしな考え方をするようになるようでして。
江戸時代初期は世の中、朱子学というのが主流になり、侍はみな学ぶようになって官学化し、昌平坂学問所では朱子学を中心において拡充されるようになったのですが、朱子学というのは「宇宙は理によって成り立っている」と唱えた学問なんですね。
理とは、物理の法則みたいなもので、「自然の理があるように、人間にも理がある。だから理を追求しよう」といって、道徳的なことも思弁的になっていきました。
それから思弁的なものを批判する一派、荻生徂徠とかの古学派というのが登場してきまして、理屈よりも経験をよりどころにすべしと、論語などの原典にもどることを主張したんですね。難しい理屈よりも、実践が重んじられる。
そして医学の分野も、それまでは中国(金元)の医学を受けて、陰陽五行論や五臓六腑論など理論的な李朱医学が中心になっていたんですが、これに反発する古方派がでてくる。「陰陽論は天地の気だから、体には関係ない」と言い出した。吉益東洞らは「陰陽は天地の気なり、医にとること無し」といって、我々のいる宇宙と同じように、人間の中は小宇宙であるとする、「人間=小宇宙」の人間観を否定していくんです。
そして古典の傷寒論にある理論だけを取り上げた。経験的、実証的な治療医学こそが漢方の本流であると言って。
ただ、こういう経験至上主義が、のちの蘭学に取って代われる原因をまねいたとも言われています。
そして江戸時代の後期になりますと、そんな古方派とさらに後世方派も、どっちも大切にしようという学派がうまれる。それがJINに出てくる多紀元堅らの折衷派と呼ばれる人たち(考証学派ともいうんですが)が出てきた。かれらは傷寒論・金匱要略などの経験実証医学も大切にするし、李朱医学の陰陽五行論や五臓六腑論なども大切にしていいところを取り込んでしまおうとした。
そんな彼らは、漢方の五経と呼ばれているすべての経典を深く読み取り、実力的にも世界一の医学を学んでいたと思います。また将軍の侍医となり、飛ぶ鳥も落とす勢いがありました。
地方から出てきて医学を学ぼうとする若者は、こぞって医学館の門をたたき、書かれた書物は、中国でも高く評価されました。
ですが、徳川の衰退と共に、明治になり、日本の医師制度が西洋医学に統一され、漢方では生業が立ち行かなくなり、本というのは高いものなのですが、漢方の本の価値は地におちまして、そこらへんに捨てられるようになったんですね。
そこで、漢方の本を安く集めて、中国に送ったのが、孫文ら中国の知識人たちです。
だから多紀元堅などの本は、いまでも中国語で出版されて、私でも読めるんですね。
かたや中国の漢方では、日本の比ではなくいろんな流派がありました。
中国で漢方家の集会をしようとしたのですが、いろんな流派があってひとつのところに集めることが出来ない。みんなで頭を寄せて考え、経典のひとつである傷寒論を書いた張仲景象を作ってそこに集めたぐらい色々な理論がある。
そして戦後、毛沢東さんが、田舎のほうにも医療をというので、西洋医学の薬は高くて手に入らない。だから手軽に手に入る漢方の学校を作ろうとする。しかし中国にはいろんな流派があって、とてもとてもまとまらない。
でも、毛沢東さんが言ったことは神の声に等しいんですね。
鶴の一声の号令のもと、もうとにかく作っちゃえと、中医学院というのを作った。
そして理論もごちゃ混ぜにして、中医学という名前にしたのですが、それが前の中医学の実体でした。
しかし、中国人は国家をあげて優秀な人が作るものですから、だんだんいいのが出来る。そして中医学院も大学に昇格され、いまや世界的にも一番とも呼べるようになってきたんです。
それが日本にも入ってきまして、中医学派として、ここ2~30年、だんだん増えてきまして、薬局漢方では主流になりつつあります。
これまで駆け足で話してきましたけど、日本には、古方派、後世方、考証学派、中医学派の4つがあります。
これをひとつの漢方団体としようという動きもありますが、各流派で話している言語、それ自体に違いがあり、お互いの言っていることが通じないという弊害もあります。
たとえば、「実証」という言葉ですが、古方派では「がっちりした丈夫な人」という意味で使われますが、考証学派や中医学派では、「邪が過剰」な場合を指します。「実」とは過剰という意味でつかわれ、邪実と呼ばれています。
さらに虚証とは、「やせて弱々しく冷え性」みたいなイメージで捉えられていますが、虚は不足の意味で、「虚証」は正気の不足、正虚の意味で言われます。
実は江戸時代は、古方派も「実は過剰、虚は不足」という意味で使ってたのですが、明治に入り、伝統医学は家伝薬ぐらいにしか使われず、さらに戦争が始まり薬草が手に入らなくなり、絶滅寸前の漢方家達は、薬草もないので日本独特の薬草を作る。「人参がないから、おらの裏山にある、竹節人参を使うべ」と四苦八苦していた。
そして戦後、若い漢方家を育てようとしたのですが、まずはわかりやすい方法として、実証とは「丈夫でがっちりした人」と言う意味で使ったようです。
山田光胤先生は、実証と虚証の間のひとを中間証と呼ぶようにしているところをみると、変更する気は、当分ないかとも思います。
もうひとつ大きな違いが、証の捉え方です。
古方派は、「方証相対」といいまして、処方名がそく証である(証とはあかし、その人の状態を言います)といいますが、かたや中医学派や考証学派は、「証とは、今、体に何が起こっているかをあらわすあかし」として『証』を使います。
だから古方派が、「この人は実証で、葛根湯証だ」といえば、われわれは「この人は、見た目が丈夫そうでがっちりしていて、いま風寒の邪に犯され、頭痛・発熱・悪寒があり、方が凝っていて、葛根湯を使いたいタイプなんだな」と通訳が必要なわけです。
ユダヤの思想家マルティン・ブーバーは、人間には二つの交流の世界があるという。ひとつは「我と汝」の関係性。一人称の私が、二人称の君と、直接向き合って対話する関係世界。もうひとつは「我とそれ」。一人称の私が、三人称の事物的現象を冷たく眼差したときに成立する関係世界。つまり一人称の私にとっては、対話を交わし心の交流を行いうる二人称の出会いの場面と、およそ対話的交流をかいた疎遠な第三者的な三人称の事物的対象世界の場面との二つの世界がある、言っているのである。
ブーバーによれば、「人間は、それと指しうる事物的対象なしでは生きることはできないが、しかしそれのみで生きるものは人間ではない」「すべての真実の生とは、出会いである」という。
近代社会は、事物的世界を増大させ、共同体を破壊し、個々人を孤立せしめ、「人間の孤独の新しい増大が同時にたち現れた」。けれども「人間は、自分の自己へと関係することによってでなく、他の自己へと関係することによってのみ、全(まった)きものたりうるのである」という。
汝との対話的なあり方の中でのみ、人間は本当に充足されうる。つまり人間の「自己」は、ほんとうには、「汝」と呼びうる「他者」との「出会い」において初めて成立しうるといっているのだ。
ブーバーによれば、「人間は、それと指しうる事物的対象なしでは生きることはできないが、しかしそれのみで生きるものは人間ではない」「すべての真実の生とは、出会いである」という。
近代社会は、事物的世界を増大させ、共同体を破壊し、個々人を孤立せしめ、「人間の孤独の新しい増大が同時にたち現れた」。けれども「人間は、自分の自己へと関係することによってでなく、他の自己へと関係することによってのみ、全(まった)きものたりうるのである」という。
汝との対話的なあり方の中でのみ、人間は本当に充足されうる。つまり人間の「自己」は、ほんとうには、「汝」と呼びうる「他者」との「出会い」において初めて成立しうるといっているのだ。


