連休中日は再び和の催しへ。





品川区の舞踊連盟ですが中央区のホール(笑)


私の踊りの師匠が出演いたしました。


師匠の演目は長唄「伊勢参宮」

お二人での出演でしたが息もぴったり、生き生きと伊勢参りの様子を踊って拍手喝采ビックリマーク

弟子の贔屓目を差し引いても、観客の気を逸らさせない魅力がありました。


この会は、品川区に関係する様々な流派の日本舞踊家が次々登場します。

1曲平均20分程でしょうか。

趣味で習っているだけの私が言うのもおこがましいのですが。。。

・・・観ていてふと思いました。

皆さんもちろんお上手で、たぶんある程度の舞台経験もあり、一所懸命踊られているのですが、夢中で20分観ていられるものと、どう集中力をを奮い立たせてももたないものがあります。

上手い下手、もしくは好き嫌いで分けられればいいのですが、どうもそう簡単にはいかないようで。

好きな演目で、しかもお上手なのになんだか退屈…ということがあるのです。

念のため・・・決して今日の会がつまらなかったって訳ではありません!たくさんの踊りの中で時々「今退屈なのはなぜ??」と思ったのです。


こういうことは音楽でも当然あります。センスもあって技術的にも完璧なのに聴いていて退屈って。ありますよね?

村上春樹さんも「意味がなければスイングはない」の中でそんな話を書いています。

舞踊でも音楽でも、きっと小説や演劇や美術でも同じことが言えるのでしょう。


でも、これってやる(作る)側からするとすごく恐ろしい!

がんばって努力して、上手くできても退屈されてしまう・・・。

退屈しないよう工夫を凝らしたつもりでも、やっぱり退屈されてしまう・・・。


人の心を掴んで離さないものと離してしまうものの違いってどこにあるのでしょう?


村上春樹さん曰く退屈の理由の一つは

「切迫した魂の欲求みたいなものがこちらにあまり伝わってこないのだ。」


切迫した魂の欲求・・・。

ふうむ。。必死さや緊張感でしょうか。

となると、考えてどうにかできることじゃないですねあせる



退屈されてもいいって開き直る手もありますが。

これはしばらく私の課題になりそうです。


意味がなければスイングはない (文春文庫)/村上 春樹
¥605
Amazon.co.jp