「あなたのスタイル・姿勢が悪いのはどうして」 | ミ―ナに恋をして

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誰も読まない、誰も覗いてくれない、寂しくてしょうがない、甘えたい、すがりたい、泣きたくてしょうがない、でも、誰も助けてはくれない。そんなブログを書いてみよう。

ふとしたことから、祖母の若かりし頃の資料ファイルが見つかった。


「処女会報」大正14年作成とある。祖母は、明治39年生まれである。私を育ててくれた人でもある。昭和17年に軍人であった夫を亡くし、二人の息子を女手一つで厳しく育て上げ、後に、不肖「孫の私を」かわいがってくれた人だ。その足跡をたどってみたいと思う。どうか、お付き合いいただければ嬉しいです。


ちなみに、私の父は、村役場に勤め、母は、小学校教師であった。母は、まだ健在で現在83歳である。





ではさっそく、私の祖母の「若いころ」の世界へご招待しよう。


挨拶(あいさつ)・身なりの心得」とある

西明寺処女会報(大正14年作成)


ひとつ「寝る時や起きた時には、父母(ふぼ)(おさ)に挨拶することを礼とすべし」


ひとつ「起床した時は、まず口をすすぎ手を清め顔を洗うべし」


ひとつ「寝てからみだりに談笑せざるものとす」


ひとつ「頭髪、顔、手足は、特にこれを清潔にすべし」


ひとつ「衣服は、清潔を(むね)とすべし、取り乱さざるように着るべし」


ひとつ「襟元(えりもと)は正しく合わせ開かざるようにすべし」


ひとつ「(おび)は、正しくこれを結ぶべし」


ひとつ「羽織(はおり)(はかま)(ひも)は正しくこれを結ぶべし」


ひとつ「帽子は、正しく(かぶ)るべし」


ひとつ「靴を()屋内(やない)に入れざるように注意すべし」




「姿勢・立ち姿」は

「上体をまっすぐにし、口を閉じ、両手を揃え、手は自然に垂らし、目は前方を正視すべし」とある。


以上が、「挨拶・身なりの心得」として記されている。



当たり前のことを、具体的にわかりやすく、丁寧に教え(さと)している。


どこまでも、自分に厳しく、気合の入った毎日の暮らし向きがわかる。

あいさつ、身だしなみには、特に気を配っていたこともわかる。




姿勢に関することでは、まず格好から「形から入る」ことを重んじているように思う。

まず、最初は、形から入ること。

それに理屈はいらないし、自ずと自分の身についてくるものだとある。


「姿勢」は背筋がピ--ンと伸びて、ビシッと決まっていると、誰でも気持ちが良いものだ。


いずれ、当時の若い娘の「清く、正しく、美しく」ありたいとの願いが、あふれんばかりだ。

自信に満ちあふれているようにさえ思う。


「当たり前のことを、当たり前に行い」素朴に実践していたことがわかる


現在、「その当たり前が当たり前でなくなっている」のはどうしてなのだろう。


情報社会で頭でっかちになり、身動きがとれないことは誰でも感づいているはずだ。


おそらく、背骨が曲がって、一本、筋が通っていないからだと思う。「はっきり言うが、あなたの姿勢が悪いのではないだろうか


心得の「ひとつ」でもいいから「真似(まね)てほしいし、形から入ってほしい」そして、リセットし自分に気合を入れ直してほしい。


「当たり前なことが、一番難しいことなのです」


「言うは(やす)く行うは(がた)し」ということです。


「当たり前が、当たり前でなくなった時初めて知る喜びなのかもしれません」


「都会に憧れそれを真似た田舎のように」自分の魅力に気づかず「本気で向き合うこと」をなおざりにしていたことに気づかされます。


わかっていることが、わかっていないのです。


どうして「挨拶」するのか。なぜ「挨拶」しなければならないのか自問自答する、ゆとりがないほど、せわしない世の中なのかもしれない。小賢しく振る舞わないと生きて行けない


「やまとだましい」が霞んで見えます。ドンドン遠くへ逃げていくようです。



人を頼みにするのは良くないことだが、どうか「私の欠点」を「あなたのその力で」「その若さで」取り戻してほしいのです。


挽回してほしいと思います。


よろしく、頼むぜ。「ガッチャマン」