オオシマ桜の開花 2021.3.11
佐藤武久 Sato Takeh…のmy Pick
初雪で折れたオオシマ桜の枝を鉢にさして部屋に置いたら今朝開花した。2021.3.11

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黒水城(カラホト)への夢
NHK取材班のシルクロード第三巻「幻の楼蘭・黒水城」の取材記「幻の黒水城」の「居延海牧歌」の章に次のような一文が見られる。
ーーー以下引用 p144 ーーー
十三世紀になると、酒泉からカラホトへ至る道は、ラクダの隊列に満たされるようになる。
シルクロードの河西回廊から北の蒙古高原に通じるキャラバン・ルートが確立するのであった。
カラホトはこのルートの最大の中継点として歴史に登場する。
十三世紀、中国を訪れたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中にこう記している。
「カンプチュー(現在の張腋)の町をたって国庫北方に向け十二日間の騎行を続けると沙漠の縁に位置するエチナ市につく。
・・・・・(中略)・・・・・
このエチナ市をたって北方に騎行すること四十日間というものは全行程すべて沙漠で人煙は途絶し宿駅も存しないから、旅行者はどうあってもこの町で四十日間分の食料を調達しておかなければならない」
(愛宕松雄訳註『東方見聞録』)
このエチナ市とは、まさにカラホトのことなのである。
ーーー引用終わりーーー
また
ーーー以下引用p144ーーー
「漢の武帝の天漢ニ年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜障(しゃりょしょう)を発して北へ向かった」
作家中島敦は、小説『李陵』をそう書き出している。
遮虜障とはこの居延城のことである。
紀元前九九年、対匈奴作戦の別働隊の使命を帯びた李陵は五千の部下を率いて 居延城を出発したのである。
匈奴の本拠地浚稽山(しゅんけいさん)の近くで李陵の漢軍は、匈奴の近衛師団四万騎に包囲される。
李陵は兵と一心同体となって戦いながら、居延城への帰還を試みた。
しかし居延城の北五十キロにまでたどり着きながら裏切り者の出現により、彼の軍は壊滅、李陵は武運つたなく捕われの身となった。
漢の武帝は怒り、のち、李陵の老母、妻子眷族をみな殺しにしてしまう。
李陵は匈奴人の妻を娶り、二度と漢の地を踏まなかったという。
この居延はそうした悲劇の舞台でもあった。
ーーー引用終わりーーー
ここで言う浚稽山(しゅんけいさん)とは、モンゴルのアルタイ山脈の東の裾のボグド山のことである。
2016年7月16日、モンゴルのバヤンホンゴル県を旅した時、バヤンリグという村落を訪ねた。
断崖絶壁に囲まれた切通しの道を21分ほど走って抜け出た所で休憩した。
アルタイ山脈の東麓で中国国境から約200キロほど北に位置する所であった。
その時は、はっきり意識していなかったが、シルクロードの酒泉の北に位置する所で、ここで言う居延城を通過して北上した地点である。
まさに李陵が戦いに敗れて捕らわれの身となった地点である。
そんな悲劇の舞台であったことも気づかず、断崖絶壁の切通しの危険な道を無事に通過した安堵感と明るい平原に飛び込んだ解放感で、ペロペロキャンディを舐めながら休憩したのであった。
関連資料:
西の方のバヤンリグ村に抜ける切通しのような断崖の道が続く。車で通り抜けるのに21分ほどかかった。崖の洞穴に山猫など住むそうだが目撃できなかった。16日撮影
バヤンリグ村はここです。左下の赤い線で囲った所。中国国境まで約200km。
左下の国境の南側のソゴノールの近くが遮虜障(居延城)とカラホト。
匈奴の若干の地名について
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/154304/1/jor048_4_741.pdf
黒水城(カラホト)への夢
NHK取材班のシルクロード第三巻「幻の楼蘭・黒水城」の取材記「幻の黒水城」の「居延海牧歌」の章に次のような一文が見られる。
ーーー以下引用 p144 ーーー
十三世紀になると、酒泉からカラホトへ至る道は、ラクダの隊列に満たされるようになる。
シルクロードの河西回廊から北の蒙古高原に通じるキャラバン・ルートが確立するのであった。
カラホトはこのルートの最大の中継点として歴史に登場する。
十三世紀、中国を訪れたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中にこう記している。
「カンプチュー(現在の張腋)の町をたって国庫北方に向け十二日間の騎行を続けると沙漠の縁に位置するエチナ市につく。
・・・・・(中略)・・・・・
このエチナ市をたって北方に騎行すること四十日間というものは全行程すべて沙漠で人煙は途絶し宿駅も存しないから、旅行者はどうあってもこの町で四十日間分の食料を調達しておかなければならない」
(愛宕松雄訳註『東方見聞録』)
このエチナ市とは、まさにカラホトのことなのである。
ーーー引用終わりーーー
また
ーーー以下引用p144ーーー
「漢の武帝の天漢ニ年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜障(しゃりょしょう)を発して北へ向かった」
作家中島敦は、小説『李陵』をそう書き出している。
遮虜障とはこの居延城のことである。
紀元前九九年、対匈奴作戦の別働隊の使命を帯びた李陵は五千の部下を率いて 居延城を出発したのである。
匈奴の本拠地浚稽山(しゅんけいさん)の近くで李陵の漢軍は、匈奴の近衛師団四万騎に包囲される。
李陵は兵と一心同体となって戦いながら、居延城への帰還を試みた。
しかし居延城の北五十キロにまでたどり着きながら裏切り者の出現により、彼の軍は壊滅、李陵は武運つたなく捕われの身となった。
漢の武帝は怒り、のち、李陵の老母、妻子眷族をみな殺しにしてしまう。
李陵は匈奴人の妻を娶り、二度と漢の地を踏まなかったという。
この居延はそうした悲劇の舞台でもあった。
ーーー引用終わりーーー
ここで言う浚稽山(しゅんけいさん)とは、モンゴルのアルタイ山脈の東の裾のボグド山のことである。
2016年7月16日、モンゴルのバヤンホンゴル県を旅した時、バヤンリグという村落を訪ねた。
断崖絶壁に囲まれた切通しの道を21分ほど走って抜け出た所で休憩した。
アルタイ山脈の東麓で中国国境から約200キロほど北に位置する所であった。
その時は、はっきり意識していなかったが、シルクロードの酒泉の北に位置する所で、ここで言う居延城を通過して北上した地点である。
まさに李陵が戦いに敗れて捕らわれの身となった地点である。
そんな悲劇の舞台であったことも気づかず、断崖絶壁の切通しの危険な道を無事に通過した安堵感と明るい平原に飛び込んだ解放感で、ペロペロキャンディを舐めながら休憩したのであった。
関連資料:
西の方のバヤンリグ村に抜ける切通しのような断崖の道が続く。車で通り抜けるのに21分ほどかかった。崖の洞穴に山猫など住むそうだが目撃できなかった。16日撮影
バヤンリグ村はここです。左下の赤い線で囲った所。中国国境まで約200km。
左下の国境の南側のソゴノールの近くが遮虜障(居延城)とカラホト。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/154304/1/jor048_4_741.pdf
黒水城(カラホト)への夢
NHK取材班のシルクロード第三巻「幻の楼蘭・黒水城」の取材記「幻の黒水城」の「居延海牧歌」の章に次のような一文が見られる。
ーーー以下引用 p144 ーーー
十三世紀になると、酒泉からカラホトへ至る道は、ラクダの隊列に満たされるようになる。
シルクロードの河西回廊から北の蒙古高原に通じるキャラバン・ルートが確立するのであった。
カラホトはこのルートの最大の中継点として歴史に登場する。
十三世紀、中国を訪れたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中にこう記している。
「カンプチュー(現在の張腋)の町をたって国庫北方に向け十二日間の騎行を続けると沙漠の縁に位置するエチナ市につく。
・・・・・(中略)・・・・・
このエチナ市をたって北方に騎行すること四十日間というものは全行程すべて沙漠で人煙は途絶し宿駅も存しないから、旅行者はどうあってもこの町で四十日間分の食料を調達しておかなければならない」
(愛宕松雄訳註『東方見聞録』)
このエチナ市とは、まさにカラホトのことなのである。
ーーー引用終わりーーー
また
ーーー以下引用p144ーーー
「漢の武帝の天漢ニ年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜障(しゃりょしょう)を発して北へ向かった」
作家中島敦は、小説『李陵』をそう書き出している。
遮虜障とはこの居延城のことである。
紀元前九九年、対匈奴作戦の別働隊の使命を帯びた李陵は五千の部下を率いて 居延城を出発したのである。
匈奴の本拠地浚稽山(しゅんけいさん)の近くで李陵の漢軍は、匈奴の近衛師団四万騎に包囲される。
李陵は兵と一心同体となって戦いながら、居延城への帰還を試みた。
しかし居延城の北五十キロにまでたどり着きながら裏切り者の出現により、彼の軍は壊滅、李陵は武運つたなく捕われの身となった。
漢の武帝は怒り、のち、李陵の老母、妻子眷族をみな殺しにしてしまう。
李陵は匈奴人の妻を娶り、二度と漢の地を踏まなかったという。
この居延はそうした悲劇の舞台でもあった。
ーーー引用終わりーーー
ここで言う浚稽山(しゅんけいさん)とは、モンゴルのアルタイ山脈の東の裾のボグド山のことである。
2016年7月16日、モンゴルのバヤンホンゴル県を旅した時、バヤンリグという村落を訪ねた。
断崖絶壁に囲まれた切通しの道を21分ほど走って抜け出た所で休憩した。
アルタイ山脈の東麓で中国国境から約200キロほど北に位置する所であった。
その時は、はっきり意識していなかったが、シルクロードの酒泉の北に位置する所で、ここで言う居延城を通過して北上した地点である。
まさに李陵が戦いに敗れて捕らわれの身となった地点である。
そんな悲劇の舞台であったことも気づかず、断崖絶壁の切通しの危険な道を無事に通過した安堵感と明るい平原に飛び込んだ解放感で、ペロペロキャンディを舐めながら休憩したのであった。
関連資料:
西の方のバヤンリグ村に抜ける切通しのような断崖の道が続く。車で通り抜けるのに21分ほどかかった。崖の洞穴に山猫など住むそうだが目撃できなかった。16日撮影
バヤンリグ村はここです。左下の赤い線で囲った所。中国国境まで約200km。
左下の国境の南側のソゴノールの近くが遮虜障(居延城)とカラホト。
黒水城(カラホト)への夢
NHK取材班のシルクロード第三巻「幻の楼蘭・黒水城」の取材記「幻の黒水城」の「居延海牧歌」の章に次のような一文が見られる。
ーーー以下引用ーーー
「漢の武帝の天漢ニ年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜障(しゃりょしょう)を発して北へ向かった」
作家中島敦は、小説『李陵』をそう書き出している。
遮虜障とはこの居延城のことである。
紀元前九九年、対匈奴作戦の別働隊の使命を帯びた李陵は五千の部下を率いて 居延城を出発したのである。
匈奴の本拠地浚稽山(しゅんけいさん)の近くで李陵の漢軍は、匈奴の近衛師団四万騎に包囲される。
李陵は兵と一心同体となって戦いながら、居延城への帰還を試みた。
しかし居延城の北五十キロにまでたどり着きながら裏切り者の出現により、彼の軍は壊滅、李陵は武運つたなく捕われの身となった。
漢の武帝は怒り、のち、李陵の老母、妻子眷族をみな殺しにしてしまう。
李陵は匈奴人の妻を娶り、二度と漢の地を踏まなかったという。
この居延はそうした悲劇の舞台でもあった。
ーーー引用終わりーーー
ここで言う浚稽山(しゅんけいさん)とは、モンゴルのアルタイ山脈の東の裾のボグド山のことである。
2016年7月16日、モンゴルのバヤンホンゴル県を旅した時、バヤンリグという村落を訪ねた。
断崖絶壁に囲まれた切通しの道を21分ほど走って抜け出た所で休憩した。
アルタイ山脈の東麓で中国国境から約200キロほど北に位置する所であった。
その時は、はっきり意識していなかったが、シルクロードの酒泉の北に位置する所で、ここで言う居延城を通過して北上した地点である。
まさに李陵が戦いに敗れて捕らわれの身となった地点である。
そんな悲劇の舞台であったことも気づかず、断崖絶壁の切通しの危険な道を無事に通過した安堵感と明るい平原に飛び込んだ解放感で、ペロペロキャンディを舐めながら休憩したのであった。
関連資料:
西の方のバヤンリグ村に抜ける切通しのような断崖の道が続く。車で通り抜けるのに21分ほどかかった。崖の洞穴に山猫など住むそうだが目撃できなかった。16日撮影
バヤンリグ村はここです。左下の赤い線で囲った所。中国国境まで約200km。
左下の国境の南側のソゴノールの近くが遮虜障(居延城)とカラホト。

作家開高健の世界 最期の冒険〜カナダで吠える
ぶんぶく茶釜[0007] 高画質(HD)
雪女[0012] 高画質(HD)
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バヤンリグ村に抜ける切通しの道
中島敦 李陵