夜津野(よつの)の部屋に行かなければならなかった。
夜津野とは誰なのか、なぜ部屋なのか、なぜ行かなければならないのか、私にはわかっていなかった。
ただ ”行かなくてはならない” という使命感だけがあり、
しかも急がなくてはならないという焦燥感に追われていた。
何かに引っ張られているかのようにぐったりと下を向いている重い腕は、
急ぐ足に合わず、また走りづらくもしていた。
(急がなければ…)
冷や汗が背中を流れるのを感じながら、
思うように動かない身体に苛立ちを感じながら、いつしか小走りになっていた。
夜津野の部屋はこの先の辻を左に曲がって、ふた呼吸ほどの所だ。
その辻がようやく夜の闇の中にぼんやりと見えてきたとき、
前方に二人の影を見つけた。
私は足を緩めるでもなく、ことさらにそちらを見ようともしなかったが、
上品なご隠居さん風の老人と、若い侍が立ち話しているのはわかった。
(こんな夜中にどうして・・・?)
自分のことを棚に上げて、その奇妙な二人連れを眼の隅でとらえながら、
横を通り過ぎ、そのときふわっと、何かが鼻腔をくすぐった。
(…香?)
着物に焚きしめてあるのだろうか、上品なだけはある、と
心でうなずきながら、私はそこを足早に去った。
夜津野の部屋のある家屋は、玄関と呼べるものがなかった。
なぜ、行かなくてはいけないのが夜津野の家ではないのだろうと
不思議に思いながらも、訪いも入れず中に入る。
中に入るとそこは土間だった。
片隅には雑多なものが、しかし整然と片付けて置いてあった。
土間に入ってから一歩で上がり框があり、そこからまた一歩のところにむき出しの階段があった。
階段は、入ったところから左に向かって上っていくようになっている。
壁も手すりもなく、ただ二階へ行くためだけの簡単な作りだ。
とにかく夜津野の部屋が二階にあるのはわかっていたから、
そこをあがっていくと、三畳ほどの板間があった。
階段とは反対側に、夜津野の部屋があった。
その部屋の前には、夜津野の部屋の世話をする女中が二人いた。
一人はまだ若いようだったが、恐怖におののき、眼を見開いている。
もう一人は階段のほうを向いて、夜津野の部屋を背中にし、
眼を硬く瞑って、いっそこれから切腹でもするのかと思うほどの凄絶さで、正座していた。
二人をそんな状態にしたものは、私にもすぐにわかった。
夜津野の部屋に入る襖の横の壁。
白く塗られた青みがかったその壁に、夜津野がいた。
どすぐろいほどの血のような赤い唇が震えるように浮かび、
同じく血のように赤い眼をぎょろりとさせ、恨みのこもった鋭い眼差しが浮かび、
うねうねとした黒髪が浮かぶ。
そして、それらは蠢いていた。
黒髪が浮かんだと思うと消え、眼差しも消え、唇も消える。
いくらもせず、また浮かび上がるその夜津野の顔は、
もはや人間のものではなかった。
若い女中が短く奇声を発して倒れた瞬間に、
私は夜津野と視線を絡み合わせた。
(そうだ。夜津野は鬼だ。そして、私はそれを調伏しなくてはならない・・・)
思った瞬間、
『己に、己なぞに、わらわの心がわかるものか~~~!!!』
という叫び声が聞こえ、夜津野が壁から離れ、突風のように私の額に入り込んだ。
それは憎しみだった。
それは悲しみだった。
そして・・・・夜津野を夜津野でなくさせたもの。
心の底から湧き上がる怒りだった。
私はそれを全身で感じていた。
憎しみは全身の筋肉を硬直させ、悲しみは、硬く瞑っている瞼の下から、溢れ流れ出ていた。
怒りは炎を伴い、血に流れ、先ほどまであんなに重かった腕が、
今にも誰かの首を締め付けようと、わななきながら、前へと上げていた。
そして、正座している女中の首に手を伸ばしかけた時、私は気絶していた。
夜津野は二三朗の妻だった。惚れて惚れられて一緒になったはずだった。
二三朗は夜津野のために、白い絹の袷を何枚もつくった。
二人が共にする褥さえも白だった。
『夜津野は白がよく似合う。本当に綺麗だよ』
口癖のようにいつも言っていたものだ。
夜津野はいつも綺麗でいようと、その白い袷を大事にした。
幸せは続くはずだった。
二三朗が、紅の似合う女に出会わなければ・・・。
『・・・気が付かれたようですね。』
先ほど首を絞めようとした女中だ。私は何かを言おうと口を開けたが、ゆるくそれを制し、
『夜津野様はお戻りになりました。心配ございません、大丈夫ですよ』
夜津野は戻った? それは…? どういうことなのだろうと思い始め…
『夜津野は戻っておらぬ!夜津野はまだ私の中におる!私はここに居る!』
自分の声ではないと思った。
しかし、また血が沸き始め、女中の首を求めて腕がどんどん上がってくる。
(このままじゃあぶない!)
どうしたらよいものか、急いで思案しようとしたそのときに土間から声があがった。
『そのまま!』
(そのままって言われたって!)
意思の力で必死で腕を押さえつけ、首をめぐらせる。
昨夜のご隠居さんだ。後ろにはあの侍もいる。
どういうことなのか・・・そもそもこの二人はなぜここにきたのか?
どうして私はここにいるのか? 本当に夜津野は私の中にいるのか?
めまぐるしく考えていると、腕を押さえる力が足りなくなってくる。
そうしているわずかな間に、ご隠居さんが私の横にいて、侍に指示をする。
侍は私の額に指をつけ、何か呪を唱えた。
そして、私はまた気を失った。
次に気がついたときには和室に一人でいた。いや、二人なのか?
思考は完全に堂々巡りになっていた。
ふと気づくと、その部屋には香りがした。
(…香?)
そういえば、昨日すれ違ったときにも、おなじような香りがしたのだった。
それは、私にとっては癒される香りだったが、夜津野にとってはいらいらさせる香りだったらしい。
気持ちが落ち着かなくなってきて、そわそわし始めたときに、彼らが部屋に入ってきた。
ご隠居さんと、若い侍、そして何かを抱えた女中。
気絶した女中はそのまま寝込んでしまったのだろうか?
ご隠居さんが横に座って言った言葉に私は絶句してしまった。
『夜津野が喰らう人間を連れてきた』
喰らう?人を? 鬼である夜津野は人を喰らうのか?
呆然としている私の目の前に、女中は小さな三寸ほどの人形を丁寧に置いていった。
ご隠居さんも侍も、女中すら息を殺してすべてが置かれるのを待った。
確かに人形だった。
しかし、瞬きしたその後は、小さな人だった。
両腕で自分を抱きこみ、寒さをこらえるように足踏みしている人。
赤い着物を着ている女の子は鞠つきをしている。
小さな人よりさらに小さな人と、何かを分け合って食べている人もいた。
『…これは?』
ご隠居はゆっくりと答えた。
『夜津野は今まで人に取り憑いたことはなかった。
だからあそこで女中が世話しておったのだ。
なぜあなたなのかわからんが、あなたに取り憑いた。
夜津野は人を喰らって精気を得ようとしておる。
今はまだあなたの力でおさえていられるが、
それもいつまで続くかわからぬ。
調伏することは叶わぬとも、力をなくすことはできよう。』
侍が続けていう。
『夜津野が食べようとする人形を指差すだけでよい』
そんなことを言われても・・・もう一度人形の群れを見る。
ふっと、手があがった。
ひとつの人形を指差す。
と、それは生きた人間となり、私の、いや夜津野の指で捕らわれるその刹那、
人形に戻った。そしてそれは消えてなくなっていた。
(人を喰らわずに済んだ…)
不思議を感じる前に安堵する私の気持ちと、喰らうことのできなかった夜津野の気持ちが交叉する。
どうして指差すことができたのか。私と夜津野に何か共通点があるのだろうか?
鬼になった夜津野との共通点…。私は考えるのをやめた。
そしてまた手があがる。
ひとつの人形を指差す。
捕らえる刹那、人形となって消える。
何度それを繰り返しただろうか?
夜津野の怒りが漲ってくる。私の眼の奥が怒りで赤く染まっていく。
もう私なのか夜津野であるのか、わからなくなっていた。
『喰らわせろ!!喰らわせろ!!』
指差す間もなく、身体ごと小さな人を捕らえようと、前のめりになった瞬間。
轟音とともに、禍々しい光が眼をくらませた。
その中心に夜津野がいることはわかっていた。
無意識のうちに、私は印を結び、呪を唱え、その中心へ向けた。
そして、ご隠居さんも侍も女中すらも、印を結び、中心へ向かって手を伸ばしていた。
その時になにが起こったのかはわからない。
しかしご隠居さんが、優しくささやいた。
『もう大丈夫。 あなたもお帰りなさい。 あなたを待つ人の居る、あなたの世界へ』
そして私は気が遠くなっていくのを感じた。
大好きなあの人が綺麗だよって言ってくれるのを期待して、白い服を買ったよ。
普段はそんな色着ないんだけどね。
白い服を着ると、綺麗になるような気がして。
その服を胸にあてて、にっこりと微笑んでいる私。
鏡に映った私の瞳は血のように赤くなっていた。
※ 私の夢を元にしたフィクションです、って当たり前ですw
終わりかたがいまいちなんですが、しろうとだし、おもいつきなんで、笑って許してください。