私は、若い頃、黒澤明監督(以下「黒澤監督」と言います)の映画に魅了されていて、このブログのVol.74【映画 黒澤明の映画①】でお話ししましたが、黒澤監督の30作品のうち25作品を見ています(見ていない作品は、戦時中に製作された「一番美しく」(1944年)、戦後すぐに公開された「わが青春に悔いなし」(1946年)、「影武者」の次に製作された「乱」(1985年)、晩年の「八月の協詩曲」(1991年)と「まあだだよ」(1993年)です)。
Vol.116【私にとっての黒澤明の映画②(終わり)】で、『その中に黒澤監督の「酔いどれ天使」(1948年:公開年次→以下同じ)、「野良犬」(1949年)、「生きる」(1952年)がありました。日本映画を見始めて早い時期にこの3つの作品に出会えたことは、本当に幸せだったと思います。この3つの作品については、後日、独立した稿でお話ししたいと思っています』とお話ししました。
今回は、この3つの作品のうち「酔いどれ天使」についてお話ししたいと思います。
「酔いどれ天使」は、戦後の混沌とした時代を背景として、「志村喬」(以下「志村喬さん」と言います)が演じるアル中(←言葉が古いですね)の医者と「三船敏郎」(以下「三船敏郎さん」と言います)が演じる破局へ向かう若いヤクザを中心とした人間ドラマです。
志村喬さんの芸歴は古く、映画にデビューしたのは1934年だとのことです。戦前の作品では、「嵐寛寿郎」さん主演の「右門捕物帳」というシリーズの「アバタの敬四郎」という役が志村喬さんの当たり役となったそうです。志村喬さんは、黒澤監督の映画には、黒澤監督のデビュー作である「姿三四郎」(1943年)からしばしば出演していますが、主役級で出演したのは「酔いどれ天使」が最初で、その後、黒澤監督の映画には欠かせない方となりました。
一方、三船敏郎さんは、終戦後、ドラム缶を運ぶ肉体労働に従事していましたが、それだけでは生活が不安なため、その頃東宝撮影所撮影部にいた軍隊の時の先輩が、かつて「除隊したら俺を訪ねてこい。撮影助手に使ってやるから」と言っていたのを思い出して、その先輩を訪ねます。しかし撮影助手は定員いっぱいで、その先輩の「あとで空きが出たら撮影部に入れてやる」という助言により、ちょうどその時募集していた「第1回東宝ニューフェイス」(←俳優のオーディション)に渋々応募することになります。しかし、もともと俳優になる気はさらさらないので、審査員に対するふるまいはほとんど無礼に近く、質問にろくに返事もしなかったそうです。紆余曲折があり、三船敏郎さんは、応募者4000人の中から選ばれた32人の合格者の一人となりました。三船敏郎さんのデビュー作は「銀嶺の果て」(1947年)という映画で、監督は「谷口千吉」さん、原作・脚本は黒澤監督でした。この映画には志村喬さんも出演していました。
黒澤監督、志村喬さん、三船敏郎さんは、こうして運命のように結びつき、「銀嶺の果て」の次の年に「酔いどれ天使」が製作されることになります。
この「酔いどれ天使」という映画のあらすじについては、以下のwikipediaを参照していただけるでしょうか。
[酔いどれ天使 Wikipedia]
いつも思うのですが、本当に素晴らしい作品についてお話しする場合、うまく説明できない自分の無力さを痛感します。
次回は、この映画について私の心に残っていることをお話ししたいと思います。
[銀嶺の果て]
[酔いどれ天使 医者とヤクザの会話]
[酔いどれ天使 悪夢のシーン](0分50秒あたりから)
※ Xに画像を投稿しました(2025.7.16)。
(以下次回→時期は未定)