昨日、「家に関して執着がなかった」

という話を書きましたが↓



その後これを読んでいて気づいたんです。



ボロボロの長屋に住んでいた高校生のころ

なぜ、なんにもいらないと思ったのか。


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「母がいればそれで良かった」











と書いた自分の文章。





そう



わたしにとって、家がどうであれ
家財道具がどうであれ



母がいることが一番大切だったんだと。








高校1年生の時は硬式テニス部に入っていて
毎日遅くまで練習していた。
ボール拾いをしていた時、
先輩のスマッシュが目に直撃して
失明の危機に陥り、絶対安静になった。
その後なんとか視力も回復したけど、
長い間休んでいたので同級生から遅れをとり
1年生の末に退部してしまった。


今思えば、その時までが普通の暮らしの最後だったのだと思う。



高2になり、家計が苦しいことを知り、
理容店でバイトを始めるようになった。
1年の時から奨学金をもらっていたので、そのまま継続。
学校のお金は自分のバイト代でまかなうように。
修学旅行費なども自分で払った。









理容師になることを決めた3年生にあがるころ




母が失踪した。




後で聞いたら、そのタイミングは
弟の中学卒業だったらしい。




一家崩壊、家族は離散。




両親の離婚の原因はすっごく複雑だったけど、
そのうちの1つに
家のローンのことがあったらしいことは
子どものわたしにもわかった。




まあとにかくその頃は
なんだかんだ壮絶な日々を過ごし



結果的に
数ヶ月後に母と暮らすことになった。















だからだ。

家なんて
どうでもよかったんだ。


母が無事で、
側にいられる。

それだけで良かったんだ。






それが根底にあるから、
わたしは住まいに興味がなくなった。




前に同居していた時も
わたしの中のメインは子どもたちと一緒に居ることだった。

だから住まいに文句は何もなかった。
ように思えた。





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「暮らす」
ということは
「家」っていうハコがあって、
その中に
「暮らし」がある。



家は
暮らしを快適にするためのハードのひとつ。


ソフトとしての、中身としての
「暮らし」のなかで
何が大事かで

家への執着が変わるのかなと思った。









生きていること
共に過ごしたい人がいること

そんな根本的なことしかない生活だったら
家なんて二の次だ。





家にお金や時間をかけることができるのは
恵まれているということ。

幸せを当たり前に思わないことが
大切なんじゃないか




そう思います。