昨日1月20日の多田ゆかちゃん
のブログ

俯瞰することで自分の「執着」が見えてくる



を読んで、思ったこと。


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どーも。
イラストレーターときどきDIYer
ココロ系ヒトリゴトが好きな
タナビキミキです。




子どものころ、地元・奈良の若草山の一番高いところから見下ろして思った。




区切られた土地を、
先に持ってる人から
高いお金を出して買い

そこに家を建てて

そのお金を一生かけて支払い

そして死んで行く





この日本人の「当たり前」のスタイル
誰もがなんの疑問も持たずにやってるけど…


なんのために生まれてきたの?


って。


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高校生の頃


失踪していた母が見つかり、
なんだかんだあって
母と二人で暮らすことになった。

落語に出てくるような
今どきこんなとこあんの!?って感じの
ビックリするくらい
ボロッボロの長屋に住んでいた。



テーブル代わりのダンボール箱
いつも臭いが家じゅうに漂う、いつ床が抜けるかヒヤヒヤの汲み取りトイレ
湯船の横に銀色のボイラーがあってボーボー音がするお風呂
隣人の部屋を隔てるのはうっすい壁一枚
隙間風ハンパない
家の前の道路を車が通ると、家じゅうのガラスがガタガタ鳴った



それでも雨露しのげられれば良かった。
母がいればそれで良かった。



わたしは家や家財道具、服などにお金をかけることも
欲しがることも
無意味だと思うようになった。





そして20歳のときに起きた

阪神淡路大震災


神戸では



家が
車が
いろんなものが

崩れ
壊れ
燃えていた。






形あるものはいつか壊れる。
ものに執着して
一生縛られるのは馬鹿げてる。

そう考えるようになった。









そして今の夫と結婚し
同居することになった。


どこに住んでも同じ。
自分専用の家財道具がなくてもいい。
なんにもいらない。

住まわせていただけるのだから
ありがたい。

生きていくのに
必要なものがあればそれでいい。





そう思っていたら



わたしはなぜか


だんだん病んでいった。







今も特に家やモノに欲はない。

新しいものへの欲もなく、
どんなボロい建物でも平気。
古い家電製品でも動きさえすればいい。
人から貰ったものでもありがたく使わせてもらう。



でも今は、
全部放棄しすぎたら
あかんかったんやなあって思う。


自分のやりたいこと
快適な生活を得るために
家は大事なものだと

今はそう思う。




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家は
安らぎの場所。
育ちの場所。

一生をかけて支払うことには
理由があるんだと、今は思う。