イエス様は教会を愛しておられます。大きな普遍的な教会ではなく、都道府県、市区町村にある個々の教会です。

 

個々の教会で行われる毎週の礼拝、前後の聖書学校、食事を持ち寄る集まり、季節季節のイベントなどで、牧師先生や教会リーダーや教会員やご家族や子供たちが触れ合う細々とした場面に至るまで、イエス様は見ておられます。もちろん喜んで見ておられます。


イエス様は教会を激しく愛しておられます。たぶん、そうです。普通に考えるよりも、もっともっと激しく愛しておられます。なぜなら、ご自分のからだだからです。

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:22-23)

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。(コロサイ1:18)


預言されている日本のリバイバルも、これらの教会の外で起こるのではなく、教会の内から起こります。異言で祈ることや預言を取り扱っていない教会でも、使徒行伝のペンテコステ(原義は50という意味、50日目)的なものからは縁遠いと思っている教会でも、主の御霊が臨めば、1日にして大きく変えられて初代教会のような聖霊の力と福音伝道の勢いに満ちた教会になることは、まったくある話です。人間ではなく、主がそうなさるのですから、そうなるのだと思います。いまどうあろうがまったく関係ない。それが聖霊の大波によるリバイバルだと思います。

それが教会を離れたところで起こるのではなく、まさに、教会の内において起こる。それは、リバイバルの主でもあるイエス・キリストが教会の頭だからです。

 

■神はキリストを教会にお与えになった

神は教会にキリストをお与えになりました(エペソ1:22)。聖霊もリバイバルも、イエス・キリストのものです。教会を離れたリバイバルなどありえません。

従って、教会の外から、教会の中にいる人に何らかの刺激を送って、教会の外に出させるような動きは、厳に慎まなければなりません。この点では、私も猛省するところがありました。悔い改めをしました。また、所属教会の主任牧師からもたしなめられました。今ではまったく、その通りだと受け止めており、その指導に服しています。

9月27日から約10日間、カナダからあるミニストリーの牧師が来日し、米国在住の知人姉妹から頼まれたので、どなたもアテンドする人がいないということで、しばらくの間、旅人をもてなしなさいというみことばも念頭に置きながら、必要なことどもをやらせていただいておりました。

この方のミニストリーは、98%まで聖書のみことばに基づいており、ずっと、正しいことをやっているのだと受け止めていました。しかし、残りの2%で、人を教会から引き離すような働きを持っていることに気づきました。「主のため」(英語ではThe Lordのため)ということをしばしば強調されるのですが、「イエス様のため」という言葉は、何日間かアテンドなどをさせていただいた中で一度も聞いたことがありませんでした。そのことに気づいたのは最後の方になってからです。

この方のことを長く書くのが目的ではありませんので、短くまとめますが、「教会から引き離す霊」のようなものがあることは確かです。色々な方策を使うと思います。多くの場合は既存教会に足りないものを補完する役割を強調すると思います。この方もそういう働きをしていました。

そして最後の方になって、この方の活動を、聖書のみことばでチェックしてみなければならないという思いが出てきて、確認してみたところ、エペソ1章の次のみことばが出てきました。

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:22-23)


このみことばは、私が最初に10年間通った教会の牧師先生が、日曜礼拝の終わりに必ず朗唱する祝祷のような位置付けを持ったみことばでした。何百回となく聞いたみことばでした。


神は、キリストを、ミニストリーにお与えになったのではありません。教会にお与えになったのです。その教会とは、全国津々浦々にある個別の具体的な教会です。この教会から、教会に所属している教会員を引き離すような動きは、厳に慎むべきです。

「主のため」という口実で、キリストのからだである教会から、1人であれ、引き離すことは、聖書的ではありません。そのことに、聖書をチェックするなかで、気づきました。

そして、以下のイエス様のお言葉。これにも関わってくる、大変に注意すべき動きであることも確かになりました。

そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。(ヨハネ10:7-14)


その方もお人です。イエス様を主と受け入れておられる方です。何かがあったならば赦し、イエス様のお言葉を守って、祝福すべきでしょう。けれども、歩みを一緒にすることはありません。

■教会の中で起こることにイエス様がおられる

ある教会の礼拝に参加する機会がありました。その教会では、刑期を終えて出所してこられた方を積極的に教会の中に迎え入れています。他の教会ではなかなか受け入れにくい方を、主からいただいた使命として、受け入れています。そして、食事や寝泊りするところの面倒を見て、職業を見つける支援をして、並行して、クリスチャンとして独り立ちできるように育てています。すばらしい働きだと思います。

この時の礼拝では、刑期を終えて出所して2ヶ月程度の、大変に若い青年が、水のバプテスマを受ける前の聖書の学びということで、主の祈りを学んでいて、それを教会のみなさんの前で朗唱するプログラムがありました。

主の祈りは、イエス様がわれわれに与えて下さった、大変にベーシックな祈りです。神の国をこの地にもたらすことも含まれています。

この青年が、少したどたどしく、主の祈りの朗唱を始めた時、私はそこに天使がいるように思いましたし、イエス様が間近でそれを聞いているように思いました。そこに主の光が差し込んでいるように思いました。

こうしたことが起こるのが教会です。大きなことでも、小さなことでも、イエス様とひも付けられて起こります。聖書のみことばに基づいて起こります。

こうした一つひとつの教会から、たとえ、一人であっても、横から手を伸ばして、連れて行くようなことは、すべきではありません。

イエス様は教会を愛しておられます。教会の中で起こる細かなこともすべて見ておられます。喜んでおられます。

教会を大切にしましょう。

Photo courtesy of Peter Neish