故宮へ訪れるのはこれが初めてです(・_・;)
中国人ながら中国について知り尽くしていないという…そういうショックな気持ちも込めて、ベテランガイドさんであるおじさんのもとで、有名なとこだけ巡って、しっかりと歴史を学ばさせていただきました
- - - 内廷(北側)と外朝(南側)の大まかな区分境界
A. 午門 B. 神武門 C. 西華門 D. 東華門 E. 角楼 F. 太和門 G. 太和殿 |
H. 武英殿 J. 文華殿 K. 南三所 L. 後三宮(乾清宫) M. 御花園 N. 養心殿 O. 皇極殿 |
映画・ドラマによくでてくるこの有名な世界遺産。“紫禁城(きんしじょう Zĭ jìn chéng)”とも呼び、1420年に建てられました。面積約72万㎡で、24代の皇帝たちが住まわれた場所であります。城を囲んでいる護城河は、幅52mあり、城壁も、高さ10mあるので、どうみても人が越えられる高さではありませんね…。昔の建物も、セキュリティーにすぐれています
正面の門は「午門(ごもん Wŭ mén)」と呼び、五つの入口があります。真ん中の一番大きな入口は皇帝だけが出入りできる所です。基本的には皇帝以外だれも通ることはできませんが、皇帝皇后の結婚式のときに皇后は一生に一度だけ、また当時の受験でもあった「科挙(かきょ Kē jŭ)」で上位三名――状元(しょうげん Zhuàng yuán)・榜眼(ぼうがん Băng yăn)・探花(たんか Tàn huā)が通ることはできます。皇帝がいかにこの科挙を重視していたかがわかります(・ω・)
次に大きい左右二つの入り口は、朝廷の重臣たちが通る門で、端っこにある一番小さな門(写真ではよく見えませんが…)は、地方の官たちが通ります。当時は身分での分別はとても厳しいですね…(・・;)
(午門に入って金水橋の上でぐるっと一周♪)
門から入って、まずめに入ってきたのが、「金水橋(きんすいきょう Jīn shuĭ qiáo)」です。天安門にも金水橋があり、天安門の方は「外金水橋」と呼ばれ、故宮のほうは「内金水橋」と呼ばれています。金水橋は五つの橋で成り立ち、上から見ると弓状になっていて、宮内を囲み守っているという意味も表わしています。
地面は多くのレンガで敷かれていますが、当時皇帝は、誰かが外へ通じる地下通路を掘り上げることを恐れたため、このレンガを一層一層クロスさせながら15層、約12mも敷かれました。
「太和門(たいわもん Tài hé mén)」をくぐると、目の前には「太和殿(たいわでん Tài hé diàn)」が現われてきましたぁ~。この建物は、中国最高級の建築で、皇帝の偉大な権力を表しています。最高ランクの建築とされた理由は、
①重檐廡殿頂(じゅうえんむでんちょう Chóng yán wú diàn dĭng)…二重の屋根構造になっています。
②十三拼(じゅうさんほう Shí sān pīn)・鬼龍子(きりゅうし Guĭ lóng zĭ)…屋根にずらりと並ぶ怪獣類の数で、太和殿は最も多いです。屋根の先端にいるものも含め合計13体あります。(写真の黒い物体はなんとカラスですごくいい所にっ…)
「騎鳳仙人」(きほうせんにん Qí fèng xiān rén)…「仙人騎鷄」(せんにんきけい Xiān rén qí jī)なる俗称もあるといいます(笑)。古代「齊(斉)」の国の王が、戦に敗れ大河の畔に追い詰められたとき、どこからともなく巨大な鳥が飛来し、それに乗って難を逃れたとの伝説から、「逢凶化吉」の寓意を表します。
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「龍」(りゅう Lóng)
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「鳳」(ほう Fèng)
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「獅子」(しし Shī zi)
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「天馬」(てんば Tiān mă)、「海馬」(かいば Hăi mă)…いずれも馬に似た姿をした、古代から伝わる怪獣です。なお、タツノオトシゴを「海馬」と書くのは、欧州語の翻訳とのこと。(英「sea horse」、独「Seepferd」、西「caballo de mar」等。)
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「狻猊」(さんげい Suān ní)…これも「龍之九子」の一つで、日本で「唐獅子」とされるものです。姿は「非龍似獅似馬」、「能食虎豹」にして「率從百獸」といいます。
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「押魚」(おうぎょ Yā yú)…「興雲作雨」の怪獣で、鎮火のおまじないとのことです。
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「獬豸」(かいち Xiè zhì)…「是非曲直」の判別に長け、「公正」の象徴とされています。
小さい怪獣類の後ろから2番目から、
「斗牛」(とぎゅう Dòu niú)…蛟(みずち)の一種で「興雲作雨」、鎮火のおまじないらしいです。
通常の建物の屋根の怪獣類は、どんなに多くてもここまでです。(「騎鳳仙人」を数えないで、9匹。)
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「行什」(こうじゅう? Xíng shí[shén])…翼を有し、猿とも、猿の顔をもった人ともいいます。この「行什」が建築物の屋根で見られるのは「太和殿」のみで、「騎鳳仙人」に続いて計10匹の怪獣が並ぶのも「太和殿」のみとのことです。
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「行什」の後ろの大きいものは、「鴟吻」(しふん Chī wěn)。
太和殿は、皇帝が何か大事なお祭りや行事を行う時だけに使われます。
殿内の床は、大理石ではなく、「金砖(Jīn zhuān)」呼ばれる高級な石です。なぜ「金のレンガ」というと、この金砖一つ1両金(約20万円)の価値があり、この金砖をたたくと金属の音がするだそうです。その作り方は極めて複雑で、①セメントなどを銅と一緒に混ぜた後、②油で七七四十九日間漬けます。この油こそ、今でもピカピカに光っている理由です。
次に太和殿の中です。写真のように、天井には球がありますが、この球は、皇帝の座の真上にあります。皇帝の座に座った人が真の天子であるかを確認するものであります。その人が本当の天子でなければ、球は落ちてその人に当たってしまうのだそうですが、清のあと、袁世凱(えんせかい Yuán shì kaĭ)が皇帝の座につこうとしたが、自分は本当の神に定められた天子であるかどうかわからず、もし球が落ちたら大変だから、その席をほんの少し後ろに下げて、今の状態になりました。
太和殿だけに限る事ではありませんが、どの殿にも、写真のような龍の頭の彫刻と大きな甕があります。龍の頭をよーく見てみると、口に小さな穴があることがわかります。これは、大雨のとき、上の地面にたまった水が、この穴から排出するという、いわゆる排水口の役割を果たしています。想像してみれば、雨の時の宮殿はさぞかし美しいでしょうね~…:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
次にこの大きな甕です。この甕は、宮中には308個ありますが、太和殿の周りだけ、金箔で貼られている甕18個置かれています。これは、宮殿が火事にあったとき、いつも中に入ってある水を使って火を消すためにあります。この甕自体銅で作られているため、真冬のときこの甕は凍ってしまいます。そこで、下に薪を入れ、火をおこし、甕が凍らないようにしているそうです。八国連軍が北京侵略のとき、太和殿に置かれてある甕が純金だと勘違いし、刀で金箔を削ってしまったので、今のように少し黒くなっています。
太和殿の次は「中和殿(ちゅうわでん Zhōng hé diàn)」です。重要な行事などでは、吉日吉時を選んで行うものですから、その時刻になるまで皇帝はここで待っています。
中和殿の裏側に、写真のような美しい石の彫刻があります。これは「大石彫(おおせきぼり(?) Dà shí diāo) といい、実はこれ、なんと、一枚(?)の石で彫られています
縦16.75m、横3.07m、厚さ1.7m、重さ約200t
この石の産地は北京の中心からかなり離れた場所です。いったいどのようにして運ばれたのかというと、北京は冬になるととても冷えるので、冬になるまで道に氷をつくり、その石を氷の上に滑らせます。賢いですね(°∀°)b
中和殿の後ろにあるのは「保和殿(ほうわでん Băo hé diàn)」で、科挙の地方選抜で残った10人ほどここで皇帝の出題による最後の文章試験―殿試(でんし Diàn shì)、大晦日のときの宴会などに使われます。
しばらく歩くと、「乾清宮(けんせいきゅう Qián qīng gōng)」と呼ばれる宮殿が見えてきます。
この中には、あの有名な文字「正大光明(Zhèng dà guāng míng)」があります。よくこの文字の後ろに次期皇帝の名が書かれている紙が中に入っていると言われますが、実際にこの方法を用いられたのは康熙帝(こうきてい Kāng xī dì)だけです。このような厳重な管理の下ですから、あの雍正帝(ようしょう(?)てい Yōng zhèng dì)が遺書を書きなおしたといううわさは、本当である確率はかなり低いです(・・;)
この乾清宮を正面にして右側に、皇帝の寝室があります。だいたいの皇帝たちがここで寝ていましたが、明の嘉靖帝(かせいてい Jiā jìng dì)のとき、彼に仕えていた侍女の何人かは、この帝に対してひどく不満を持ち、寝ていた帝の首を絞めたが、絞め殺すまでの力がなかったので、目を覚ました帝はただちにこれらの侍女たちを死刑にしました。なお不安であった帝は、寝台を九つつくり、さらに一つの寝台に上・中・下の三段ベッドにしました。それから帝が毎日どのベッドで寝ているのか誰も知らなかったといいます。
ここまでまっすぐ進んできましたが、次に西太后がかつて住んでいた故宮の西のほうへ行きます。
乾清宮よりうしろ全てが、いわゆる「大奥」であり、皇太后や皇后、妃たちが住んでいました。当時宮中の女たちにはさまざまな位を与えられ、
皇后――皇貴妃――貴妃――妃――嬪――貴人――常在――等応(いわゆる侍女)
の順で、生活用品や金銭、アクセサリーの配給(?)の量が違っていました。また、満民族では、純満民族人を残そうとしたために、全ての女たちは12~13歳の時から「秀女(しゅうじょ Xiòu nŭ)」を選ぶことになっており、その後皇帝に選ばれた人々は上記のような位についたり、高い位の臣家へ嫁いたりします。選ばれなかった女たちはここで初めて一般の結婚ができるようになります。(いいことやら悪い事やら…)つまり、秀女の選考を通らなければ、一般の結婚もできないということです。
私も満民族なので、もっと前に生まれていたら、きっとこの選考を受けなければいけませんでしたね~。博物館の写真をみたところ、当時の宮中の女たちは対してかわいくもなかったので、ひょっとしたら私も皇后とかなれる可能性大…?(*゚ー゚)ゞ
歩いてゆくうちに、西六宮の養心殿(ようしんでん Yăng xīn diàn)に着きました。ここではこんなお話があります。
西太后が若い時、皇后にもどの妃たちにも子供がなく、西太后にだけ子供一人授かりました。妃の位だった西太后が、一気に皇貴妃になりました。咸豊帝(かんぽうてい Xián fēng dì)死後、いよいよこの子――同治帝(どうちてい Tóng zhì dì)が次の皇帝となるのですが、当時彼はまだ6歳。国の政治など知る由もありません。そこでとった政策が「垂帘聴政(すいれんちょうせい Chuí lián tīng zhèng)」です。
帝を写真で一番前の席に座らせ、帝の母である西太后と、当時皇后であった東太后二人が彼のうしろの席に座ります。女が政治にかかわることを禁じられていたため、二人の席の前に簾を垂らし、大臣が申し上げたことを帝の代わりに聴いて助言をします。形式上皇帝が聴いていて、実質上この二人の女たちが国を治めているということになります。
西太后が同治帝を産んだ部屋に訪れた後、面白いものを見つけました。「皇家電話局」です西太后時代、西洋のものをさかんに中国に取り入れるようになりました。ここは皇家唯一の電話所であります。また、近くには洋風の部屋もありました!
次に、御花園(ごかえん? Yù huā yuán)という、皇家のガーデンへ行きました。
御花園には、「太湖石(たいこせき Tài hú shí)」があります。この石は、太湖の底からすくいあげて、ここまで運ばれました。この石の美しさの基準は、透・漏・痩・皺(とう・ろう・そう・じょう Tòu lòu shòu zhòu)の四つです。(写真を参考に)身近でみても、本当にアートです
下の写真のような曲がりくねった木もありました。「龍爪槐(りゅうそうかい Lóng zhuă huái)」です。枝が龍の姿に似ていることから名づけられました。
二つの木が一つの木となっているものもあるます。「連理樹(れんりじゅ Lián lĭ shù)」というサイプレスの一種です。(下の写真)どういうわけか一つに合体していて、今のような大木になりました。まわりには柵で囲まれていますが、柵がなかった頃、恋人たちがこの木をくぐると、一生離れないというジンクスがありました。この木をくぐったカップルたちが羨ましいです…(〃∇〃)
花は満開ではありませんでしたが、とてもきれいでしたぁ。中には「堆秀山(ついしゅうさん Duī xiòu shān)」という太湖石で積まれた山に小さな亭がありましたが、当時皇帝がその亭で休まれるとき、なんとまわりには人工噴水があったそうですそんなにいっぱいの人たちが噴水をやり続けたらかわいそう…(´_`。)
映画「THE LAST EMPEROR」で、溥儀が自転車で走った道をどうしても観てみたいため、おじさんに無理やり連れてってもらいました~。
ここは、東六宮の内東路と外東路の間に挟まれている道です。向こうまで行けませんでしたが、確かにここでチャリンコをこいたら気持ちいいのでしょうね~♪
最後に「北門(ほくもん? Běi mén)」から出ました。ここは、皇后が普段出入りするときに通る門です。「他の妃たちはどうした?」と疑問に思うのかもしれませんが、規則では、一度宮殿に入った女は、死ぬまで宮中で生活しなければなりません。うぅ…、悲しい運命です…。。゚(T^T)゚。
他にも、いろいろ写真を撮ったので、見てくださぁーい(^O^)/
↑龍の身体をもつ亀(わけがわからん…)
↑メスの獅子(オスに玉→公平、メスに子→愛民) ↑鳳凰