鬼丸のブログ

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気儘に写真を載せてます。

主に、城跡・神社かな。

訪問日 令和8年 2月28日

 

今回参拝したのは、

本巣郡北方町北方216に鎮座する「大井神社」。

祭神は、素盞嗚尊・櫛稲田姫命・大己貴尊。
当社は、清和天皇の貞観2年(1517)、
池鏡山円鏡寺(真言密教)の鬼門鎮護の守護神として鎮斎され、
明治初年神仏合体を禁制されるまで、
円鏡寺累代が管理をしていたという。
往時は多くの境外地あり、西濃一の麗社として知られたという。

神社正面付近の様子。
神社は、南面している。

 

「鳥居」と「社号標」。

 

「鳥居」付近から南側を見た様子。

往時は、目の前に陣屋の「南〆切門」があった。

当社から南へ続く道は、現在天王通りといい、

東側を流れる川を天王川という。

 

尚、天王川は神社の北側(背後)から東側を廻り込み、

南側へと流れていく。

北側。

 

東側から南側への曲がり角。

 

由緒書。

 

(石碑文)

金幣社 大井神社 由緒記

一 祭神 素戔嗚尊 別名 牛頭天王(天照大神の弟神)

       櫛稲田姫命          (素戔嗚尊の妃)

       大己貴神 別名 大国主神(素戔嗚尊のご子息)

  境内社 一 御嶽神社 祭神 大国主神 国常立神 少彦名神

       一 猿田彦神社 祭神 猿田彦神

一 例祭日 五月二日・三日

一 由来

   永延二年(九八八年)池鏡山円鏡寺中興の祖、良佑

  上人が本坊、総門など総ての堂塔を完成させ、その上十六

  坊の塔頭を配して一大寺院を造り上げた。

   大井神社はその時東北の位置に牛頭天王の祠をもって

  鬼門鎮護としたと記されている。以来明治初年まで正月

  三ケ日は円鏡寺の院家が寺僧や住民を率いて牛頭天王の

  祠に詣で天下泰平、国土安隠、五穀豊穣を祈願した。

   また院家は大井神社ご神殿の鍵を預かり御祭祭の時には

  院家がご神殿の扉を開けなければ祭りが始まらなかったと

  言われている。

   明治初年三月三日神仏分離令により円鏡寺と分離し神社

  として独立、祠官がこれを継承する。

   往時は相当多くの社領を有し、境内すこぶる壮麗を極め

  西濃一の麗社として知られ明治六年郷社に例せられる。

   昭和三二年岐阜県神社庁から金幣社の指定を受けて以来

  例祭には献幣使が参向されている。

   例祭は神輿と巫女舞が主な祭事で神楽殿で熱田神宮より

  伝授された巫女舞が奉納されると共に、各町内の一六台の

  神輿は宵闇せまる頃から灯りを入れて町を練り歩き、順次

  大井神社に練り込む競演が始まるなど、伝統的な祭事と

  なっている。

   平成十四年四月に鳳輦が新調され、同年五月の例大祭から

  ご巡幸行事が華々しく復活した。

 

 

「手水舎」と「手水鉢(御手洗)」。

時期によっては、花手水となっている。

「手水鉢(御手洗)」は、元治元甲子年三月吉日のもの。

 

「手水鉢」の解説板。

 

(解説文)

   御手洗(みたらし)

            【町指定重要文化財】

 大鳥居のすぐ左手にある神社に

参拝する人が、手を洗う石製品であ

る。縦八八cm、横一五五cm、高さ七七cm

で御影石で作られている。

 前面には深彫りで大きく、「奉献」

の文字、裏面にはこれを寄贈した渡辺

佐左衛門為良と名前が刻まれた重

量感のある立派な御手洗である。

 当時の渡辺家は、桟留縞を取り扱

い急速に伸びて、美濃北方白子組と

して巨利を得た豪商であった。

       北方町教育委員会

       北方町文化財保護協会

 

 

「拝殿」。

神紋は「五七の桐」か?

 

「拝殿」前の「狛犬」。

 

「本殿」と「幣殿」。

1m程嵩上げされている。

 

「社殿」西側に鎮座する「猿田彦社」。

 

「社殿」の東側にある渡り廊下。

 

その前にある「石燈籠」。

嘉永元年申八月七日のもの。

 

渡り廊下の奥に鎮座する「御嶽社」。

 

「参道」手前にある「石燈籠」は、

延享三丙寅年九月七日のもの。

 

「社務所」。

 

「御神馬」。

 

(解説文)

      御 神 馬

 上代においては神佛に馬を奉献する風習があったが

生きた馬を献納することはなかなかできるものではなかった。

そこで木や土や紙などで馬の形を作って神に献ずる

こととした。これを神馬という。

 大井神社の御神馬はいつ奉献されたかは定かでないが

今回の修復作業の折 一閑張の和紙を剥した紙片

によると 明治六年(一八七三)社格が郷社となり

明治十四年(一八八一)御本殿の御造営 明治十五年(一八八二)

巫女舞神楽を熱田神宮から授けられたことなどから

このころに奉献されたものと思われる。

 以来 修復は昭和四年(一九二九)御大典記念の修復

昭和五十年(一九七五)社務所建設に当り神馬舎移転並

びに修復 それに今回平成十四年(二〇〇二)壬午の修復

となったのである。

  平成十四年十一月吉日

     金幣社 大井神社

 

 

石碑「金幣社會之碑」。

 

不自然な位置にある「蕃塀」。


 

「拝殿」西側にある「石燈籠」。

こちらも嘉永元年申八月七日のもので、

渡り廊下前のものと対と思われる。

 

境内西側にある「鳥居」。

正面の「鳥居」と構造が違っている。

この写真から想像するに、

先程の「蕃塀」は、この「鳥居」と対と思われる。

 

神社正面(南側)の「鳥居」から東へ30m程、

天王川を渡ったところに石碑が建つ。

 

石碑「溝口真澄翁頌徳碑」。

明治四十四年九月に門人らによって建てられたもの。

溝口真澄とは、「大井神社」の宮司を務めるかたわら、

習字や俳句・生け花等を学び才能を発揮。

俳句は明治百人一首に選ばれるほどであり、

又、生け花は「華道天真流」をひらいたという。

 

石碑から更に15m程東に鎮座する祠。

向って左に「秋葉神社」、右に「神明神社」。

訪問日 令和8年 2月28日

 

今回訪問したのは、

本巣郡北方町北方249にある「北方城跡」。

現在は、住宅地内にあり、遺構は確認できない。

 

常誓寺前にある案内板と常夜燈。

ここから東に向かう。

 

住宅地内にある城跡。

元々は、個人の所有地であり、以前は竹藪の様な場所だったが、

平成13年に町に寄付され、段階的に整備が行われている。

 

城跡正面付近から見た様子。

城跡には、「堀跡」風の水路を渡る。

 

「堀跡」風の水路。

 

古い石碑。

 

(石碑文前面)

天文永禄の頃 安東伊賀守守就北方城に

據り土岐斎藤氏に仕えて西美濃三人衆の

一に數へられた 織田信長に属したが天正八年

秋信長の嫌疑を蒙って城邑を奪われた

同十年六月信長害死の後守就故城に

據って自立したが稲葉一鐵に攻められ

六月八日落城した この附近は其城阯

であるから現状のまゝ保存しませう

 昭和十五年二月

             岐阜縣

 

 

(石碑文裏面)

安東守就の子孫伊賀氏を稱し土

佐山内藩に仕へ六千八百石を領

し代々國老として土佐宿毛の邑

主たり 明治維新に於ける先代

陽太郎の勲功に依り明治三十三

年五月子氏廣特に華族に列せら

れ男爵を授けらる 當町の碑標

等は伊賀氏竝城阯所有者大野

氏外有志の建議に依り建設せら

れたものなり   北方町

 

 

石碑「史蹟 北方城阯」と家系図。

この中に大河ドラマに出てくる「慶」の名は勿論ないが、

「女」とされたどちらかを想定しているのかな?

 

解説板。

 

(解説文)

岐阜県指定重要文化財

     史 跡 北 方 城 跡

                       昭和四十三年十一月十一日指定

 北方城は、伊賀太郎左衛門光就が築城し、居城とした。

 光就の曾孫安東伊賀守守就は斎藤氏の滅亡後、織田信長につかえ、元亀元年(一五七

〇)六月の姉川の合戦、翌年の長嶋一向一揆討伐に参戦して大功をたてた。
 天正八年(一五八〇)嫡子河渡城主尚就が甲斐武田氏と内通したという嫌疑で信長の

勘気を受けたので、守就は北方城を出て武儀郡谷口村(現関市)に蟄居した。信長は守

就の故領を収めて稲葉一鉄に預けた。
 天正十年六月二日織田信長が、京都本能寺で明智光秀に害せられると守就は一族旧臣

を集め北方城に拠ったが、稲葉一鉄・貞道父子に攻められて落城した。(これを、北方合戦

という。)
地籍図中の大井神社東側を西北の隅として、水路で囲まれた東西一六〇メートル、

南北三四〇メートルの部分が北方城跡と推定される。

 北方城はいくつもの屋敷地を含みながら堀で周囲を囲まれていたと考えられる。城跡

の内部は、更にいくつもの水路によって区分されており、防御性を高める役割を果たし

たと推定される。現在の史跡は、本丸の跡の一部であると考えられている。

               *資料 岐阜県中世城館跡総合調査報告書(二〇〇二年)等

 (以下略)

 

 

南東端にある石。

自然石というより、加工石という感じ。

流石に、当時のものではないだろう。

 

 

通常、稲葉山城が落城した後、出演機会の無い安藤守就。

今回の大河ドラマでは、姉川の合戦等、時々出てくる。

名のある俳優ということもあり、ナレ死ではなく、

まさか北方合戦も描かれるのか?

訪問日 令和8年 2月28日

 

今回訪問したのは、

本巣郡北方町北方271にある「自然山常誓寺」。

真宗大谷派の寺院。

北方陣屋の略図(慶応年間)にも記載がある。

 

寺院の様子。

寺院は、東面している。

全体的に新しい印象を受ける外観。

 

「山門」。

 

「手水鉢」。

 

「本堂」。

 

「鐘楼」と「梵鐘」。

 

北側にある裏門。

写真左端に陣屋の「北〆切門跡」の標柱が見える。

訪問日 令和8年 2月28日

 

今回訪問したのは、本巣郡北方町北方にある「北方陣屋跡」。

「大井神社」南の天王川沿いの一帯が敷地となる。

現在、一帯は住宅地となっており、遺構は確認できないが、

略図と標柱により、往時の様子を想像することが出来る。

 

天王川。

 

陣屋跡付近を南側から見た様子。

尚、現在、写真の道(天王川西側)を天王通りという。

 

解説板。

 

(解説文)

    北 方 陣 屋 跡

         北方町指定史跡

         昭和三十年九月三十日指定

 北方戸田氏は、初代光賢が寛文八年(一六六八

年)分知をうけてから、七代光遠が明治二年(一

八六九年)に版籍奉還をするまでこの地に陣屋を

置きました。

 役所を中心に、米庫、撃剣道場、化成庠(学問所

のこと)などがあって、その周囲には奉行、代官

など家臣の屋敷が置かれ、五〇〇〇石の陣屋に相

応しい堂々たるものであったといわれます。

              北方町教育委員会

 

 

略図(解説板より)。

 

「南〆切門跡」。

又、民家辺りが「奉行屋敷跡」となる。

 

略図にも記載のある「奉行屋敷跡」南側の

「堀跡」又は「水路跡」。

 

同じく東側の「堀跡」又は「水路跡」。

 

略図によると、「奉行屋敷跡」西側のこの辺りが、

「射的場跡」と思われる。

 

案内板の東、川の東側の民家辺りが「米蔵跡」。

 

「奉行屋敷跡」の北側が「代官屋敷跡」。

 

その北側も「代官屋敷跡」。

 

こちらは、川の東側にある「代官屋敷跡」。

更にその奥にある地下公民館辺りが、「化成庠跡」か。

 

天王通りが「大井神社」に突き当たる辺り、

常誓寺前辺りが「北〆切門跡」。

訪問日 令和8年 2月28日

 

今回訪問したのは、

本巣郡北方町北方字地下263に鎮座する「神明神社」。

祭神は、天照大御神。

慶長年間に於いて、当村住人武藤喜左衛門が創立すと

古老の口碑に伝存するのみ。

 

北方陣屋の略図(現地案内板)の赤で囲った辺りが境内。

尚、現在「郡界石」は緑丸の位置にある。

 

神社入口付近の様子。

神社は、南面している。

略図によると、この辺りに「稲荷堂」があったようだ。

 

境内の様子。

 

西側に、地下公民館がある。

 

「本殿」付近の様子。

「本殿」は、1m程嵩上げされている。

 

「狛犬」。

昭和十二年三月のもの。

 

「本殿」。

中央が「神明神社」。

千木は内削ぎ、鰹木7本。

左右は「秋葉神社」と「稲荷神社」の筈なのだが、

どちらがどちらかは不明。

 

背後から見た様子。

 

境内東側にある石仏が安置された御堂。

詳細は不明。

 

境内の北東側には、「北方城跡」がある。