岸本様は黙って立っている。

此処で確かめなければならないのだろうか?もしかして?

「もしかして?」ダメだお会いする方のお名前を聞いてはいないもの、貴方が今日お目に掛る予定の方ですか等と、聞けるものでは無い。


「まだ、お見えになっていらっしゃらないわ」

「車は?」

「そう、連絡すれば迎えに来ます」

「まだ、お待ちに成りますか?」違うのだろうか

「いえ、何かご都合が有ったかもしれませんので、今日はもう、戻ろうと思います、あちらのレストランで、車を呼びます」


「良かったらお送りしましょうか?僕も四條畷に戻るので」

この為に、武田さんは帰ってしまったのだろうか?

 車に乗って行けばもしかしたら、全てが水の泡に成ってしまうかもしれない、父を家族を巻き込めるだろうか?出来ない。


「有難うございます、今日此処で待ち合わせたのは、婚約を前提とした御顔合わせでお会いする予定でしたので、本当にうれしいのですが、ご一緒する事は出来ません、御気使い有難うございます」


菊花は引きさがるより仕方が無いと思った。レストランに向いて歩きながら涙を必死でこらえる。

怖くて後ろを振り向く事は出来なかった。


レストランへの道を過ぎ、林の小道に入り、誰にも見られない所で涙を抑えてからでないと、レストランには行けない。

どうしょう!何も今日こんな所でお目に掛らなくても、たった3回お顔を見ただけ、でも、何もどうも変わらない、変えてはいけない、とうとう涙が溢れ出した。

、バッグを開けて、ハンカチを取り出し涙を抑えようとして驚いた、どうしてこのハンカチを持ってきてしまったのだろう、あの方のハンカチだ。


今朝、タンスの奥から取り出し自分のハンカチと一緒に畳んでバッグに忍ばせた、2枚入れたのに手触りで掴んだのか汚したくない、自分のハンカチを慌てて取り出し、目頭を抑えた。声を漏らす事も出来ず我慢をして立ちあがり、林の中からレストランの方角に歩き出す。


何時も正面の駐車場からレストランに向かうので、林の方から向かうのは初めてだ、右手に建物が見えてはいるので、小枝を踏みしめ歩いてゆく、こんなにお家に近い所で迷子では無いけれど、今まさに自分の気持ちの揺れと同じように、林の中もあちらこちらと足を運び何時しか日傘も畳まなければ歩けない。


「もう、良いでしょう」後ろから声を掛けられ飛び上がるほどびっくりした、枯れ枝を踏む足音など聞こえてはいなかった。

振りかえると岸本様が離れた位置で腕組みをして此方を睨んでいる。

 菊花は何か悪い事をしている時にさきに見つかってしまったような居心地の悪さを感じて、つい反抗心が頭をもたげて来た。


「あらっ!付けて来てらしたのですか」 

「そうです!」何と素直に仰るのでしょう。

「何か、御用でしょうか?」涙を拭いた顔がきっとわかるだろう、

「そうです」段々早足に成って此方に向かってくる、菊花は後ずさりしながら、その手にすがらないで知られるか、自信は無かった。


 「もう、歩き回るのは止めて下さい、そのヒールでは、足をくじいてしまいます」確かに、此の先にレストランの建物は見えているのに、そちらに向かって伸びているはずの道が見えてこない、左手に杉の木立が見えていて、貸別荘の一つから人のざわめきが聞こえていた。

人が出て来たら決して見過ごしては下さらない状況に成っている。


思い悩んでいる間に岸本様が手の届くほどの距離まで追って来られた。

「さあ、一緒に戻りましょう」と手を差し出して下さるが、どうしてもその手を取る事が出来ない。

 菊花は自分の手を後ろに隠した。


「菊花さん、貴方は僕との結婚を望んでいらっしゃらないのですか?」

「?貴方との結婚?」菊花はもしやと身を乗り出した。

「そうです、婚約の前に一度本当に僕で良いのか確認して頂きたくて、最後のチャンスと無理にこんな場所でお会いするようお願いしたのですが、やはり何方か想いの方がいらっしゃるのでしょうか?」


「今日此処でお目に掛る方が婚約される方と聞いてはいるのですが、もしかしたら岸本様でしょうか?」

「誰だと思っていたのですか?」


「お恥ずかしいお話ですが、何方も婚約者のお名前を教えては下さら無かったのです、ここに来てその方を待っているようにと、先程武田さんが居なくなっているのでもしやとは思ったのですが、お名前知らないのに、お尋ねする事も出来ず、本当に岸本様でいらっしゃるのでしょうか?」

 

それで納得がいったように岸本様は菊花に手を差し伸べられた、

「私と解らなかったのですか?」

「はい、申し訳ございません」菊花はその手を取った。


「改めて私と、結婚して頂けますか?」

「私で良ければ喜んでお受けいたします」

9月の木漏れ日の中、心の人の手を取ると優しく肩を抱き寄せ抱きしめられた。日傘をさして手を繋ぎおぼつかない足元をやっと車まで戻る事が出来た。


安心して車の助手席に座ると改めて運転席から此方を向いて、

「菊花さん、本当に貴方は婚約者が誰かご存じ無かったのですか?」と聞かれた。

「はい」菊花は知らなかったのだと答える。

「あの平田神社で朝のお散歩の時に見かけた記憶は有りませんか?」と念を押されたが、ちゃんと覚えていると言うと、ポケットからハンカチを取り出して見せてくれた、菊花の刺繍入りのハンカチだ、菊花は自分のバッグからハンカチを取り出し、岸本様に見せた。


「僕のハンカチだ、お姉さんの結婚式の日持って行ってもらった、あの時に僕の名前を伝えている物と思っていたのに、知らなかったなら、今日は本当は違う男と結婚するつもりで此処に来たのか」と少し声が怒っている。


「本当は、でも、もしかしたら岸本様では無いかと、違うならお断りする事が出来ないだろうかと、先程、「まだ、待つの」とおっしゃったので、違う方なのだと、菊花は岸本様をお慕いしていました、ですが、違うならその方にお断りもしないで、岸本様のお車に乗せて頂く事は出来ないし、先に父にもお許しを頂かなければと」


「もう良い!」岸本様に抱きしめられた。何時の間にかまた菊花の目から涙があふれ出していたのだ。

「白川の奴とっちめてやる、こんなに苦しめるとは、大丈夫だから、」そう言ってキスの雨を降らす、何もわからぬままのファーストキス、顔中にキスの雨。

岸本様のハンカチが涙をぬぐう。


「さあ、急いで帰ろう、そうして婚礼の準備を急ごう、あっ!もう夫婦茶碗は買って有るから」岸本様はハンドルを一回バーンと叩くと大声をあげて笑いだした。

菊花は気付いた、あの金龍の夫婦茶碗を先に購入されたのは岸本様だ。