とりあえず落ち着いて読もうと思っていたので休みの日に一気読み。

 

敵同士がそうとは知らずに度々出会い、そして惹かれあい、それを自覚して引き返せない段階になってからその真実を知る、という流れが、ああ似てると思った。BASARAに。

偶然に何度も出会っているようで、実際には偶然ではなく必然だっていう。
それは戦っている者同士だから、戦いの近くに身を置いているからっていう。
 

男であるが故に後を継ぐ運命にあった兄と女であるが故に兄と同じにはなれないことに葛藤を抱えていたが兄を失うことによって、女の体のまま心は男としてあらなければならなくなった更紗と、男でも女でもない(逆に男でも女でもある)体を持ち、どちらにも属しながらどちらにも属せない葛藤を続けるリチャードというのは違っていながらも近い。

 

似てるとか近いというのはネガティブな意味ではないです。

両性を持ち合わせるという設定は先をしっかり見据えた上で描かないと難しいと思うので、より大変だろうと思うし(紙の月刊誌等に掲載される漫画というのは、良くも悪くも読者アンケート等で左右されるでしょうから、ああ、人気作でまだまだ引っ張るために無駄に伸ばしたなとか、評判悪いからこの辺で打ち切りになったのかとか、連載終了後にコミックス一気読みすると大人な事情をものすごく感じることがあるけれど)。

この作品については、作者だけでなく、これで行きましょうという出版社側も長期作品になること、そしてこれならイケるという勝算を胸に、そしてそれ相応の覚悟をもって乗り出したんだろうなとか余計なことも考えながら。

 

個人的には1巻で時代背景にさほど多くの説明の言葉を尽くさずに話を進めていくあたりはすごいなと思った。

歴史物語・シェイクスピアという下敷きがあることを作者が宣言して始っているから、読者が下敷きを自分で調べることは出来る。

事前に知識がある人は別にして、知識がなく、下敷きを調べることをしない人が仮にその段階でついて来れなくっても仕方ないとするのか、もしくは、ここの雑誌の客層はそういう下敷きを持っていなければ自分で探して前のめりに楽しもうとする客層だという信頼なのかなとか。

名前がいろいろメンドクサイでしょ?この時代。

最初にシェイクスピアの戯曲読んで舞台予習したときに、エドワードとかリチャードとか同じ名前でややこしいわい!!と何度も最初の登場人物一覧見直したのは私だけじゃないはず。

まあぶっちゃけあの超長期連載歴史絵巻的なものが未だに続いている雑誌なので予習とか勉強とかメンドクサイことに免疫はあるか(笑)

 

種類はちょっと違うけど、ミューオタの中では賛否ある福田さんが、トライベッカのミューオタでないと分からないミュージカルコントネタに関し、今はネットで何でも調べられるから、ミューオタでなくてもおもしろそうだと思えば調べるだけの意欲がある客がついてくれば良い的な(超意訳)話をどっかでしてたなと思いだし。

それに通じるものを感じたり。

 

とりあえず、今すごくオカケンさんのリチャード三世がまた観たいなと思うんだけど。

ジャニーズにネット上での画像解禁とか、こーいちくんと芳雄さんの舞台とかいろいろ今動いてるけど。

もし、もう少しいろんなことが動くのが早かったらあのリチャード三世も映像として残せた?と思うと悔しい気もします。

 

とりあえずこの薔薇王の葬列は続けて読もう。