黎翔にとっても翔瑩にとってもただ眠る為だけに戻っていた部屋は、日を追うごとに安らぎを求めるものとなっていった。
夕鈴は、昼間はあちらこちらと二人の部屋だけでなく忙しく走り回っているが、夕刻部屋の主が戻るころにはどちらかの部屋で待ち、その日の労を労った。
となれば必ずどちらかは夕鈴のいない寂しい部屋に戻るわけで、昨夜は一人味気ない部屋で過ごした黎翔は僅かに心が弾んでいることに一人失笑しながら自室へと入った。
しかし、拱手し待っていたのは女官長だった。
黎翔の黒いオーラに女官長は言葉を詰まらせた。
「陛下、本日は大変お疲れ様でござ…」
「夕鈴は?」
女官長の言葉を遮るように黎翔は夕鈴の名を口にした。
「はい、昼八つに翔瑩様より使いがあり、お屋敷へと向かわれました。本日はこちらにはいらっしゃないと…」
「もう良い!…退がれ。」
「…はい。失礼致します。」
夕鈴のいない部屋。
『お帰りなさいませ。』
その言葉がどうしてこんなに欲しいのだろう。
違う、言葉が欲しいのではない。
その言葉を紡ぐ、彼女が欲しいのだ。
けれど彼女を欲していながら、もう一方で明蘭を想う。
夕鈴を想えば想うだけ、大切な明蘭の記憶が消えてしまいそうな気がして、黎翔は恐れていた。迎えに行くと言いながらあんな形で亡くしてしまった最愛の人を忘れ、夕鈴に重ねているとしても彼女以外を愛そうとしている自分を許せないでもいた。
上手く制御できない気持ちに苛立ちながら、黎翔は長椅子にもたれた。
夕鈴が来るまでは毎夜のように目を閉じれば蓉州の風景と幼い頃の彼女、そして成長した彼女が顔を見せた。けれど今は成長した明蘭が夕鈴となって現れるのだ。せめて夢で明蘭に逢えたならこの苦しい想いが楽になるのだろうか…
黎翔はそっと目を閉じた。
昼過ぎ「翔瑩様の一大事」と突然の使者によって、夕鈴は慌てて翔瑩の屋敷を訪れていた。
屋敷へ着くや否や有無を言わさず女官たちにより髪もいつもとは違って整えられた。
翔瑩の側近から告げられたのは『臨時恋人』の依頼だった。
考える間も、ましてや断る間も無く衣装を豪奢なものに着替えさせられ、化粧も何もかもなされるがまま出来上がった自分を見て正直驚いた。
『これだけ手を加えれば人間変わるものね…』
そう思ったが、すぐに面紗をかぶせられせっかくの「変身」も何のことだかわからなくなってしまった。
「失礼いたします。」
女官の先導で扉が開かれると、翔瑩が入って来た。
「急に呼び出してごめん!…へえ、別人に見えるね。」
翔瑩はまじまじと夕鈴を見て満足気に頷いた。
とはいえ、面紗を被っているのだからほとんど顔は見えず別人だろうと何だろうとわかるはずもないのだが。
「びっくりしました。張大臣がいらっしゃるのですか?」
「うん。娘も連れてくるとか言い出すから、急遽君にきてもらったんだよ。」
張大臣には何度かすれ違ったことがある。
あまり背は高くないが恰幅のいい身体つきで、長いヒゲがトレードマークだった。
すれ違い様は必ず拱手し俯いているため、面は割れてはいないとは思うが、用心に越したことはない。
「近づくことはできませんよ。大臣は私の顔を知ってらっしゃるかもしれないのですから。」
翔瑩はめんどくさそうに長椅子にどかっと腰掛けた。
「わかってるさ。だいたい目通りをとの返事に恋人が来るから…と伝えたのに、まるで信じてなくてさ。証拠を見せろとばかりに、遠目からでも拝見したいと言い出す始末だよ。俺たちがもし本当に愛し合ってる二人だとしたらせっかくの逢瀬に邪魔なことこの上ないよね?ここは濃厚な恋人演技を頼みます!」
歯を見せながら悪戯っぽく翔瑩は笑ったが、夕鈴はとても笑えなかった。
側近の土下座をせんばかりのお願いに臨時恋人なんかを引き受けたものの、もし本当にバレてしまったらどうなることか…。
最悪自分が罰せられるのは自業自得とは言え、黎翔や翔瑩にまで責任が及ぶようではなんのために王宮に仕えているのかわからない。
ここへ来るときも黎翔の確認も取らずに動いてしまったが、黎翔にも仕えてる以上この件を伝えることなく引き受けるのが正しいのかどうか疑問だった。
お世話になった翔瑩にここで恩返しが出来れば願ったり叶ったりだが、求婚されたことを思い出し、恋人役を安易に引き受けたことを夕鈴は今更ながらに後悔し始めていた。
「それじゃあ、行こうか。」
しかし翔瑩の真剣な眼差しに、最早後には引けないことを悟り、夕鈴は立ち上がり出された翔瑩の手にそっと右手を添えた。
ーーーーーー「あの…花を愛でるだけの為に、ここまで密着する必要があるんでしょうか?」
庭に誂えた茶席で大臣親娘が控えているとあって、庭の散策をと翔瑩から提案された。
手を繋いで庭に出たまではいいが、この距離…近すぎる気がする。
夕鈴は少しばかり間を取ろうと腰を引いたが、直ぐに引き寄せられてしまった。
「し…翔瑩様!手…手を…」
「え⁈」
腰に回った手を退けて貰おうと言ったのに逆に聞こえない!とばかりに翔瑩が顔を近づけてきた。
チラッと翔瑩を見ると、どうやら夕鈴の反応を楽しんでいるようで、夕鈴は急に腹立たしくなってきた。
「私をからかって面白いですか?縁談避けなんていいながら、随分楽しそうですこと!」
無理やり翔瑩を押しのけ背を向けると反対側に咲いている花へと目を向け、しゃがみこんだ。
「心外だな。まあ、確かにこの状況で楽しめてるのは君のおかげだけど。」
翔瑩は座り込む夕鈴の脇に立って、見下ろした。
「縁談話にはうんざりしてたからね。」
「そんなに沢山?」
さっきまでプリプリと怒気を露わにしていたのに、急に心配そうに見上げる夕鈴へ本音を言ってしまいそうになる自分に翔瑩は戸惑った。
「…縁談の数というよりは、話の流れ…というか…とにかく全て兄さんへの縁談のお零れ的な扱いなんだよね。陛下で駄目なら殿下。毎回そんな感じ。」
翔瑩が少しはにかんだ。
「兄さんのことは尊敬してるし、立場上そうなるのはしかたのないことなんだけど…」
「だけど?」
「男のプライド…的な?」
質問に質問的に返されて、夕鈴は肩を震わせて笑った。
「幼い頃から何でもそう。一番は兄さんなんだ。一つしかないものはいつも兄さんのもの。自分にも欲しい!てよく母上に泣きついたな。でも、そんな時兄さんは必ず半分にしてこっそり俺にもくれたんだよね。」
優しい顔で兄について話す翔瑩を見上げながら夕鈴は同じ顔で笑う黎翔のことを思い出していた。
「陛下のことがお好きなのですね。」
立ち上がろうとする夕鈴に翔瑩は手を差し出し、それに掴まると二人は向かい合った。
「仲の良いご兄弟で羨ましいです。」
「君は?兄弟はいないの?」
夕鈴を見つめながら翔瑩は尋ねた。
夕鈴は目を伏せると小さく呟いた。
「姉が一人、いました。」
「いました?」
「もう亡くなりましたけど…」
その時一陣の風が通り抜け、夕鈴の面紗がふわりと宙に舞った。
「あっ…!」
突然のことに慌てる夕鈴を翔瑩は抱きしめ顔を隠すと、茶席の方へ夕鈴の背を向けた。
ただ大臣に夕鈴の顔を見られないようにするために引き寄せたとはいえ、翔瑩は彼女の温もりと甘い香りにくらり…と眩暈を覚えた。
少し身体を離すと、真っ赤になって黙り込む夕鈴の視線がぴたりと合った。
いつもとは違う、ましてや下町で出会った時とは全く違う、少し濃いめの化粧に紅を引いた唇が艶やかで、思わず喉がなった。
翔瑩は懐から簪を取り出し、綺麗に上げた夕鈴の髪にそれを刺した。
「君に渡そうと思ってたんだ。」
夕鈴はそうっと後頭部に手をやった。
「いえ!こんなの頂けません。」
何処までも謙虚な彼女に翔瑩は自身の中でむくむくと広がる悪戯心を抑えられなかった。
「今日のお礼もかねてだよ。それでも多すぎるなら、もう数回臨時恋人を頼もうかな。」
「えぇ〜?」
心底困った顔であたふたする夕鈴をここにこのままとどめおきたいと思った。
兄黎翔はきっと夕鈴を愛し始めている。
やはり始めて会った時から様子がおかしかったのだ。
けれど夕鈴は、夕鈴だけは兄に渡すわけにはいかない。
彼女は、半分には出来ないのだから。
兄も、それに気づいているだろうか?
ーーーーーー夕鈴が後宮の自室へと戻ろうと黎翔の部屋近くを通った時、こんな時間にまだ灯りが漏れていることに気づいた。
仕事をしているなら邪魔をしたくは無いが、今日は翔瑩の屋敷で勝手な振る舞いをしたこと、黎翔に報告し赦しを乞わなければならない。
「陛下?夕鈴に御座います。」
扉の前で声をかけたが返事はない。
周りに他の女官の姿もないし、灯りの消し忘れだろうか?
夕鈴はそうっと扉を開けた。
黎翔が起きている気配はない。
「…うっ…めい…」
微かに呻き声が聞こえ、そちらへ目をやると珍しく黎翔が長椅子にもたれうたた寝している。
けれどその表情は苦しそうに眉間にシワを寄せ、魘されているようだ。
「ち…がう…」
「陛下?」
夕鈴は側に膝をつき黎翔を覗き込んだ。
「ま…て…夕鈴‼︎」
大きな声で名を呼ばれ、夕鈴はその場で固まった。黎翔は眼を見開いているが、目の前の夕鈴が現として捉えられないのか、視線が合わないまま肩を大きく上下しながら荒々しい呼吸を繰り返した。
「陛下…?」
額に滲んだ汗が黎翔の黒髪を乱れさせ、夕鈴はそれを整えようと手を伸ばすと、髪に届く前に黎翔の手によって掴まれた。
「…夕鈴?」
まだ視線が曖昧な黎翔ににこりと微笑んだが、黎翔は切なげに見つめ、掴んだ手を引き寄せ抱きしめた。
「違う…。君じゃない、君の夢じゃない…。私は、誰の名を呼んだ?」
まるでうわ言のように呟く黎翔に、夕鈴は何も言わずただ激しく叩き打つ黎翔の鼓動が治まるのを静かに待った。
トクントクン…と柔らかくなった心音に安心してそうっと離れるとまだ虚ろな黎翔の瞳を見つめた。
「お茶を。なんだかお疲れのご様子ですね?お顔の色も優れませんし。」
夕鈴は黎翔の頬に手を添え、二、三度撫でると立ち上がり急いで茶の準備はじめた。
黎翔は忙しなく動く夕鈴をぼんやり見ていたが、そのうち頭がはっきりして来ると普段の夕鈴と違うことに気づいた。
いつもの衣装いつもの髪型だが、いつもより濃い化粧、そして髪に挿した見たことのない簪。
自分の預かり知れないところで変わってしまった姿に、黎翔は苛立った。
「すぐですから!少しお待ちくださいませ…」
夕鈴が振り向く前に、堪らず背後から抱きしめた。夕鈴の香りと混じってほのかに翔瑩の香の匂いがした。
何処まで近づいたんだ。
こんな風に抱きしめられたのか…
恋人のように寄り添ったのか…
「へ…陛下?あの…」
夕鈴を半回転させ自分の方へ向かせると、いつもより濃く引かれた紅を親指で拭い取った。
夕鈴は恥ずかしそうに俯くがそれを覗き込むような体勢はいつもよりぐっと近い距離で、夕鈴は真っ赤になって目を泳がせた。
その仕草に少しホッとして黎翔は夕鈴と距離を取ると、長椅子にもう一度腰掛け凭れた。
「すまない。少し考え事をしているうちに眠ってしまったのだ。疲れてなどいない。」
いつもの優しい微笑みに夕鈴は胸を撫で下ろし、急いで茶を淹れると黎翔の元へと運んだ。
黎翔は一口飲み小さく溜息をついた。
「翔瑩のところはどうだった?張が来ていたのだろう?」
「はい…恋人役を頼まれました。」
「恋人?」
黎翔の顔が曇った。
「勿論フリです。上手くいったのかどうか…わかりませんが、恋人の存在くらいは示せたのかしら?」
う〜ん…とまるで他人事のように言う夕鈴。
いつもと変わりない夕鈴の様子に安堵した。
さっきのやり取りのように顔を真っ赤にするような事があったのなら、もう二度と弟と二人にするようなことは出来ないと思っていた。
「陛下の御許可を仰がず勝手な振る舞いをお許し頂きたくて参りました。こんな夜分遅く申し訳御座いません。」
頭を下げる夕鈴の目の前に空の茶杯を差し出した。黎翔は驚く夕鈴ににこりと微笑んだ。
「もう一杯頼む。」
それを諾と理解した夕鈴は嬉しそうに茶杯を受け取ると、卓へと移動し茶を注ぎ直した。
「色んなお話が出来て楽しゅうございました。特に陛下のお話。なんでも半分こにして下さった…と翔瑩様もそれは嬉しそうに仰って。」
にこやかに弟の名を呼ぶ彼女を見たくなかった。本当に自分の心の狭さに笑える。
「それで、翔瑩様が…」
「夕鈴。」
急須に手を添える彼女の側に立ち、目をキラキラさせながら翔瑩を語る夕鈴の話を断ち切った。
「他の男の話も、私の知らない化粧も、他の男からもらったものも此処では必要ない。」
そう言って、髪に挿した簪を抜いた。
夕鈴の目に、鼻に、耳に、唇に指を這わせた。
真っ赤になって硬直する夕鈴の耳元で囁いた。
「いつものを…夕鈴。」
自分の独占欲に歯止めが効かない。
夕鈴を初めて見たとき、確かに明蘭を重ねた。
あまりによく似た風貌に、たとえ妖の類であってもいいと、彼女に愛を囁く弟を葬り去っても構わないとさえ思える程に彼女の中に明蘭を見た。
けれど日々夕鈴に接すると、明蘭の時間が止まった日から夢見てきた彼女との違いに戸惑った。想像よりも遥かに美しく可愛らしく慎ましやかな女性だったのだ。
目が覚めて目の前に居たのが明蘭では無く夕鈴であったことが嬉しかった。
己の全てだった愛が消えれば、新しい愛が生まれることなど二度と無いと思っていたが、明蘭を失くして乾いた心は夕鈴でなければ潤すことは出来なかったのだと思い知った。
「お帰りなさいませ…陛下。」
夕鈴は恥ずかしそうに呟いた。
今はただその言葉が黎翔をこの上なく満足させる。
「…ただいま。」
守り育てようとあの日心に誓った唯一の弟が愛し、妃にと望んだ娘。
それでも欲しい。
どうしても。
彼女は、半分には出来ない。
それはきっと、翔瑩もわかっているはず…