抗がん剤も最後になって来た、秋。



一番しんどくて、ますます母を頼りにしたかった私に、母は言った。



「ママは、ブラジルに行ってくるわ。」と。



母の大好きな日本舞踊。


私もその影響で仕事にまでした訳だが、

母は私がこうなっても、

その舞踊団の海外公演について行く、

と言うのだ。



いや、それまでも、お金をかき集めては、そうやって毎年の様に、いろんな国に後援会としてついて行っていた。


母は、深い愛で私を守ってくれても、自分の人生のペースを私によって変えはしなかった。



「これは、ママの重要な使命だと思っているの。

 日本の文化を世界に紹介して、

 海外にうんと縁を付けてくるの。

 その間は、頑張って乗り切ってね」と。



明るく手を振って、大きなスーツケースを引いて地球の裏側の国へと、出かけて行ってしまった。



白血球低下で弱っていた私が、

ハァと言ったきり、口をぽかんと開けているうちに、颯爽と母は立ち去った。



あの当時は、周りのみんなも呆れながらも、

あれが母だと、認めるしかない感じでいた。



成長過程や、時代的にも、

お嬢様気質でちょっとズレてて、

空気を読まない母を、



人目ばかり気にする私は、

恥ずかしいと思う時もあったが。



それが母の最後の旅になった事を思うと、

そう決断してくれた事に、

ただ、感謝しかない。



そして、お見事!と言いたい。


母は何と自分を生きていた人なんだろう!



今、それに取り組み、そんな生き方に移行している私は、もともとそんな母を人生の見本として選んで生まれたのだった。



あの頃は反発して、口論ばかりだったけれど。

この気持ちが今、母に伝わっていると信じている。




母は、一層パワーアップして帰ってきた。



そして、新居の整理に追われながらも、

生き生きと私達家族を助ける事に奮闘してくれた。



私は、子供が生まれた時は一緒に暮らしていたのに、夫のポストが決まり、

やっと自立出来るようになったと同時に、


夫と母の関係を断ち切る形で、孫を母から引き離すように引越ししてしまった事に罪悪感を持っていた。



それが再びいい形で、母を近くに呼べた事が嬉しかった。2人のお互いを見る目も変わってからこうなった事。


一度破壊しても、もう一度もっと良いものを作り上げた様な喜びだった。



そこまで舞台が整った頃、私の抗がん剤治療が終わった。