受験勉強に関する雑記

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JTBにお勤めの西田さんですよね?/過去問の間に挟まるiphone/やに汁を誤飲しても余裕

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 深夜のファミレスで幾度となく展開された、狂気の痴呆性満腹王子U田(八年生)と、神聖おぼっちゃま物理教師K氏(高校の時のお小遣い3万円)の、灼熱のミーティング。興奮のあまり大黒摩季を熱唱してしまうような熱く激しい議論の結果、お互いにブログで大学受験とその勉強方法について、色々と書いていくことになりました。私は文系なので、現代文や古典、日本史、世界史などの科目に関して、思うところを話したいと考えています。

 今回話すのは、大学受験における現代文の勉強についてです。

 大学受験の世界で、現代文と呼ばれる文章には大きく分けて三つの種類があります。評論文、小説、そして随筆文です。しかし、この三種が常に均等に出題されているわけではなく、そのバランスは時代によって変化してきました。今現在、随筆文はときおり見かける程度の頻度でしか出題されていません。

 時代による出題頻度の変化がもっとも激しいのは小説です。森鷗外や夏目漱石が頻繁に出題された時代は今は昔、小説を使用した問題は大学受験からほとんど姿を消しつつあるといってよいでしょう。私立では特にこの傾向が顕著で、全体に占める割合は3%から5%と言われています。この事実を実感したければ、試しに駅前にある大型書店へでも出かけて、受験参考書コーナーに積んである赤本をぺらぺらめくってみてください。どこの大学、学部を手に取ってみても、小説の問題を見つけるのは至難の業です。

 結論を言ってしまえば、現在の大学受験に出題されるのはほぼ全て評論文なのです。ですから、大学受験において現代文を勉強するということは、とりもなおさず評論文を勉強することを意味します。そして、やっかいなことに、国語を学ぶ多くの高校生にとって最大の障害となるのが評論文なのです。

 では、どうやって勉強していくかという方法論に行く前に、まず、どうして評論文がこうまで難しく感じられてしまうのかを考えてみましょう。これに関しては、高校受験の問題と比較してみると大変わかりやすく理解できると思います。(高校受験では、評論文のことを、論理的文章、論説文などと呼んでいましたね)

 文章題を解く際に必要な能力をシンプルに挙げると二つあります。①文章を正しく理解する能力と、②設問を論理的に解く能力です。高校受験の問題を全体的に見ると、明らかに②に特化しています。文章を深く読みこむことはあまり必要とされていません。大量の設問を、いかに素早く、正確に、与えられた時間内で処理してゆけるかが問われているのです。設問数の多さに比して、試験時間が異様に短いのが高校受験の特徴と言えます。

 ゆえに受験指導も自然と設問重視になりがちです。変態的に細かい解法テクニックを駆使したり、迷ったり悩んだりしたら(=深く考えたら)負けだと生徒に教え込んだりする国語の先生が、僕の周りにも数多くいらっしゃいます。悲しいかな、たいして本文を読まなくとも、多少なりとも論理力があれば解けてしまうような設問であふれているのが高校受験国語の現状なのです。最難関(灘、開成レベル)はもちろん除きますが、おそらく①を厳しく鍛えあげることのできた中学生は、塾に通っていたとしてもあまりいないのではないでしょうか。

 評論文が難しく感じるのは、まずほとんどの高校生が①の段階でつまづいてしまうこと、そして、その状態だと大学受験の設問はまったく解けないように作られていることが原因です。要するに、文章が理解できていなければ、いかなる解法テクニックをもってしても解けない問題が大半なのです。

 評論文は書いてある内容が今までとは段違いに難しい。日常から離れた抽象的な言葉が乱舞しています。ですから、受験生はまず「読む」という行為から訓練しなくてはいけません。設問の「解き方」ではなく、文章の「読み方」を学ぶべきなのです。

 随分長くなってしまいましたので、今回はここまでにします。次回は「読み方」の学習について、考えていきたいと思います。