泣いて大人になりたくない。
喪失を歌いたくなんてない。
追憶に浸りたくなんてない。
しんみりなんてしたくない。
だからといって、なにをどうすればいいのかはわからない。

「はい授業はじめるよー」と言いながらナガセが教室に入ってきた。
私は授業が始まるのを待ってみた。
「はいじゃあ今日はねー…えーと…教科書の…止めて?」
「何ページですか?」
「っておいおーいとか」
「先生?」
「なんでやねーんとかで終わるやつだったんだけど」
「なんの教科書ですか?」
「恋の教科書」
笑ってしまったので私が負けた。
「はぁ、おはよう」
「おはよう。笑ったから昼休みジュースね」
「なんだよ恋の教科書って…Jポップかよ…」
「ニューシングルみがあるね」

ここ数日、午前中の間にナガセの仕掛けてきたネタで笑ったら昼休みにジュースを奢らなければならないという、ナガセだけが得をする地獄の競技が繰り広げられている。
明らかなネタには耐性があるけれど、ふとした拍子にナガセが発する単語に弱い。
私の財布には、日増しに小銭が増えていった。

とはいえ、ナガセはナガセなりに私のことを心配しているようだった。
私は普段通りにしているつもりだったのだけれど、ナガセが言うには時々スイッチが切れたように無表情になっているらしい。
「本の読みすぎなんじゃない?」とナガセは言った。

そう言われてみると、たしかに思い当たる節がないわけでもない。
本を読んでから作者のことを調べてみると、誰も彼もが暗い喪失を経験している。
もちろん、世界中の本を書く人全員がそんな経験をしているわけではないはずだ。
私がたまたまそんな本を引き当ててしまっているのかもしれない。
あるいは、私のなにか暗い部分が引き寄せてしまっているのかもしれない。
それらの積み重ねに、私はあまりよくない影響を受けてしまっているのかもしれない。
そんな様子にナガセは気付いて、私を笑わせようとしているのかもしれない。

「普通でいてくれればいいから」と、ある日父親が私に言った。
まるで、努力をサボって落ちる場所が「普通」であるかのような言い方だった。
そして、まるで自分自身が「普通」であるかのような言い方だった。
その時私の中に強烈に湧きあがった感情が怒りなのか嫌悪なのかはわからなかったけれど、何も言わずに距離を置くというのが最適解だということだけはわかった。
リビングから自室に戻った私は、天井を見つめながら小さな声で「普通なんてクソくらえ」と呟いた。

私が黒いもやもやのことを思い出していると、
「じゃあ、また明日ね」とナガセが言った。
ナガセとは、短い距離しか通学路が一緒ではない。
帰り道というのがあまり好きではない私は、いつもうまく笑えない。
だから私は今日も下手くそな笑顔でナガセに手を振った。
その時ふと、この手はナガセに振るためにあるのだろうか、と思った。
違う。
私の手はナガセに触れるためにある。

泣いて大人になりたくない。
喪失を歌いたくなんてない。
追憶に浸りたくなんてない。
私はナガセと一緒に歌いたい。
在りし日の歌になんかしてやんない。

私は別れたばかりのナガセを追いかけた。
ひょこひょこ歩いていたナガセは、走ってきた私に気付くと逃げた。
思ってたのと違う。
「待って!ちが、違う!なんで逃げんの!」
「お金ないです!あたしじゃないです!向こうに逃げました!」
「待ってって!てかなに言ってんの!?」
「こえぇって!なんか映画で観た!襲われるやつじゃん!」
「襲わないから!…たぶん」
「ほらぁーやっぱりだ!」
「ほんとに待って!ナガセ!」
ナガセは徐々に速度を落とし、私たちはやっと走るのをやめた。
「なに…どうしたの…」
「ちょっと…話したいこと…待って、しゃべれない…」

私とナガセは、公園のベンチに腰掛けた。
私が停学になった夜にふたりで話したベンチだった。
「逃げるからなんか話すタイミングわかんなくなっちゃったじゃん」
「追われたら逃げるんだなぁ。人間だもの」
「走ったらのど渇いた」
「よし、今日はあたしが買ってきてあげよう」
そう言ってナガセは、自動販売機に向かった。

ナガセの買ってきたミルクティを飲みながら、私は恐る恐る声を出してみた。
「あたしさ」
「うん」
「最近ちょっと変だったよね」
「うん」
「なんかもやもやしてて」
「うん」
「けどなんか、晴れた」
「ほう」
「あたしさ」
「うん」
「ナガセのこと好きでもいい?」
「お?」
「Likeじゃないやつで」
「おお?」
「ごめん、意味わかんないよね」
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
「ついに言ったな、と思って」
私は両手で顔を覆った。
ナガセは、少し考えたあとで言った。
「ひとつ、関係性に名前をつけない。ふたつ、変わらずにいることを強制しない。みっつ、人前で手を握らない」
「じゃあ今は?」
「なに?」
「手」
「いいよ」

桜が咲いていた。
青い空を背にした桜は、その花のひとつひとつが命を讃えて歌っているようだった。
「天気いいね」と私は言った。

 

「なに読んでるの?」とナガセが言った。
「なんか…心象スケッチとかいうの」
「どんなの?」
「わかんない」
「え?」
「さっぱりわからん」
「わかんないのに読んでんの?」
「わかんないから読んでんだけど、わかんない」
「古いやつ?」
「そうだね、ちょうど百年前だって」
「あたしが二歳くらいの頃かぁ」
「ということはあたしが三百歳くらいの頃だね」
どうしようもないボケ方をしてしまった私たちの間に、少しだけ沈黙が流れた。
「昔の言葉だからわかんないんじゃない?」
そう言ってナガセは、なにごともなかったかのように話を戻した。
「あー、それもあるかな…。いや、やっぱり今の言葉にしてもわかんないかも」
「楽しいの?」
「それもわかんない。けどなんだかずーっと語呂がいい」
「ほう」
「ラップみたい」
「心象スケッチするぜメーン」
「エッチスケッチワンタッチメーン」
「えっなにそれ」
「えっ急に素になるのやめて」

私が本を読んでいるとき、なぜかナガセはそばにいる。
わざわざそばに来て、頬杖をついて私のことを眺めていたり、スマホをいじったりしている。
最初の頃は気になった。
早く読み終われと言われているような気がしたから。
けれど、そうではないらしい。
「あ、気にしないで。なんか本読んでる人のそばにいると落ち着くってだけ」と、ある日ナガセは言った。
それ以来、私はナガセがそばに来ても構わずに読書を続けられるようになった。

「なんで春ってこんな眠いの?」と、授業の後で半分キレながらナガセが言った。
「春は寝てるほうが正しいよね。たぶん。生き物的に」
「春眠あかちゅ、あきゃつ、あか」
「ぜんぜんあかつき覚えてなさそう」
「次の授業寝るからねもう」
「次って視聴覚室じゃなかった?」
「マジで?かんぜんに寝れる」
「まくら持ってくればよかった」
「それは笑う」

ナゲットとシェークの乗ったトレーを持って席に着いてから、私は窓の外を眺めた。
通りを歩く大人たちは、心なしか皆浮かれているように見えた。
あるいはそれは、柔らかい陽射しのせいなのかもしれない。
表情の影までもが柔らかく感じられるせいなのかもしれない。
「おまたせ」と言って、ナガセが向かいの席に着いた。
ナガセのトレーには、ハンバーガーのセットに加えてもうひとつハンバーガーが乗っていた。
「え、晩飯?」
「やだなぁまだ明るいよ」
「いや、量。明るさじゃなくて」
「おやつだよ?」
「冬眠明けなの?」
「春だからね。しょうがないね」
「ぜんぶ春のせいなの?」
「いっぱい食べるキミが?」
「すき」
「よっし」

途中でおなかがいっぱいになったのか、ポテトを無言で私のトレーに乗せながらナガセが言った。
「なんかみんな楽しそうに見えるね」
「それ。あたしも思ってた」
「浮かれやがってよぉ」
「やがってとは思わなかったけど」
「あたしだってモテてぇよぉ」
その言葉を聞いて、なぜか私の心拍数は上がった。
「へぇ、ナガセも人並みにモテたいとか思うんだ」
「だって、春ですぜ?」
「ですぜって」
「あんただってモテたいでしょ」
「あたしはべつに、べつにってか全然そういうのいいなぁ」
「うそだぁ」
「いや、ほんとに」
「あれ、なんか元気ない?」
「え、大丈夫」
「ハンバーガー食べる?」
「おまえマジかよ」
私は結局、ハンバーガーもひとつ食べた。

ナガセに手を振ってから、私は自分の様子が少し変だったことについて考えた。
恋愛や彼氏がどうといった話題があまり好きではないという自覚はあった。
けれど、ナガセがそういった話をしたからといって私が落ち込む必要はまったくないはずだ。
私だって、いつまでもナガセとふたりきりで楽しく生きていけるとは思っていない。
ナガセが幸せな花嫁になる姿は想像できる。
けれど、その隣に誰か知らない男が居るという光景が想像できない。
「できないのではなく、想像することを拒んでいるのではないか」という言葉が浮かんだあたりで、私は考えるのをやめた。
本が読みたいな、と私は思った。

大きな庭のある家の横を歩いていると、道沿いにクリスマスツリーのような木が等間隔に植えられていた。
それらはまるで、うまくいかなかったクリスマスたちの墓標のように見えた。
「ZYPRESSEN 春のいちれつ」と、私は心のなかで呟いた。
三歩で次の植木がくるように、植木の間隔に合わせて私は歩いてみた。
その時ふと、歩いていたら未来に間に合わないのではないか、と思った。
次第に私の歩調は早くなった。
次の木にたどり着くまでの足取りは三歩から二歩になり、それはやがて一歩になった。
気がつくと、私は全力で走っていた。

走ったって未来が早く訪れるわけじゃない、とは思えなかった。
じっと未来を待つよりも、ほんの少しだけ早く未来に行けそうな気がした。
光の速さに近づけば、苦しみも短くて済む。
私は誰にも見られていないことを願いながら走った。
どうして自分が泣いているのかわからなかった。
その未来にナガセがいたらいいな、と私は思った。

悲しみとは、喪失に対する反応である。
でも私はなにかを失ったつもりはない。
気付いていないだけなのかもしれない。
あるいは。

カーテンを開ける気もしなかった。
カーテンを開ければおそらく特太ゴシック体で「冬」という文字が空に浮かんでいるだろう。
私は布団の中で方向転換をしてから、カーテンレールにかけてあった制服を引っ張り落とそうとした。
しかし、反動やら振動やら衝撃やらいろいろなものを駆使してもハンガーはカーテンレールから手を離そうとはしなかった。
私は諦めて一瞬だけ布団から飛び出たあと、制服を布団の中に引き込んでもう一度目を閉じた。

モノクロームの景色は私を憂鬱にさせる。
冬に元気なのは犬かナガセくらいなものだ。
私はコートのポケットの中で指の関節を鳴らした。
雪に色があれば少しは虚しさも紛れるのかな、と私は思った。
極彩色の冬を想像しながら、私はマーチンの靴底で雪を踏みしめた。

ナガセは教室のドアを開けた瞬間からアナ雪顔をしていた。
だから私はおはようの前に言わざるを得なかった。
「雪だるまは作らないからね」
「ちょっと、ネタ潰さないで」
「なんで朝からそんなテンション高いんだよ。モンエナでも飲んできたんか」
「よろこび庭駆け回ろ?」
「伏せ」
「やだ!床冷たい!」
「ねぇいいから早くドア閉めて!?」
「あっメンゴメンゴ」
「この時期の暖気はダイヤに匹敵するからな!?」
「ちんしゃちんしゃ」

私にだって、雪にはしゃいで遊んだ記憶くらいはある。
しかし、いつから冬が苦痛でしかなくなってしまったのかについては思い出せない。
大人になるということがあらゆる喜びを虐殺していくことならば、それはあまりにもクソだ。
私は今、おそらくその分水嶺の上でよろめいている。
そして私はナガセの存在に手を伸ばして助けを求めているのだろう。
大人になんてなりたくない、と叫びながら。

箒で床を掃いていると、突然教室に冷たい風が吹き込んだ。
驚いて窓の方を見ると、ナガセが窓枠に積もった雪を集めていた。
「マジで?ちょっと、なに?犬なの?寒いって」
私がナガセをどけて窓を閉めると、ナガセは白目を剥いて窓に手を伸ばした。
「ゆき…ゆき…」
「こわいこわい。こわいから」
「えーだって、楽しくなんないの?」
「いや…べつに…」
「楽しいの感情をなくしちゃったの?ロボなの?」
「冬はなんか、だめなんだよね」
「テンションが?」
「テンションが」
「わかるー」
「うそつけ」
「ほんとだよ」
ナガセは真面目な顔でそう言った。

「冬はね」と、いつだったかお寺の住職が私に話した。
あれは祖母が亡くなったときだと思う。
雪の多い冬だった。
「冬はね、悲しいのが当たり前なんだよ。いろんな生き物が死んじゃうからね」
私は頷いた。
死がどんなものかも曖昧だったうえに、祖母は気が済んだらまた起き上がってくるのではないかとすら思っていたけれど。
「でもね、悲しいのは悪いことじゃないんだよ。悲しいがわかるから嬉しいもわかるんだ。ずーっと嬉しいしかないと、嬉しいってなんだろってわかんなくなっちゃうからね」
私は首を傾げた。
ずっと嬉しいほうがいいに決まってるのにな、と思った。
「悲しいが冬なら嬉しいは春。冬に植物や虫が死んじゃうのも、春に子供たちが生まれてくるように」
「でも人は冬に死なないよ?」と私は言った。
「ながーい目で見れば、人にも冬や春があるんだよ。だからおばあちゃんが亡くなったのは悲しいけど、今は我慢しないでいっぱい悲しんでいいんだ。いや、悲しむべき時間なんだよ。フロイトは悲哀の仕事って言ってたかな」
「でも悲しくないよ?」
「そっか。悲しくないか。それはそれでいい」
そう言って住職は笑った。
あのとき悲しむことができていれば、冬が来るたびにこんなに悲しい気持ちにならずに済んだのかもしれない、と思わなくもない。

校門を出た私の後頭部に柔らかな衝撃が走った。
あまりに懐かしいその痛みに、私は微笑まずにはいられなかった。
振り返ると、ナガセが次の雪玉を作ろうとしゃがみ込んでいた。
「ちょ、待って、まだ次の、待って待って」
そう言ってたじろぐナガセに私は雪玉をぶつけた。
「雪玉ぶつけられたのも投げたのも、いつぶりだろ」
「悪くないでしょ?」
「やっぱ冷たい。やだ」
「じゃあなんでそんなに笑ってんだよ」
「あんたがいるから」
「え、今あたし口説かれてる?もじもじしとこ」
ナガセは「もじ、もじ」と言いながらもじもじした。
「でもほんと、あんたといるとなんかほぐれるわ」
「ほぐれるって言葉なんかおもしろいな」
「うまく言えない」
「インナーチャイルドとなかよくね」
ナガセの口からそんな言葉が出たことに、私は驚いた。
ナガセはにこにこ笑っていた。

帰り道で、私はこれまでないがしろにしてきた感情のことを思った。
雪の上にテンポ正しく並んだたくさんの大人の足跡は、まるでスポイルされた感情のパレードのように見えた。
この人達に春が来ますように、と私は思った。

 

私は「より良い結婚」をするためにテスト勉強をしているわけではない。
「良い奥さん」になるために単位を取っているわけでもないし、「円満な家庭」とやらのために毎日制服を着ているわけでもない。
しかし、私のレゾンデートルを私が決めてはいけないらしい。
「みんなそう言ってる」らしい。

「お前そんなんじゃろくな大人にならないぞ」と教師は私に言った。
クラスの何人かは笑っていたけれど、私はとてつもない違和感を感じた。
「先生、ろくな大人の”ろく”ってどんな意味ですか」と私は聞いてみた。
「あぁー、そういうことじゃなくてな」と教師は言葉を濁した。
「あともうひとつ」と私は続けた。
「先生は”ろくな大人”なんですか?」
教師は教卓を蹴ったあと、無言で私を睨んでいた。

「ねーちょっと聞いてー」と、昼休みに自分の机をガガガと私の机にくっつけながらナガセが言った。
「ぜったい大したことない話っぽいけどいちおう聞くね」
「大してるし!パジャマ捨てられたんだよひどくない?」
「あ、はい」
「ちょっと、サンドイッチ開けないで聞いてよ」
「サンドイッチ捨てられたのか、ひどいね」
「パジャマだよ。サンドイッチから離れろよ」
「なんで捨てられたの?」
「臭かったんだって」
私は思わず笑ってしまった。
「ねぇ笑ってないで。ジェラピケだったんだよひどくない?」
「でも臭かったんでしょ?」
「臭くないし!あたしフローラルだし!嗅いでみ!?」
私はナガセのつむじを嗅いでみた。
「ねぇフレーメン顔しないで!」
「いやまぁ、パジャマなんてそれなりに人間の匂いするもんだよね」
「愛着あったのになー。新しいパジャマ買う金がねぇよ」
「またジェラピケ買うのは大変だね」
「せっかく時間かけて臭くしたのになぁ」
「臭かったんじゃねぇか」
「きらい?」
「すき」

「お前は小さい頃は素直でいい子だった」と、ある日父親が言った。
「今はどうなのだろう」とは、私は思うことすらしなかった。
過去とはどこにあるのだろう。
頭の中にしか存在しないのなら、それは夢や幻となにが違うのだろう。
古びた写真ですら、紙に小さなインクのドットがたくさん染みた集合でしかない。
それはフィクションとなにが違うのだろう。
私はぼんやりと、ナガセとずっと一緒に笑っていられないかなと思った。
しかしそれはおそらく叶わない。
ナガセはいつか誰かの「良い奥さん」になるのだろうから。

帰り道でいろいろなことを考えながら歩いていたら、私は突然歩くのが面倒くさくなってしまった。
私はどこにも行けないのかもしれない。
明るい未来にも、暖かい過去にも。
河川敷の草の上に座りこんでしまうと、いよいよ私の体は重くなった。
うなだれている私の足元に、くたびれたボールが転がってきた。
顔を上げると、少年たちが野球をしていた。
野球とは呼べない人数ではあったけれど、しかしそれはやはり野球だった。
私はボールを拾い上げて投げ返そうと思ったけれど、ふと思いついてボールを持ったまま少年たちのほうへ歩いた。
「ねぇ、あたしも混ぜて」
「え。いいよ」
「やった」
「でもグローブねーじゃん。バッターやる?」
「いいの?」
「いいよ」
私はそれまでバッターをしていた少年からバットを借りて、バッターボックスに立った。
バットを握るのなんて小学生の時以来だったけれど、なぜか打てそうな気がした。
「スリーストライクで交代ね」
「おっけー」
私はぎこちない構えで、ピッチャーのフォームを注視した。
「過去なんて!クソだ!」
叫び声とともに私は空振りをした。
思いがけない言葉が口から出たことに私は驚いていた。
「え、ねーちゃんなに今の。こわ」
「気にしないで。次」
ワンストライク。
私は出来るだけなにも考えずにボールに集中した。
「未来はもっと!クソだ!」
ツーストライク。
またしても空振りだったけれど、私は予感めいたなにかを感じた。
モーションに意識を注ぐタイミングで、言葉が出てくる。
ボールよりも、無心になることに集中していた。
「いつだって!今が!最高!」
くたびれたボールは、魂の叫びと一緒になってオレンジ色の夕焼けに放物線を描いた。
「え、これホームランじゃね?」と私は言った。
「ヒットだよヒット」
「けど守備いないからホームランみたいなもんじゃん!」
「ねーちゃんがホームランって思ったらホームランでいいと思う」
「それいいな」
「でも今のはヒット」
「えー」
私はくやしいふりをした。
嬉しくて泣きそうなのを隠すために。

私が夕暮れの空に放った打球はあいにくホームランにはならなかったけれど、それでよかったのだろうと思う。
なんというか、そのほうが今の自分にはしっくりくる。
それまではヒットどころか、空振りどころか、ボールがどこから飛んできているのかさえわからなかったのだ。
いや、そもそも飛んできているのがボールなのかすらもわからずに震えていた。

今は違う。何と闘えばいいのかを知っている。
私は魂のバットを構えて、未来のほうを睨んだ。

 

雷の音が聞こえてくると、恐怖心と同時にどこかわくわくしている気持ちが存在する。
私は小さな頃に布団の中で丸くなったまま、はじめてその事実に気が付いて驚いた。
もちろんはっきりとした言葉で理解したわけではない。
ただそれがそこに漠然と存在することを知った、という言い方のほうが適切かもしれない。
そしてもっと漠然としたもう一つの感覚については、気が付いてすらいないふりをしなければならなかった。
「人は誰しも、心のずっと深い場所では破滅を期待している」
不吉な予言のようなその感覚は、黒いもやもやとした姿でこちらをじっと見つめていた。
それは突然現れたわけではなく、いつも傍らに身をひそめていたのだろうと思う。
それがそこに居ることを知った小さな私は、布団の中でべっとりと汗ばんだ小さな手のひらを固く握りしめ、小さく丸めた体をさらに小さく縮めるしかなかった。
高校生になった今も、雷が鳴る夜は体を丸めて眠る癖が残っている。
黒いもやもやはとっくにその影を薄めたというのに。

「超絶美人の天才バレリーナになって大富豪のおじさまに無回転寿司いっぱい食べさせてもらいたい人生だった」
「うるさい」
こちらに目もくれずにナガセは言った。
発表で使う資料を順番に重ねていく手も止めずに。
「でも美人でもないし天才でもないから寿司どころかシャリもない」
「うるさい」
「ついでにバレエもやったことない」
「ねぇ、いいから手動かしてマジで」
「めんどくさいよー。めんどうがくさいよー」
私はフレーメン反応の顔をしながらそう言った。
「わかった、帰りに回転寿司寄ろう。だから今は一枚でも多くプリント重ねてって」
「回ってんのかよー。回ってないのがいいよー」
「回ってるよ。めちゃめちゃ回ってるよ」
「高速回転?」
「ベイブレードくらい回ってるよ」
「それはちょっと見たいな」
ナガセはベイブレードくらい高速で回っている寿司を想像したのか、下を向いて肩を震わせた。

私が生徒会長に立候補すると言ったとき、ナガセは笑いながら副会長に立候補した。
「あんたが生徒会長になったらなんやかんやあって学校が爆発しそうだからあたしが止めないと」というのがその理由だった。
「ひど」
「学校はあたしが守る!」
「爆発て。マンガか」
「ちゅどーんって」
「ちゅどーんってね」
「なんかこう、こういうポーズで飛ぶやつね」
ナガセは椅子に座ったまま両膝を曲げて手をロックサインの形にした。
「しょえーってね」
「あんた成績もいいのに、生徒会長なんかになったら安泰だね、内申点」
「内申点はどうでもいいかな。なんとなくやってみたい」
「やば。大物じゃん。今のうちにサインもらっとこ」
「送りバントでいい?」
ナガセは送りバントのサインを出されるサイン会を想像したのか、下を向いて肩を震わせた。

ある日、私は生徒指導室にいた。
コチコチと時計の秒針が進む音だけが響いている。
「なんというか」
先生が咳払いで静寂を押しのけてから言った。
「事の次第は、わかった」
私は次の言葉を待った。
「まぁ調査書の内容は少々まずいことになるかもしれないけど」
「はい」
なにが”はい”なんだろう、と私は思った。
「たしかそんなに影響なかったと思うし、学力のほうでまぁ、カバーできるだろ」
「はい」
「大学行くんだったよな」
「はい」
「停学になる生徒会長って、はじめて見たなぁ」

「あ、もしもし、ポンコツ生徒会長さんですか?」
電話に出るなり、ナガセががっつり煽ってきた。
「はいこちらポンコツ」
少しの間、沈黙があった。
おそらく笑うのをこらえているのだろう。
思いきり声を出して笑えばいいのに、と私はいつも思う。
「家から出るのとかもダメなんだって?」
「ほんとはね」
「ほんとはってなに?出てんの?」
「いや、出てないよ」
「どゆこと?」
「ナガセが「会いたい」って言えば出る」
「会いたい」
「わかった。夜になれば出れる」
「あそこの公園でいいかな」
「うん」
「あとでまた電話する」

暗い公園のベンチに、スマホの灯りで顔を照らされたナガセが座っていた。
私はナガセにあたたか~いミルクティを渡しながら言った。
「外出禁止の人を外出させちゃうなんて、わるいやつ」
「うわ、停学になった本人が言ってるのおもろ」
「あんまり長くは居られないからね」
「うん。顔見れたのでもう半分くらい満足してる」
夜の公園は不必要なほどに静寂に満たされていた。
ときどき風が落ち葉を移動させる乾いた音がするだけだった。
向こうの暗闇でもやもやしたものが動いたような気がしたけれど、おそらく無音と暗さからくる不安によるものだろう。
「安泰だと思ってたのにねぇ」とナガセが言った。
「いや、べつに気にしてない」
「それな。思いのほか落ち込んでないから、びっくりした」
「うん」
「わざと転落したのかってくらい」
ミルクティをひと口飲んだあとで、ナガセが言った。
「ねぇ、あのさ」
「ん?」
「わざとじゃないよね」
「まさか」

どこか遠くから雷の音が聞こえた。

 

「いい知らせと悪い知らせがある。まずいい知らせは、うんこが出た。悪い知らせは、トイレじゃなかった」
「それ以上近づくんじゃねえ」
僕はアパートの玄関に入ってきた今井にドライバーを向けた。
今井のねじを外そうと思ったわけではないし、頭のそれはすでに外れている。
うんこに対する拒絶を示さないわけにはいけなかったからだ。
「大丈夫大丈夫、ぜんぜん大丈夫だから」
「なにがだよ、どこがだよ」
「いやほんとに大丈夫。うん、まぁ、大丈夫」
「せめて大丈夫な理由を言えよ、そこは」
「洗ったし」
「よえぇ!理由が!」
「大丈夫だもん」
「いや…でもさ」
「帰って!パンツ捨てて!シャワー浴びて!着替えたもん!」
「わかった、わかったから泣くな。叫ぶな。通報される」
「泣いてない!」
今井はそう言って泣きながら靴を脱いだ。

「もしさっき通報されたらさぁ」と今井は言った。
「俺よりも、パンツ一枚でドライバー持ってるお前のほうが先に拘束されただろうな」
「それはあるな」と僕は答えた。
「理由聞いても大丈夫なやつ?そういう、なんか変わった性癖とかだったらあの…」
「PCのメモリ増やしてただけだよ」
「あ、そういった性癖というか…プレイもあるんですね…」
「プレイじゃねぇよ、敬語やめて。静電気減らしたかっただけ」
僕はBIOSの設定をしながら、振り返らずに答えた。
今井から遅くなるという連絡がきたので、僕は休日のうちにやりたかったメモリの増設をはじめた。
思いのほか今井がはやく着いたので、僕はその姿をいじられるのを覚悟しながら鍵を開けた。
しかし今井のほうが、とんでもないエピソードを抱えてやってきたのだった。
「なんでうんこ漏らしたの?」
「ちょっと、もうすこしビブラートに包んで聞いてもらえます?」
「なぁ~んで~う~んこ~を~」
「そう、あれはある寒い朝だった。俺はコートの襟を立て、足早に」
「ちょ、長そうなんで、簡潔に。今日お前コート着てなかったし」
「なんかさぁ、駅前の通りに、あのビルの一階にあるコンビニ、あるじゃん」
「うん」
「「すいません、うんこ貸してください!」って言いながら駆け込んだのね」
「うん。…うん?」
「そしたら、そのコンビニにはトイレなくて、ビルのフロアにあるトイレ教えられて」
「その店員も、今の俺と同じくらいつっこむタイミング逃したんだろうなぁ」
「休日のせいか、廊下が薄暗くてさ」
「うん」
「で、まぁ、廊下の段差で転んで、その姿勢のまま…ね」
「うわぁ…」
「暗くて段差が見えなかったんだよね」
「段差イン・ザ・ダークじゃん」
そこまで話すと、今井は当たり前のように僕の家の冷蔵庫からビールを取り出して飲み始めた。
僕はいつもならそれについてなにか言うのだけれど、そのときの今井の背中にはなにも言えなかった。
今日ぐらい、好きなだけ飲ませてやろう。
それでうんこが薄まるのなら。

今井は一本を三十秒ほどで飲んでしまってから、振り返って言った。
「ロングコント、人生」
僕もビールを飲もう、と思った。
そんなに悲しげに微笑む人間をはじめて見たから。

秒針ってこんなに遅かったっけか、と僕は思う。

心なしか、重力まで重くなっている気がする。

無音の会議室に紙をめくる音だけが吸い込まれていく。

せめて責めてほしい。

ため息だけはやめてほしい。

そんなことを考えていると、やはり統括マネージャーはため息をついた。

「セルイン、未達。セルアウト、これも未達。うん」

僕はなにも言わない。

「やれるだけのことはやったんだよね」

「そう…ですね…。いや、やれてないかもしれません」

「ん?どっち?」

「やれてません」

「そうだね」

「はい」

「ディストリと連携とれてる?大丈夫?嫌われてない?」

そう言って統括は笑った。

感情を隠すのに慣れきった、朗らかで冷酷な笑顔だった。

「他社の戦略が読めていませんでした」

「俺はね、動向見てたら、これブッこんでくるだろうなぁと思ってたんだ」

「…そうなんですね」

「だって前年比見てみなよ、これ」

統括マネージャーは紙を何枚かめくったあと、僕にグラフを見せた。

僕はまたなにも言えなかった。

「まぁ、がんばって」

そう言ったあとで統括マネージャーは立ち上がり、会議室のドアを閉めた。

会議室の重力は重いままだった。

まるで…と思いかけて僕は首を振る。

 

窓の外は、季節外れの暖かな日差しに満ちていた。

窓を開ければきっと気持ちのいい風が入ってくるだろう。

けれど、窓を開けてもいいものなのかわからなかったので、しなかった。

「また来るね」と僕は妻に言った。

返事はない。

僕はドアの前ですこし待ってみる。

それに意味があるかはわからない。

少なくとも、意味があるかどうかなんて考えることに意味はない。

そして今日も僕はドアを開ける。

うなだれた僕の心みたいに重いドアだった。

 

小さな頃、庭の土で川を作る遊びをしたことがある。

芝生の層を剥がして土を掘り、掘った土で山を作り、爪の間に土を詰めながら理想のカーブを捏ね上げた。

僕は何度も裏口の水場から黄色いプラスチックのバケツに水を汲んできて、その川を完成させようとした。

けれどどうしても、水は思った通りには流れずに、土に吸い込まれていった。

気がつくと、あたりは薄暗くなりはじめていた。

諦めた僕は裏口の水場で手を洗い、夕飯を作るためのボイラーの排気の匂いを嗅ぎながら家に入った。

翌日、庭を見た祖父にこっぴどく叱られることなんてまったく知らずに。

 

数年前、ある理由で世界中が混乱していた時から、妻はずっと眠り続けている。

僕はときどき、確実に誰も来ないだろうなというときを見計らって、妻の胸に耳を当ててみることがある。

そこには、確かになにかが流れている低い音がした。

彼女の血液の音かもしれないし、ひょっとしたらそれは僕の血液の音なのかもしれない。

どちらでもいい。

そこにあるなにかを聞く僕がいるから音は存在する。

そして彼女も存在する。

それをときどき確かめたいだけだ。

 

夕飯の時に、ふと息子に言ってみた。

「ねぇ、最近母さんに会いに行った?」

「うーん」

「たまに行ってみない?」

「行ってもわかんないかなぁって」

「そうかなぁ」

「なんかさ」

「うん」

「やっぱり気づいてもらえないって確認しに行くの、気が進まなくてさ」

「確かにね。そういうのもあるかもね」

「いや、でも、今度行ってみる」

「そう?」

「だって父さんが言ったってことは、あれじゃん」

「あれ?」

「ずーっと考えてたってことじゃん」

「てへ」

「てへって」

 

ある日、病室に来た息子の荷物に僕はぎょっとした。

「なに持ってきたの、お前」

「え?いや、あれ?だめ?」

「病室でアンプは、まずいんじゃないかなぁ」

「音ちっちゃくすればいけるかなって」

「いや、音もだけど、なんだろう、倫理?道徳?」

「そんな気はしてた」

「してたのかよ」

息子は病室の入口に一通りの荷物を置いた後で、妻に声をかけた。

「母さん、俺だよ」

なにも答えない妻を見ても、息子はとくにがっかりした様子はなかった。

「アンプに繋がなきゃ、ありだよね」

そう言って息子は、ソフトケースからギターを取り出し始めた。

「いや…いや、まあいいか」

「それでは次の曲、聴いてください」

「前の曲どれだよ、ねえよ」

「泣かないでね?」

「歌うの?ちっちゃい声でね?」

息子は、とくにうまいわけでもない歌を歌った。

人生は川だとか、すべてを洗い流してだとか、そんなありふれた歌詞だった。

一通り歌い終わると、恥ずかしくなったのか息子は帰り支度をはじめた。

「先帰ってるね」

「おん。ありがとうな」

「母さんまた来るね」

 

ふたりきりになった病室で、僕は妻の胸に耳を当てた。

誰も来ないという確信がある時間ではなかったけれど、そんなことはどうでもいい。

彼女の入院着のみぞおちのあたりに染みができていった。

その時、なにかが僕の頭を撫でた。

再び川は流れ始めた。

 

翌月、統括マネージャーは僕の顔を見て言った。

「お、いい目してんじゃん」

「ありがとうございます」

「昔に戻ったみたいじゃん。その目が気に入ってたんだよ」

「勝ち方を忘れてました」

もうすぐ夜が明ける。
たぶん。

目が覚めた時間はあまりにも早すぎた。
枕元の電球を手探りで点けると、吐く息が白いことに気づいた。
冬じゃあるまいし、と思ったあとで、降雪のニュース記事を昨夜どこかで見た記憶が甦る。

僕は布団から必要最低限の体を繰り出して、レインボーストーブに火を入れた。
「まだ秋、まだ秋だもん…」と、誰に言うでもない言い訳のような独り言を言う。

ストーブの灯りに照らされて、少しずつ部屋が明るくなってくる。
ということはつまり、外はまだ真っ暗だ。
この時点で、時計は一度も見ていない。
見たくもない。

僕は布団に潜り込みなおしたあとでぼんやりと、コーヒーを飲みたいな、と思う。
でもたぶん、今飲んでしまうとそれはモーニングコーヒーではなくてミッドナイトコーヒーになってしまう。
僕が飲みたいのはモーニングコーヒーなのだ。
豆だけでも挽いておこうかな。
いや、めんどくせぇな。
まだ寒いし。

僕は目を閉じて、二度寝なわけでもない状態になる。
寝てない。目を閉じただけ。
横になって目を閉じてるだけ。
横になって目を閉じてすこし意識を失いかけてるだけ。
横になって目を閉じてちょっと夢を見てるだけ。

そのとき突然、なにかがフラッシュバックして、僕は思わず目を開ける。
いや、フラッシュバックというよりは、デジャビュのような感覚かもしれない。
こんな明け方が、いつかもあった。

「冷え込んだ朝」
「音のないストーブのオレンジ色の光」
「コーヒーを淹れようかなと思う」
「彼女を起こさないように」

僕は隣を見ない。
彼女が居ないことを、わざわざ確認する必要なんてないから。

僕は再び目を閉じる。

もうすぐ夜が明ける。

たぶん。

たぶん。

「……あ、もしもし?すごい耳クソがとれたんだけど、見る?」
「……じゃあ、うん」
「今写真送った」
「おえっ」
「今なにしてた?」
「いや、君の耳クソ見てたんだけど」
「あ、ちがうくて」
「youtubeで犬見てた」
「どんな?」
「いや、なんか、爆笑!おもしろ!腹筋崩壊!みたいなどうでもいいやつ」
「クソみてぇな時間過ごしてて好き」

秋の夕暮れは、日を増すごとにその足を早めた。
冬が来る、冬が来ると焦っているかのようなその光は、緩やかな破滅願望を思い起こさせた。
明日世界が終わると毎日言い続ける人。
世界が終わることに一縷の望みをかけている人。
自分がうまくいかなかったこの世界ははやく終わるべきなのだという、強すぎる自己愛。
そんな人たちもまとめて乗せて、地球が回って夜が来る。冬が来る。来年が来る。

僕が彼女に電話をしたのは、でかい耳クソがとれたからではない。
でかい耳クソがとれるという確信は昨日からすでに存在したし、なんならでかい耳クソがとれるように耳かきを我慢していた節すらある。
出来得る限りしょうもない理由で話しかけたかったのだ。
声を聞かないと胸が苦しくなるからなんて理由は、世界が終わる前夜までは言いたくない。
なので僕は毎日新しい、耳クソのようななにかを探す。

昨日、好きな犬が死んだ。

とはいえ直接知っている犬というわけではない。
モニタの向こうでしか、見たことはない。
どこかの知らない犬が死んだからといって泣く必要も資格もないことはわかっていた。
それでも僕は、風呂に入りながら少しだけ泣いた。
艶も油も水分も(それからたぶん命も)失ってしまったその犬の写真は、どうしたって僕が今まで看取った三匹の犬のことを思い出させたからだ。

なので彼女が犬の動画を見ていたと言ったとき、僕の心拍数はおそらく少し上がった。
そして少なからず動揺していたのだろうと思う。
「ねぇもしさ」と僕は言った。
「明日世界が終わるとしたら、なにしたい?」
「え、なに?終わるの?」
「いや終わんないけど。たぶん」
「いやぁべつに、なんかこうやって君となんとなく話しながら、気づかないまんま終わってほしいかな」
「えぇーなんか、後悔しそうなこととかないの?」
「ない」と、彼女は答えた。
ふと気が付いた僕は、
「ありがとう」と彼女に言った。

彼女を乗せて、僕を乗せて、犬も乗せて、地球はきっと明日も回るのだろう。
彼女が歩いて、僕が歩いて、犬も歩けば、そのぶん少しだけ長く地球が回るかもしれない。
ハムスターホイールみたいに。

 

僕はコートのポケットから綿ぼこりを取り出し、アスファルトに捨てた。
自動販売機の灯りに照らされながら思ったよりも速い速度で落ちていった綿ぼこりは、僕になんの比喩も思い起こさせなかった。

部活が終わる頃にはすっかり薄暗くなってしまっていた。
僕は自動販売機で買ったミルクティーの缶で指を温めながら、いつものように学校の前のバス停に腰掛ける。
しかし待っているのはバスではなく、当時すこしだけ、ほんの短い間だけ親しくなっていた女の子だった。

小さな小屋のようなそのバス停は、夕方の田舎では本来の機能を果たすことはなく、僕のような学生が時間をつぶす場所になっていた。
それでも時々バスは来るので、時刻表でおおよそバスが来そうな時間になるとバス停を出た。
うっかりその時間にバス停にいると、停まってドアを開けたバスに平謝りすることになる。

ところで思春期の気まぐれというのは、もしかしたら男子より女子のほうが浮き沈みが明瞭なのかもしれない。
彼女が僕に話しかけてくれることが多くなったきっかけは、どうしても思い出せなかったから。
だからたまたま、気まぐれだったのだろうと思う。
僕はそれに気づかないふりをしながら、彼女がたまたま僕に向けてくれた好意にまんまと胸を高鳴らせた。

バス停に近づいてくるムートンブーツの足音が聞こえる。
僕はそれにも気づかないふりをする。
彼女がたまたま気まぐれに僕に話しかけるみたいに、僕だってたまたまバス停で休んでいただけなのだと。
思春期のくだらない見栄は、自分を守るためには案外大切なものだったのかもしれない。

「あ、やっぱりいた」
「おぉ、お疲れ」
「あ、いーなーミルクティー。あたしも買ってくればよかった」
「あるよ」
僕はコートのポケットからもうひとつのミルクティーを出した。
「えーやった。やさしいじゃん」
彼女はそう言って僕からミルクティーの缶を受け取ると、指の先を温めた。
「なんか今日めっちゃ急に寒くなったよね」と僕は言った。
「ね。やだなぁ冬」
「冬はきらい?」
「寒くなかったらきらいじゃないんだけど」
僕はなにも言わずに、寒くない冬を想像してみた。

「あ、バス来た。やば」
そう言って彼女は、僕の手を引いてバス停の外へ連れ出した。
過ぎ去ってくれたバスを見送りながら、彼女は白い息を吐いた。
僕たちはバス停の前に立って、なぜか手を握ったままでいた。
彼女の指は、思ったよりも硬く、冷たかった。
僕も白い息を吐いた。
どこかの空で彼女とひとつになれるように。



僕がいつもよりずっと早い時間に起きたのは、彼女の夢を見たからだ。
秋の終わりになると、いつもその夢を見る。
なんだか家にいる気分にはなれなかったので、僕はまだ薄暗いうちに自分の店に向かった。
シャッターを開けて少し足早に警備を解除してから、灯りを点けないままでカウンターの椅子に腰かけると、僕は深いため息をついた。

途中で買ったあたたかいミルクティーの缶を握ったまま、僕は目を閉じてみた。
ムートンブーツの足音が聞こえた気がした。