8.Clearing One's Name(第八章 汚名をすすぐ) のつづき


名前に対する義理(Giri to one's name)について、続けます。


名誉、名声、家名、名折れ、汚名、名人、名犬、名曲、名月、名残、名もない人々 等など
名を使った言葉は数多いですが、やはり義理とは関係ないと思うのだが・・・と未だ疑問は引きずったままですが。


Giri to one's nameは借金を返せない人々を自殺にまで追い込む。また、Giri to one's name は、日本人が他者との競争に追い込まれたとき、100%の実力を発揮できなくさせる。

日本人は競争に負けたとき、それを恥(shame)と感じる。それは Giri to one's name の故である。日本人は競争的な状況に置かれると、自分が負けたときのことを想像してしまう。

The loser 'wears a shame' for such failures.(p153)


少し長いですが、アメリカ人と日本人の違いについて、非常に興味深いので以下引用、


Psychological tests show that competition stimulates us to our best work.Performance goes up under this stimulus;when we are given something to do all by ourselves we fall short of the record we make when there are competitors present.(p153)


アメリカ人は競争相手が居るときのほうが、高い成果を出すことができる。


In Japan, however, their tests show just the opposite.It is especially marked after childhood is ended, for Japanese children are more playful about competition and not so worried about it.With young men and adults, however, performance deteriorated with competition.(p153)


一方、日本人はその反対である。


日本人にはあがり症の人が多いと聞きます。僕もそうだし(泣)。確かに子供のころはそうでも無かったように思いますが(^^;


Subjects who had made good progress, reduced their mistakes and gained speed when they were working by themselves, began to make mistakes and were far slower when a competitor was introduced.(p153)

雑念を振り払い、今自分が行っている作業に集中しているとき、日本人は高いパフォーマンスを達成する。


少し、話がそれますが、日本人には性格的に競争はむいていないから、競争的な自由主義経済は日本社会には適しない、というような話を以前何処かで聞いたことがあります。そうでしょうか?
彼女も正しく指摘しているように、確かに僕らは(もちろんそうじゃない日本人もたくさんいますが)、競争相手を意識すると、自分が負けたときの恐怖をありありと感じて萎縮してしまい、自己ベストなパフォーマンスを達成できなくなることは事実だと思う。


しかし、そんな日本人だからこそ、自由主義経済下での競争は、非常に僕らに適しているのだと思う。なぜなら、市場では、競争相手を直接目の前にして経済的競争を行うわけではないからだ。市場の中で、僕らは競争相手を心理的にありありと意識することなく、自分自身の作業に集中することができる。

自分自身に没入し、やるべき仕事を通して競争に参加することが可能なのである。だから、自由主義的市場経済は競争に不向きな日本人の性格に大変好都合なシステムではないだろうか。


話を戻して、

競争とそれに付随する負けることへの恐怖は、夜這いや、お見合いのシステムとも深く関連している。
夜這いの際、女性を訪れる若者は手ぬぐいで顔を隠す。女性が拒絶したとき恥をかかなくて済むようにである。もちろん、


The disguise is not to prevent the girl from recognizing him (p157)
<このような変装をしても、彼女は彼が誰であるかをしっかり認識している>


この繊細かつお芝居のような約束事、すばらしいですね。黒装束の人形使いが、人形の背後で人形を操る。その姿は観客から丸見えですが、黒尽くめの姿になることによりそこに存在していない、観客からは見えていないというお約束事と同じパターンなのでしょうね。日本の歴史にしばしば登場する権力の二重構造も。


日本人は、非常に記号的というか、抽象的世界とは異なる、象徴の世界に生きている、もしくは、生きることが凄く得意な人種ではないだろうか、と思います。
旅先でハメを外す、旅の恥は掻き捨てというのも、こういうお約束事の延長線上にあるのでしょうね。この場合は、自分の姿を見る人と自分とを遠く隔てている距離が、自分の姿を隠す手ぬぐいや黒装束の役割を果しているのだと思います。旅先での自分の周りに存在する人間は、人間とは別の記号になっているのでしょう。僕らは医者の前では、比較的恥ずかしさを感じずに、服を脱ぐことができる。また公衆浴場では人前で裸になることができる、ということも、このあたりの精神構造と関連しているのかもしれません。

話がまたそれてしまいましたが、要するに、


In all such ways, and in many more, the Japanese avoid occasions in which failure might be shameful.(p157)
<このような方法で、また、さらに込み入った方法で、日本人は失敗することが恥になるような状況を、極力避けようとする>


ということです。かなり納得できます。


この点は太平洋諸島の多くの部族と著しい対照を成しているという。ニューギニアやマレーシアのある部族では、在る村が他の村の人々を誹謗中傷することが、お祭りを開始する合図となる。"あいつらは貧しいから10人のお客をもてなすことができない"、"やつらはケチだから食べ物を隠している"、等など。


しかし、誹謗中傷の取り扱いが正負逆転しているとしても、誹謗中傷が動機付けの中心的な役割を果しているという点では、両者の文化的な繋がり、種的親近性を感じます。彼らと僕らは、写真のポジとネガの関係にあるのかもしれません。


いづれにしても、日本人は自分の名が汚されたとき、そのことが名誉回復の行動への大きな刺激になることもあれば、自殺という手段に至ることもある。しかし何よりもそのような状況、つまり汚名をすすがねばならないような事態に追い込まれる状況=situations which might call in question one's giri to one's name(p156) を避けることが日本人にとっては一番重要なのである。日本人の礼儀正しさは、汚名を濯がねばならない状況を避けるための戦術なのである。

そして、名前に対する義理は、戦後の日本人の行動にも影響を与えた、


many Westerners'forecasts of how Japan would behave after defeat in this war were wide of the mark because they did not recognize the special japanese limitations upon giri to one's name.(p159)
<敗戦後の日本人の振舞いについての多くの西洋人の予測(=日本人は頑強な抵抗を行うだろう)は外れた。何故なら 日本人が持つ名前に対する義理、に基づく特殊な制約を彼らは認識していなかったからである>


なぜこのように日本人は失敗を恐れるのか。彼女は以下のように指摘している、


In all such giri usages there is extreme identification of a man with his work and any criticism of one's acts or one's competence becomes automatically a criticism of one's self.(p152)

<このような義理の慣習には、人と仕事との極端な同一化が見られる。それ故、その人の行動や能力に対する批評が、そのまま、その人自身への批評になってしまうのである>


この指摘も実によく分かります。当たり前すぎて、他文化圏の人たちも当然そうだと思ってたけど、実はそうではなかった。彼らにとっては、自分の仕事と自分とは同じではない、別々なのですね。新鮮な指摘でした。こういう点が、外国人から見ると、日本人は自我を確立できていない=子供、というように見えるのかもしれない。


The vulnerability of the Japanese to failures and slurs and rejections makes it all too easy for them to harry themselves instead of others.(p164)
<失敗、中傷、拒絶に対する日本人の精神的な弱さは、しばしば、他人ではなく自分を苦しめ、攻撃することになる>


ひどい言い方をすれば(自虐)、欲しいものを買ってもらえないとき、ダダをこねて泣いている子供の姿である。このような傾向はDNAとして僕らの中に脈々と受け継がれているように感じます。


こんなことでこれからの国際競争を生き抜けるのか、日本人!


今回は、少しさびしい気持ちの中、次回へ続きます・・・

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8.Clearing One's Name(第八章 汚名をすすぐ)


前回の更新から、間が空いてしまいましたが、決して怠慢からではないと、初っ端から言い訳染みた出だしてすみません。


悩みが深ければ深いほど、沈黙もまた深く、長いのです。


前章では、Giri to the world(世間への義理)を取り扱いましたが、ここではもう一つの義理、Giri to one's name (名前に対する義理)について論じています。
これが、実は分からないのです、僕には。"名前に対する義理"って何?


彼女はこう言っています、

The Japanese do not have a separate term for what I call here 'giri to one's name.'
They describe it simply as giri outside the circle of on.(p145)

<日本人は、わたしが '名前に対する義理'と呼ぶモノに対して、特別の呼称を持っていない。かれらは単にそれを、恩の圏外にある義理として説明する>


ちなみに、Giri to one's name とは、自分の評判を汚さないようにしておく責務をさしています。

で、僕の疑問は次の2点です。


まず一点。Giri to one's name という特別な呼び名を僕らは持っていないことは確かだし、彼女がここで Giri to one's name に与えている属性に合致する概念、対象となる観念は確かに僕らの中に存在する。しかし、それは 義理の下位概念であるとは思えない(少なくとも僕は)


もう一点。彼女はGiri to one's name をGiri to the world と区別する基準として、Giri to one's name が、恩(on)の圏外にあることを挙げている。


they are those duties which are not repayments on benefits received;they are 'outside the circle of on.'(p145)
<それらの徳は受けた利益に対する返済の責務ではない:それらは '恩の圏外' にある>


しかしながら、Giri to one's name の上位概念である義理(Giri)自体が、数量的時間的に制限はあるけれども、恩(on)への返済義務として定義(p116)されていたはず。つまり the circle of on の内側の概念として定義されていた。にも拘らずその下位概念が '恩の圏外'にあるとするのは、論理的に変ですよね?という疑問です。


duty to keep one's reputation unspotted(p145)が存在することは確かだけれど、何故彼女はそれを義理として扱っているのか?義理とは別枠で取り扱うべきでは?というのが僕の疑問です。


一方で、2番目の論理的不整合をどうにか調整すれば、1番目の疑問は、日本人だけの疑問かもしれません(そうですよね?)
Giri は、Giri to the world と Giri to one's name に分類されるという説明、それはそれで理路整然とした体系であり、かつ現実世界の現象を上手く説明できるのだから、日本人(=その文化の当事者)でなければ、そういうものかと、理論的かつ実践的に十分納得できると思う。

反対に、何故それを義理として扱ってはいけないのかと、こちらが詰め寄られそうです。(何故、僕はそれを義理ではないと考えるのだろう、どのようにして僕らは諸々の概念を体系付けているのだろう、という疑問)

と、以上何故更新が遅れたかという、回りくどい説明でした。


それを 義理と呼べるかどうかは一端置くとして、とにかく Giri to one's name について見ていきましょう。


僕らは自分の評判にすごく過敏です。Giri to one's name の概念は、日本以外にも、ルネサンス期のイタリアなどヨーロッパの特定の時代に見られたと言います。またスペインやドイツにも、よく似た概念があると。


the very core of it has always been that it transcended profit in any material sense.(p146)
<核心となる考えは、如何なる意味においても物的利益を超越している、ということであった>


Giri to one's name のヨーロッパ諸国との共通点を指摘する一方で、


It is not, as the phrase goes, Oriental.(p147)
<それは、よく言われているようなアジア的なものではない。>
※この場合の as the phrase goes って、どっちですかね?"一般的にはOrientalだと言われているが"、という意味でとりましたが、それとも、"アジア的でないと言われているように"ということでしょうか。


と指摘します。

The Chinese do not have it, nor the Siamese, nor the Indians.(p147)

The Chinese regard all such sensitivity to insults and aspersions as a trait of 'small' people - morally small.(p147)
<誹謗中傷に対するそのような過敏さは、道徳的に未完成の人々の特徴とみなされる>


また、Shiam では、


They say 'The best way to show an opponent up for a brute is to give in to him.'(p147)
<相手の野蛮さを示す最も良い方法は、相手に負けてやることである。>


所謂「負けるが勝ち」ということですね(ん?日本でも言われてますけど・・・輸入された諺なのだろうか)

Giri to one's name の卑近な例として、 ”武士は食わねど高楊枝”が説明されています(p148)
さらに過激な例として、勝海舟の少年時代、犬にtesticles (←ココやっぱり複数形)を噛まれた("torn by" となっているので、もっと’噛まれた’より凄惨だけど) 有名な話が引用されています(本当に、いろんな文献を調べてるんですね)。


While the doctor operated upon him, his father held a sword to his nose. 'If you utter one cry,' he told him, 'you will die in a way that at least will not be shameful.'(p149)
<手術のあいだ、彼の父親は刀を少年の鼻先に突き付け、"ちょっとでも声を上げたらお前は死ぬ。その方が少なくとも恥ずかしくない方法だ">


すさまじい父親です。今の僕達とは教育方針が根本的に違います。幼年期から少年期にかけこのような精神で育てられたのは勝海舟少年だけではなかったはずです。こういうところにも維新の原動力が宿っていたのでしょう。


また、Giri to one's name は、日本の階層制とも密接に関連している。Giri to one's name は、各自が各自の階層的位置に応じて生きることを要求する。階層ごとに詳細に取り決められた生活様式は、とうていアメリカ人には理解できない。階層によって子供にあたえる玩具の種類まで規定されていることは、アメリカ人には到底耐え難いことである。

しかしそう言うアメリカ人にしても、日本人とは別のルールに基づいて、同じように人々の生活様式を規定しているではないかと、彼女は指摘する。


We accept with no ciriticism the fact that the factory owner's child has a set of electric trains and that the sharecropper's child contents itself with a corncob doll.We accept differences in income and justify them.(p149)
<工場主の子供は電気仕掛けの機関車のおもちゃを与えられ、一方小作人の子供はとうもろこしの軸で作った人形で遊ぶ。この事実を疑念なく我々アメリカ人は受け入れている。我々は収入による生活水準の差を受け入れそれを正当としている>


'True dignity', in this day of objective study of cultures, is recognized as something which different peoples can define differently,(p150)
<客観的な文化研究が発達した今日、'真の尊厳'などという概念は、それぞれの国民が各々独自に定義しているだけのもの、として理解される>


Americans who cry out today that Japan cannot be given self-respect until we enforce our egalitarianism are guilty of ethnocentrism.(p150)
<アメリカの平等主義を強制しないかぎり日本人は自尊心を持つことはできない、などと主張することは自民族中心主義の弊害である。>


そして時代は変わり行く。日本人が持っている自尊の概念も、アメリカ人が持っている概念も、また変わらなければならない、より良いものへと。そのことはやがて起こるだろう。


Meantime Japan will have to rebuild her self-respect today on her own basis, not on ours. And she will have to purify it in her own way.(p150)
<それまでは、日本は自尊の心を日本自身の土台の上に再建しなければならない、そして日本自身の方法でそれを純化させなければならない>


当時、このように日本を見てくれた人がアメリカにいたのですね。感動しました。

心地よい余韻を残して、次回へ続きます。

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7.The Repayment 'Hardest to Bear'(第七章 義理ほどつらいものはない)


思いがけないボーナスのような秋の連休も終わり、いよいよ秋本番か、という期待とは裏腹にまだまだじめっと汗ばむ季節が続いています。最近は月々の季節感が記憶から薄れてしまい、今の気候がこの時期に相応しいのかどうか、なかなか判断に悩む毎日です。そういうの僕だけでしょうか。季節感がないのは、もしも渡り鳥だったら致命的ですね。


さて、前回は恩返しのうち、"義務"について見てきました。今回はもう一つのカテゴリー "義理"について。


"義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界・・・" うーむ、しびれます。

ちなみに「義理人情に厚い」と、ひとまとめてしまうことがありますが、義理と人情は "あれかこれか" という相対立する概念なんですよね。


彼女によると、義理というのは儒教にも仏教にも見られない、日本独特の概念のようです。


and of all the strange categories of moral obligations which anthropologists find in the culture of the world, it is one of the most curious.(p133)
<"義理"は文化人類学者が世界中の文化の中で見出した風変わりな道徳的義務のカテゴリーの中でも、最も珍しい概念である。>


さて、p116の分類表によれば、
Reciprocals of on(恩の返し)として、義理 のサブ概念が詳細に分類されています。


B. Giri
These debts are regarded as having to be repaid with mathematical equivalence to the favor received and there are time limits.

<これらの負債は受けた好意に対し数量的に等しい量を返さなければならない。そして期限がある。>
1.Giri-to-the-world <世間への責務>
Duties to liege lord. <主君への責務>
Duties to affinal family. <姻戚への責務>
Duties to non-related persons due to on received, e.g., <恩を受けた非血縁者への責務>
on a gift of money,on a favor, on work contributed(as a 'work party')
<金銭の受取り、手伝い(作業班)>
Duties to persons not sufficiently closely related (aunts,uncles,nephews,nieces) due to on received not from them but from common ancestors.
<共通の祖先への責務としての、おじ、おば、おい、めい などの親戚への責務>
2.Giri-to-one's name.


この分類で一点気にかかるのは、Duties to liege lord.<主君への責務> である。これは"忠"ではないかと思うのですが。 忠義の義は、義務の義か、義理の義か。主従の関係は、土地や俸禄を媒介にした契約関係と考えれば、義理に該当するのかもしれないが、ここは グレー・ゾーンだと思われます。

p137でも


It is identified as the virtue of the samurai.(p137)
<義理は侍の徳として確立されている>


として言及されてはいますが、違和感がぬぐえません。僕の義理に対する認識が歪んでいるのだろうか・・・
もしくは、このことは、”忠”をただ一つの最高位の存在への義務であると定義しようとする理論的要請から来るものかもしれない。
そして、かつて忠の対象は将軍という最高位の一者であり、明治維新によって忠の対象が将軍から天皇という最高位の一者へとシフトされた、という枠組みで整合的に現象を読み解きたい彼女の願望が、将軍以外の地方領主への責務を”義理”としてカテゴライズさせたのかもしれないですね。ま、ここの所の解釈は目下のところ、全体的に致命的な影響を与える訳ではないので、とりあえず、違和感は違和感として保留し、彼女に習って義理として分類しておきましょう。


Giri-to-the-world については、"そんなことでは世間様に対して顔向けができない"、と言うように今でも十分強制力があるように思いますが、少子化、晩婚化、独身化が進む今日、"世間への義理" が意識される度合いは以前よりは相対的に低くなっている気はしますが、それでも、、実に細かい義理の体系があることは実感的に事実だと思います。


義務と義理の違いは、まずその相手です。
親に対する責務は義務であって、義理ではない。義理の場合、相手は義理の父(father-in-law)、義理の母(mother-in-law)である。


また、義務は量も期限も無制限であるが、義理には制限がある。義理を返す場合、その量は受けた恩と同じでなければならないし、義理は返せばそれで完了である。以降貸し借りは無くなる。また義理には期限があり、期限を過ぎれば、あたかも利子が累積されるかのように、返すべき義理の量は大きくなる。


日ごろ意識しないが指摘されると、なるほどそのようになっている。見たり触れたり出来ないけれど実に不思議な空間が僕らの周りに、自分自身の精神構造も含めて、広がっているのである。


A person fulfills his duties to his in-laws punctiliously,however,because at all costs he must avoid the dereaded condemnation:'a man who does not know giri.'(p135)
<'義理を知らない人'という非常に恐ろしい非難を避けるために、人は義理の親、兄弟達への彼の債務を果す>


僕達には、この世間の非難を、非常に恐ろしいものとして感じてしまう傾向がある。
そして気が進まないながらも(unwillingly)僕らは義理を果たすのである。この意味での"義理"は現在でも、”義理チョコ” などという用法に現れているのである。


さて話は戻って、本論では主従関係における"義理"へと話が展開する。


The great traditional giri relationship which most Japanese think of even before the relation with in-laws, is that of a retainer to his liege loard and to his comrades at arms.(p137)
<ほとんどの日本人が義理の親、兄弟との関係より前に思いつく偉大で伝統的な義理の関係は、戦時において家来が主君やその同僚に対した果す義理である>


主従関係の例として義経、弁慶主従の話(勧進帳)が出てきます。ここでも弁慶の義経に対する責務は、義理として述べられています。しかし彼女はこの義理を、近代日本人が持っている義理とは異なった、義理の原型、無垢な源泉のごときものとして捉えている。


In those days,the tales tell them,there was no 'unwillingness' in giri.(p139)
<当時、それらの物語が日本人に語るところよると、義理には'嫌々ながらする'という要素は含まれていなかった>
To 'repay giri' meant to offer even one's life to the lord to whom one owed everything.(p139)
<'義理を返す'ことは、自分が一切を負っている主君へ、自身の命さえ捧げることを意味した。>


ここには言及されていないが、筆者には 弁慶の立往生のイメージがあったのではなかろうか。
時代の変遷とともに義理が含意するところも幅広く変わってきたのである。

しかし純粋無垢な義理の崇高な原型、とでも言うべきものを示した直後に、


This is ,of course, a fantasy.(p139)
<それはもちろん、幻想である>


この冷たい突放しが、彼女の魅力の一つですね(堪りません)。


先ほどの、主従関係を”義理”ととらえる彼女の見方は、筆者が義理を 無垢で時には命懸けの行為を伴う自己犠牲的な概念にまでその源泉を辿ってみせることによって、義経-弁慶の主従関係も、義理という概念でとらえるのが正しいような気がしてきました。歪んでいるのは現代に生きる僕のほうかもしれません。

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6.Repaying One-Ten-Thousandth (第六章 万分の一の恩返し) のつづき


このところ、夜間がずい分と涼しくなり、朝起きたときの幸福度も20%ぐらいUPしているのは結構なことなのですが、うっかりエアコンを付けたまま就寝していると、ついカゼを引いてしまいそうな秋の訪れです。

さて、義務の一つ"孝"について、日本映画の例を引いてその絶対性について説明がなされたが、"孝"のさらに上位に位置するのが同じく"義務"のサブ概念である"忠"である。"忠"とは天皇に対する義務である。


It could be abrogated only if it came into conflict with one's obligation to the Emperor(p119)
<"孝行"は、天皇に対する責務に衝突するときに限り、効力を失った>


第四章 明治維新 でも述べられていたが、日本の政治家は、天皇を聖なる首長として実生活の俗世から隔離することに勤めた。


A man's fealty to him, chu, the supreme virtue, must become an ecstatic contemplation of a fantasied Good Father untainted by contacts with the world.(p125)
<国民の天皇への忠誠、忠すなわち最高の徳 は、俗世によって汚れていない、想像された最善の父についての恍惚的な思慕とならなければならない>


この"忠"の歴史的な変遷に関して、彼女は次のように指摘する。


1)本来封建制度下の日本において、"忠"とは、世俗的な首長つまり将軍に対するものであった。
2)将軍は総司令官であり行政の長であり、また忠の対象であったにも拘らず、将軍に対する陰謀がしばしば計画された。
3)将軍への高位の忠誠は、封建領主に対する義務としばしば衝突し、高位の忠誠はより低位の忠誠にとって変わられた。


この歴史的事実を踏まえて、明治の元勲達が考えたことは以下のようなことだと思われる、


1)内乱が起きないように精神面における日本の統一が必要。
2)そのための仕組みとして、"忠"の対象を天皇に置き換える。
3)天皇には実質的な行政権を持たせず、象徴的な存在、神聖にして不可侵な存在とした。


実際に政策を行った場合だと、その利害関係によって、どうしても一部の国民から不満を買ってしまい、全ての国民から崇敬を得ることができない。実質的な行政を行わない象徴的な存在、自ら具体的な政策の決定を行わない存在であれば、誰からも恨みを買わない。(恨みも"買う"という経済活動を表す動詞を伴うのですね)
また、具体的なイメージを持たない象徴的な存在のほうが、


chu was due to the Emperor secluded in the shadowy background, a figure whose lineaments every person could draw for himself according to his own desires.(p126)
<目立たない背景へと隔絶された天皇つまり、各人が自分の思い通りにその姿を思い描ける人物にこそ忠はささげられるべき>


ということからも、日本の精神的統一という意味において効果的だったのだと思う。


しかし、確かに仕組みとしての理屈は分かるのだが、実際の行政において、税務士も警官も、軍隊の上官も、彼らが行う命令は、天皇から発せられたものなのである(He spoke for the Emperor)。

だとしたら、その命令の結果何らかの不利益を受けた場合、いくら象徴的な存在とはいえ、その不満は天皇へ向かうと思うのだが、原則そうならないところが非常に不思議である・・・


また天皇への忠を強化するために、天皇は天照大神(the Sun Goddess)の子孫であると言う民間伝承も役には立ったが、それは西洋人が思うほど重要なものではなかった、と言う。なぜなら、


The Japanese do not fix a great gulf between human and divine as Ocidentals do, and any Japanese becomes kami after death.(p127)
<日本人は、西洋人程には人間と神との間に大きな隔たりを置かなかった、そしてどんな日本人も死ぬと神になった>


人が死ぬと神になる、というのはあまり聞きませんね、秀吉の豊国大明神や家康の東照大権現とかは思いつきますが。神ではなく仏の誤りでしょうか。

いづれにしても、日本では死ななくても生きたまま神になれるので人間と神の距離が近いことは間違いないと思う。経営の神様、野球の神様、お客様とか。


皇位継承ルールについて、本論とはあまり関係ないですが国際ルールへの日本の対応のまずさから、日本の常識は世界の非常識といわれている昨今、ちょっとうれしかったので以下紹介、


It is idle for Westerners to complain that this continuity was a hoax because the rules of succession did not conform to those of the royal families of England or of Cermany. The rules were Japan's rules and according to her rules the succession had been unbroken 'from ages eternal'.(p127)
<皇位継承ルールが英独のルールと違うからその連続性はまやかしだ、などと文句をいっても意味がない。ルールとは日本のルールなのだ。そしてそのルールに基づけば、いにしえの昔から皇位の継承は絶えることなく続いてきたのだ。>


ここまで言い切ってくれると、気分爽快です。


彼女の文化に対する態度は、中立的で相対的である。例えば、日本人とアメリカ人の法律(law)に対する態度の違いについて、以下のように説明する。
日本人にとって法律に従うことは、天皇から受けた恩(ko-on)を返すことである。一方アメリカ人にとって基本的に法律とは、個人の自由に干渉するものなのである。
だから、日本人から見ればアメリカ人は法律を遵守しない無法な国民であり、アメリカ人から見れば日本人は民主主義を知らない服従的な国民に見える。


It would be truer to say that the citizens' self-respects, in the two countries, is tied up with different attitudes(p130)
<国民の自尊心は、それぞれ別の態度に結び付けられている、と言ったほうが真実に近い>


アメリカ人は自分のことは自分でするということに、日本人は受けた恩は必ず返すということに、それぞれ自尊心の基礎を置いているのである。どちらも自尊心を持ち続けるために、自分達自身の行動パターンに従っているのである。

そしてこの独自の行動パターンの内、最も効力の大きいものが、"忠"であった。


When Japan capitulated on August 14,1945, the world had an alomost unbelievable demonstration of its working.(p130)
<1945年8月14日 日本が降伏したとき、世界は 忠 のほとんど信じられないような効果を目の当たりにした>


日本を知る多くの西洋人は、これまでの経験から日本が降伏するとは思ってもいなかった。彼らにとって日本人とは好戦的な国民であった。しかし、


The Emperor spoke and the war ceased.(p131)
<天皇が話しかけ、戦争は終わった>


Even in defeat the highest law was still chu.(p132)
<敗戦においてさえ、もっとも崇高な法は、依然として 忠 であった>

ブランドは作り出すものである。

しかも戦略的に計画的に・・・、それが経営を支えるものになる。



D・A・アーカーは、「ブランドは企業の見えない資産」と言い、ブランド・エクイティといった言葉でそれを表現している。そして彼は「認知度」「イメージ」「ブランドロイヤルティ」「知覚品質」の4つを維持・強化するためのブランド戦略が大切であると提唱している。



今やブランドは消費者を獲得するもっとも重要なツールである。



「ディドロ効果」を生むのである。(本書187~189ページ)



本書ではグリコのポッキ-や日清食品のカップヌードルが事例として出ている。普段目にする商品に隠された戦略ぜひ本書を読んでみてください。コンパクトながら非常におもしろい1冊です。


秋の夕べに・・・この本を読み、経営、マーケティングを考えてみませんか.。



石井淳蔵「ブランド 価値の創造」 岩波新書 700円



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