8.Clearing One's Name(第八章 汚名をすすぐ) のつづき
名前に対する義理(Giri to one's name)について、続けます。
名誉、名声、家名、名折れ、汚名、名人、名犬、名曲、名月、名残、名もない人々 等など
名を使った言葉は数多いですが、やはり義理とは関係ないと思うのだが・・・と未だ疑問は引きずったままですが。
Giri to one's nameは借金を返せない人々を自殺にまで追い込む。また、Giri to one's name は、日本人が他者との競争に追い込まれたとき、100%の実力を発揮できなくさせる。
日本人は競争に負けたとき、それを恥(shame)と感じる。それは Giri to one's name の故である。日本人は競争的な状況に置かれると、自分が負けたときのことを想像してしまう。
The loser 'wears a shame' for such failures.(p153)
少し長いですが、アメリカ人と日本人の違いについて、非常に興味深いので以下引用、
Psychological tests show that competition stimulates us to our best work.Performance goes up under this stimulus;when we are given something to do all by ourselves we fall short of the record we make when there are competitors present.(p153)
アメリカ人は競争相手が居るときのほうが、高い成果を出すことができる。
In Japan, however, their tests show just the opposite.It is especially marked after childhood is ended, for Japanese children are more playful about competition and not so worried about it.With young men and adults, however, performance deteriorated with competition.(p153)
一方、日本人はその反対である。
日本人にはあがり症の人が多いと聞きます。僕もそうだし(泣)。確かに子供のころはそうでも無かったように思いますが(^^;
Subjects who had made good progress, reduced their mistakes and gained speed when they were working by themselves, began to make mistakes and were far slower when a competitor was introduced.(p153)
雑念を振り払い、今自分が行っている作業に集中しているとき、日本人は高いパフォーマンスを達成する。
少し、話がそれますが、日本人には性格的に競争はむいていないから、競争的な自由主義経済は日本社会には適しない、というような話を以前何処かで聞いたことがあります。そうでしょうか?
彼女も正しく指摘しているように、確かに僕らは(もちろんそうじゃない日本人もたくさんいますが)、競争相手を意識すると、自分が負けたときの恐怖をありありと感じて萎縮してしまい、自己ベストなパフォーマンスを達成できなくなることは事実だと思う。
しかし、そんな日本人だからこそ、自由主義経済下での競争は、非常に僕らに適しているのだと思う。なぜなら、市場では、競争相手を直接目の前にして経済的競争を行うわけではないからだ。市場の中で、僕らは競争相手を心理的にありありと意識することなく、自分自身の作業に集中することができる。
自分自身に没入し、やるべき仕事を通して競争に参加することが可能なのである。だから、自由主義的市場経済は競争に不向きな日本人の性格に大変好都合なシステムではないだろうか。
話を戻して、
競争とそれに付随する負けることへの恐怖は、夜這いや、お見合いのシステムとも深く関連している。
夜這いの際、女性を訪れる若者は手ぬぐいで顔を隠す。女性が拒絶したとき恥をかかなくて済むようにである。もちろん、
The disguise is not to prevent the girl from recognizing him (p157)
<このような変装をしても、彼女は彼が誰であるかをしっかり認識している>
この繊細かつお芝居のような約束事、すばらしいですね。黒装束の人形使いが、人形の背後で人形を操る。その姿は観客から丸見えですが、黒尽くめの姿になることによりそこに存在していない、観客からは見えていないというお約束事と同じパターンなのでしょうね。日本の歴史にしばしば登場する権力の二重構造も。
日本人は、非常に記号的というか、抽象的世界とは異なる、象徴の世界に生きている、もしくは、生きることが凄く得意な人種ではないだろうか、と思います。
旅先でハメを外す、旅の恥は掻き捨てというのも、こういうお約束事の延長線上にあるのでしょうね。この場合は、自分の姿を見る人と自分とを遠く隔てている距離が、自分の姿を隠す手ぬぐいや黒装束の役割を果しているのだと思います。旅先での自分の周りに存在する人間は、人間とは別の記号になっているのでしょう。僕らは医者の前では、比較的恥ずかしさを感じずに、服を脱ぐことができる。また公衆浴場では人前で裸になることができる、ということも、このあたりの精神構造と関連しているのかもしれません。
話がまたそれてしまいましたが、要するに、
In all such ways, and in many more, the Japanese avoid occasions in which failure might be shameful.(p157)
<このような方法で、また、さらに込み入った方法で、日本人は失敗することが恥になるような状況を、極力避けようとする>
ということです。かなり納得できます。
この点は太平洋諸島の多くの部族と著しい対照を成しているという。ニューギニアやマレーシアのある部族では、在る村が他の村の人々を誹謗中傷することが、お祭りを開始する合図となる。"あいつらは貧しいから10人のお客をもてなすことができない"、"やつらはケチだから食べ物を隠している"、等など。
しかし、誹謗中傷の取り扱いが正負逆転しているとしても、誹謗中傷が動機付けの中心的な役割を果しているという点では、両者の文化的な繋がり、種的親近性を感じます。彼らと僕らは、写真のポジとネガの関係にあるのかもしれません。
いづれにしても、日本人は自分の名が汚されたとき、そのことが名誉回復の行動への大きな刺激になることもあれば、自殺という手段に至ることもある。しかし何よりもそのような状況、つまり汚名をすすがねばならないような事態に追い込まれる状況=situations which might call in question one's giri to one's name(p156) を避けることが日本人にとっては一番重要なのである。日本人の礼儀正しさは、汚名を濯がねばならない状況を避けるための戦術なのである。
そして、名前に対する義理は、戦後の日本人の行動にも影響を与えた、
many Westerners'forecasts of how Japan would behave after defeat in this war were wide of the mark because they did not recognize the special japanese limitations upon giri to one's name.(p159)
<敗戦後の日本人の振舞いについての多くの西洋人の予測(=日本人は頑強な抵抗を行うだろう)は外れた。何故なら 日本人が持つ名前に対する義理、に基づく特殊な制約を彼らは認識していなかったからである>
なぜこのように日本人は失敗を恐れるのか。彼女は以下のように指摘している、
In all such giri usages there is extreme identification of a man with his work and any criticism of one's acts or one's competence becomes automatically a criticism of one's self.(p152)
<このような義理の慣習には、人と仕事との極端な同一化が見られる。それ故、その人の行動や能力に対する批評が、そのまま、その人自身への批評になってしまうのである>
この指摘も実によく分かります。当たり前すぎて、他文化圏の人たちも当然そうだと思ってたけど、実はそうではなかった。彼らにとっては、自分の仕事と自分とは同じではない、別々なのですね。新鮮な指摘でした。こういう点が、外国人から見ると、日本人は自我を確立できていない=子供、というように見えるのかもしれない。
The vulnerability of the Japanese to failures and slurs and rejections makes it all too easy for them to harry themselves instead of others.(p164)
<失敗、中傷、拒絶に対する日本人の精神的な弱さは、しばしば、他人ではなく自分を苦しめ、攻撃することになる>
ひどい言い方をすれば(自虐)、欲しいものを買ってもらえないとき、ダダをこねて泣いている子供の姿である。このような傾向はDNAとして僕らの中に脈々と受け継がれているように感じます。
こんなことでこれからの国際競争を生き抜けるのか、日本人!
今回は、少しさびしい気持ちの中、次回へ続きます・・・