作ると聞けば、まず最初に何を思い描くだろう。そりゃもうたくさん浮かんでくる。今日の午後、友人と珍しく校舎で居残り作業をしていた。難しい顔をしながら粘土の前で顔を歪めた友人がしきりにため息をつく。私はその姿を後目に、土器色の大きな塊をいざナスへ変貌させんと意気揚々作業に取り掛かろうとした。まずじっくり対象を観察する。私が持ってきた見本用のナスは、普通のナスとは違ってやけに細長く色艶も良くない。冷蔵庫の奥で忘れ去られていたものを無理やり引っ張り出してきたから、古くなっているし、表面のかさぶたが目立っていた。うーん、これは美味しそうじゃないなあ。先生は瑞々しさをだせるようにと私に念を押したけど、そもそも粘土で瑞々しさを表現するのはちょっと無理なんじゃないかな。立体が苦手な私の頭に、浮かんでは消える言い訳の数々。隣の友人も、もうだめだ、と半ば諦め口調で文句を言いながら作業を続けている。この子はほんとに面白い。いつも課題の居残りをするのは、大体が私とこの友人で、だから必然的に仲良くなっていった。友人曰く、自分は要領もない、才能もない、センスもない。私は、この器用貧乏な友人が可愛くて仕方がなかった。要領が悪いというのは、私みたいな人間のことを言うのだ。友人はなんでもできる。だけど、自分にどうしても自信がもてないせいで、いつも卑屈になっている。私はこの友人のセンスも才能も、惜しむことなく努力できる根気強い性格もとても素晴らしいと、心から伝えるのだけど、一向に信じてくれない。一体誰がこの子をこんな風にさせてしまったのだろう。甚だ不満。作りあげられてきた友人の土台はとても脆い。それはたぶん周りの環境のせいなのだ。自己肯定力は、確かに弛まぬ努力も必要だけれど、その努力を褒めてあげる他人が必要で、一番重要な存在なのだ。創作が楽しくなくなる瞬間を知っている。それは、誰かから褒められたい欲求が、自分の創作熱意を超えてしまった時だ。比べる対象が出来れば、自ずと他人と自分を比較して、努力にも邪な感情が入る。好きな気持ちは嘘ではないけれど、それが汚い欲求とごちゃ混ぜになって、私たちの首をきつく締めてしまう。芸術って難しい。謙虚さと、ひたむきで揺るがない精神。私はこれが、画力なんかよりもよっぽどほしかったりする。高潔な精神に憧れては、自分の貧しい心と比較して泣きたくなってしまう。敵は己で、人と比べても意味は無い。だってそれぞれ感性がちがうのだし。頭でわかっていても妥協できないのが現実 。私たちはそんな、見えない悪夢と向き合う時期なんだろう。私は粘土まみれの手で、文句を並べる友人の同じように泥だらけの手を、静かに握りこんでみせる。そうして二人でわけなくゲラゲラ笑って、苦しいけれど、やっぱりこの瞬間が楽しい。今日の作業はここまでだって、また明日立ち向かおうね。
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