怖れから発言すると怖れを伝播させるだけだと気づいた。僕はよく怖れから原則を扱ってきた。それはもはや原則ではないなと今思える。

愛でしか愛に導くことは無い。怒りに任せて相手を本当に良い道に導くことはできない。今まで否定や怒りによって自分の思い通りの方向に変えようとしてきたが、本当はそうではなく愛によってしか原則は伝わらないのではないかと思う、本当に良い道には導けないということ。心はバレバレ愛によって本当に相手の幸福を望んだなら相手に必ず伝わるだろう、逆に怖れによって相手を変えようとしても…そのまま伝わってるってことかw

愛によって愛に導かなければそれは何なのだ?それは怖れによって怖れに導いている以外の何者でもない。僕はいつもそうしてきた。怒りによって人を動かそうとしてきた。そのままではダメだと思った。人から発言され、断定的だった自分に気づいた。原則だろ?だから間違ってない!と突っ張ることもできたが、ふと思った。なんで原則なのに人を否定してるのだろう?なぜこんな風になっちゃうのだろう?と。

それは自分が決めつけた造り上げた原則だった。本当の原則ではなく造った原則だ。現状の制度がオカシイ、と否定してた。そうではない、ありのままのいい面を生かしつつより良い方に改善すれば良いのじゃないか。何も否定する必要なんて無かったのだ。否定の全ては怖れからきているのだ。それが原則だ。それは理屈では分かってたがようやく体験できた。否定や怒りから原則を扱うのをやめたいと思う。すぐには変わらなくても意識していきたい。