a frog in November

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11月のかえる

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この間,小さな恋の43集読んで,現在,暇つぶしというか,結末が思い出せないので,逢坂みえこの永遠の野原を中古で勝手読み進めている.

若い頃は気にならなかったのだが,主人公をはじめとして,カップルとされるペアは実に良く相手の心を拾おうと努力している.まるで,それが恋愛の本質であるかのようだ.
何というか,ちょっと息苦しい.
思いやりでもいいのだが,こんなに気疲れするものだったのだろうか?

そう感じてしまうのは単に自分が歳を取りそういったやり取りに疲れを感じるようになったのかも知れないし,若い頃よりはそういう機微に少しは敏感になったのかも知れない.

読んでて思うのは,大変だな,でも,がんばれや,と言った老爺心のみである.
日本シリーズの2戦が終わった.
CSからなんとなく結果だけは気にしているが,調子のよい阪神の藤浪があまり投げない.
何か理由があるのかな?

クドカンのごめんね青春は観ているのか観ていないのかあいまいだが,波留が初回以降出て来ない.
まあ,ショートにすると意外に似ている満島さんが出てるからいいんだけど.

これらに限らず,10月以降のTV番組は,なんとなくピントが合わない.
花子とアン燃え尽き症候群だろうか?
昨日始まった,すべてがFになる,について,主役を演じる武井咲は,原作の西之園萌絵は読み手にまかされているから,自分なりに色を付けたい,と言っていた.
確かに,私の中にあった萌絵は,やせ形で,手足が長く,少しピントがずれていながらも理系的にファッショナブルなイメージがあったが,改めて,すべてがFになる,を読み返しても,特にそんな描写はない.准教授(原作では助教授)の犀川にしても,若干背が高めで,どちらかというと無口感じだが,綾瀬剛が演じる姿と決定的な差が描かれているわけではない.ヘビースモーカーとコーヒー好きいう設定は維持されているが.

すべてがFになる,のシリーズでは,新書(その後の文庫)の装丁が白もしくはモノクロに統一されており,また,情実とは無関係に事件が無機的に解決されていくため,読み手の想像を束縛しないというか,逆に読み手にある方法性を持たせるかの効果があったのかも知れない.

最初原作が出版された頃はずいぶんと変わったノベルズにも思えたが,東野さんのガリレオだけでなく,ケイゾクからスペックに至るまでの堤ドラマ,さらには情実の色の薄いラノベなどが登場し,世の中がこういったものを映像化するのに抵抗はなくなりつつあるのか.

まあ,それでも,如何に映像かするかという楽しみはあるし,名古屋から神奈川に舞台を移したことで全国的に在京の視聴者に受け入れやすく部分はあるか.村上春樹の,色彩のない...と違って,原作者の森博嗣さんも愛知県出身だし,なんとなく名古屋内部の人が書いた,ムラの小説(失礼!)って感はあったしな.

それでも,東京ではなく,舞台を神奈川に移したのは,まあ,正解だろうな.