5月に退院してグループホームに身を寄せて半年が過ぎました。やっと自由になって本当に嬉しくて、ワンコみたいにシッポをブルンブルン振っていたかも。人の優しさがありがたく何度も泣いた。手作りのお料理が嬉しくて残さずいただいた。
訪問看護は何回か受けだけど、だんだんと私に慣れて心を許した彼女は、他の患者さんのグチを口にするようになった。薬のせいで失明した患者の入浴介助が大変。薬の副作用で流すよだれを踏みたくない、寂しいからって朝早くに電話してくるな。私は笑って聞いていたけどそのうち我慢の限界にきた。別の訪看さんが来てくれたとき、聞くに耐えない、悲しくなるからもう来ないでほしいと言い、訪看は断った。
でも、程度は全然違うんだけど、同じようなことが身近でもあることに最近、気がついた。聖職とはいっても所詮は人間だから、少しの毒は吐かないとやれない仕事なのだと思った。でも、私はあまり聞きたくないな。いい人だと思うとバカみたいに信じて期待しすぎる私が全部悪いんだけど、決してその人たちが悪いんではなくて、ずっと性善説で生きてきて相手に愛情を求めすぎる私がいけないんだけど、やっぱりどっかで傷ついていたのかな。ずっと笑って聞いていた自分も軽蔑するけど、本当に些細なことなんだけど、聞きなくなくなった。私もなんか迷惑をかけていたり、負担になることをしていたりしたら、悪気はなくても何か言われているのかな? とか、懐疑的になる自分も嫌いだ。決して私は善人ではないし、とやかく言う権利なんてないんだけど。ごめん、私がおかしいんだよ。繊細すぎる。そうやって考えてしまうと生きていくのがどんどん辛くなって、死んでしまった方が楽に思えてくる。いけないね。やっと自由になって思いきり自分らしく生きようと戦ってきたのに。でも、いま、離脱症状とも戦っているから、精神的にこういった負担が襲いかかると辛くなって逃げたくなる。私には家族はいない。家族のように思うと楽しくなったけど、相手にとっては負担以外の何物でもないよね。めんどくさい人間だな、私は。
そういえばずっと前、OL時代。上司に「君をみていると、映画「赤い風船」の少年と重なる」。と、真顔で言われたことがある。映画館で初めて観たその映画は無声映画で、観る人がそれぞれに感じとるタイプの映画だった。で、内容は、孤独な少年のもとにある日、赤い風船がふわりと近づいてきて、学校にいくのもずっと一緒。そばを離れない。そのうち、同級生たちが赤い風船を取り合って風船が奪われそうになるんだけど、そしたらいっぱい風船が現れて、少年はたくさんの風船とともに空へと消えていくというもの。一緒に映画を観ていた友達は、「会社の上司の人、鋭いですね」といっていました。似てるのかな? 分からないけど。
自分が勝手に傷ついたり悲しくなったり、全部、相手が悪いというより私が変なんだけど、生きていくのがつらくなるから、もう割り切って孤独を選んだ方が楽になるかな。自然とピアノと少しの友達がいればそれでいいかな。あると思うと無くしたときに悲しくなるから、ないと思ってあるものだけで生きていく方が楽かも。あまり望まない方がいいね。でも、人懐っこい私はどっかで距離はとりつつ、笑ってみんなと過ごすとは思うけど。絶対に傷つきたくない心の場所は守っていたいと思った。そうじゃないと、私、どっかで絶望して死ぬか狂う。
こんな風に考えてしまうのも、今日はジストニアがさらにひどくなっているからなのかもしれない。決してみんなが悪いわけではない。訪看さんも、悪気があって言ったわけではないと今では思う。少しの愚痴やそういったたぐいのことを思ったり言ったりしないと、人の世話をしたりする仕事は大変すぎてできないんだよ。聖職についたこともない私が善人ぶって人を批判したり遠ざけたりするなんて、勝手すぎるよね。ごめんなさい。私がバカです。幼いんです。心から謝ります。