某Y新聞の1面に「編集手帳」という欄がある。
今日の記事は荒川静香選手の演技中の間合いの取り方に始まり、「時(とき)」という言葉の語源、そして、我が子の生命を理不尽に奪われた親御さんの、止まってしまった「時」に話が移って行く。

「きょうは『時の記念日』、胸の時計が動いていることの幸せをかみしめる日でもあろう。」と結ばれている、そこまで読んで、ようやく「ああ、今日は『時の記念日』か…」と気が付く有り様(苦笑)。

我が身を振り返ってみると…
昨年の春、慢性腎炎であることがわかり、かなり悩んだし泣きもした。
それでも今、こうやってそれなりに楽しく暮らせている。

そりゃ、時々は「なんでこんな事になっちゃったかな~」って思う事もあるけれど。
でも、「我が身にふりかかった運命を呪う」ほどでもないし。
いつの間にか、病気の事を受け入れている自分がそこにいる。


慢性腎炎を友達と思い、一生付き合って行こうと思っている。
たとえ、気難しくて、手がかかって、付き合いづらい「友達」ではあっても、だ。
いや、相手は私の事を「友達」とは思ってないかもしれないけど(笑)。

そんな事をツラツラと考えてみて、改めて、胸の時計が動いていることの幸せを感じる。

だけど、ちょっと待てよ…。
流れ去って行く「時」は時に最良の友であったり、最高の薬であったりするけれど。でも、去って行った「時」は二度と戻っては来ない、当たり前だけど。


そして、無限に思える「時」にも実は限りがある。何故なら他ならぬ自分の生命に限りがあるのだから。
だとすると、何するともなく無為に過ごす時間の、なんともったいないことか…。
などと偉そうな事を考えながら、昨日に続き今日もの~んびり過ごす私。矛盾してるかなぁ~。