文を書くにあたって、中学校の情報の授業が最初に思い起こされた。
段落やら、見出しやらの、読む側に配慮するための技術を今こそ活用しなければ「ならない」と無意識に思ったからだろう。
そも、文章を書くどころか、お話や考えをまとめるのも出来ないので、そんな気遣いをしている余裕などない。
自分が思ったこと、感じたことを素直に書く。
ただそれだけのためであるはずだが、他人によく見られたいというか、ちゃんとしたものを作らなければ「ならない」と無意識で思ってしまうのである。
「ならない」を意識できたのであれば、気負いを排除して、精神を「自分はすごい人間でなくてもよい」、「やるからにはしっかりやるべき」などといった、自縄自縛から解放したい。
文を書くにあたっての読みやすさ、快適さはなるべく気にせず書き綴る。
自分以外のADHDなり、鬱なりの人がどう考え、感じているかはわからないが、とりあえず自分については素直に書いていこうと思う。
とりあえず言いたいことがあるとすれば、僕の世界には自分しかいないことが発覚した時の話かもしれない。
自己中な人は嫌われる。
他人を思いやれない人間性は良くないですよ、という学び。
それは自分もわかっていた、というか他の人よりもわかっているつもりまであったのだが、実際は学んだどころか自分自身が一番の自己中心的な人間だと自覚するのは、鬱がだいぶ落ち着いてきた後の話である。
思えば過去に事実はいくらでもあったのだが、発覚したのは食事にまつわる話だったと思う。
僕は精神、舌ともに子供のままなので、好きな食べ物はハンバーグとかホットケーキみたいな、子供が好きな物で想像するものはだいたい上位に入る。
ハンバーグは油を感じづらく、お米に合う。ホットケーキは甘さと歯ごたえのバランスがちょうどいいのだと思う。
そんな好きな食べ物なわけで、母が作ってくれた折には、一瞬で食べ終わってしまうわけである。
目の前の皿に乗っている全部を食べてしまったわけなのだ。
一人用にしては多いな?とかの違和感は一切ない。何なら今でもないときのほうが多い。
何が言いたいかというと、家族の分まで全部食べてしまったわけである。
当然母になぜそうなってしまうのかと問われることになる。
僕の答えは、全部自分食べていいのだと思ったからである。
より正確に言えば、全部自分用だと思った、のほうが近いと思う。
母からすれば、これだけの量があれば、家族みんなの分かな?とか、そもそも家族で住んでいるのに皆の分とか思いつかないのかな?とか疑問が浮かぶのも当然である。
そこの話し合いを経た結果、僕は自分を謙虚な人間と思っていたが、その実正反対の超自己中心的な人間であると判明した。
僕の無意識の世界には他人という概念がおそらく無い。
理性で考えるときは、Aさんはこうした、Bさんがどうしたとかの情報は整理できる。
無意識的な判断をするときは、だいたい自分の視点しか持てていない、衝動的な行動が目立つ。
他人の概念が無いからか、自分しか認識できないからか、自己愛がとても強い人間であるとも認識した。
本当の意味での、思いやり、配慮、心配、愛情などは他人に向けたことが恐らくない。自分には向けまくってる。
そんな自分が小さい頃は、「優しい子だね」と言われていたのだから、ちょっとした付き合い程度ではわからないものなのだなと自分で思った。