556「貧しいものを依怙贔屓すべきか?」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。なお、聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

先日、関西合同聖書集会の学習会がありました。難民救済活動、シナピスの活動をされている松浦さんの講話がありました。その後、出エジプト記23章の講話が津崎さんからありました。昼食後、講話の感想会が開かれました。
その際に、出エジプト記23章3節に関して、日本語訳に大きな違いがあることに触れました。23章の最初の部分は、法廷、裁判、判事のあり方についての律法が書かれています。
3節に関して言えば、訴訟当事者の経済状態(貧しい者)に判決を影響されるな、つまり配慮するな・・・という訳と、貧しい者の訴訟には彼らに配慮せよとの訳に分かれているのです。

手元にある、各種の日本語訳を見ていくことにします。
ヘブライ語訳が確定したのが紀元100年頃、七十人訳ギリシャ語聖書が確定したのが紀元前200年から300年の間とされていますから、私は、いわゆる旧約聖書は七十人訳を基にして考えるべきだと考えています。

七十人訳ギリシャ語聖書(秦訳)では、
*おまえは、裁判で貧しい者を憐れんではならない。
注に、ヘブライ語訳では、「裁判」は「訴訟」、「弱い者に依怙贔屓してはならない」
とあります。つまり、配慮するなと言うわけです。
協会共同訳では、
*また、訴訟において、ことさらに弱い者をかばってはならない。
ことさらでなければ、弱い者をかばってもよい、ということになります。
新改訳2017では、
*また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。
何を言っているのかよく分からない訳ですね。特にでなければ重んじても良いという意味になりますね。
バルバロ訳(講談社)
*また、訴訟中の貧しい人の側に立って、正義を曲げて彼をかばってはならぬ。
分かりやすい訳ですね。配慮するなということですね。
世界の名著、聖書、旧約は中沢訳
*また訴訟において大きな者をひいきしてはならぬ。
大きな者とは、だれのことだ?普通に読めば、金持ち、有力者を贔屓するなという意味になりますね。全然意味が違いますね。
フランシスコ会訳
*また訴訟において依怙贔屓して弱い人の肩をもってはならない。
配慮するなということですね。
口語訳
*また貧しい人をその訴訟において、曲げてかばってはならない。
何を曲げるのかがよく分かりませんね。曲げなければかばってよいのか、という意味にもなりますね。
現代語訳(尾山訳、1983年)
*また貧しい人を、その訴訟において、真実を曲げてかばってはならない。
創造主訳聖書(尾山訳、2013年)
*また貧しい人を、その訴訟の時、真実を曲げてかばってはならない。
同じ尾山訳でも、30年経つと、「おいて」から「時」に変わっている。そんなに大きな変化はなく、配慮するな、真実が大切だというわけですね。
新世界訳(2013年英語版からの翻訳)
*貧しい人が関わる争いで、公平でなければならない。
配慮するなという意味ですね。

ゆるゆるその2
どうして、このような違いが出てくるのかといえば、訳者の思想、主義、主張に違いがあるからです。神は、この場合は旧約の神、ユダヤ教の神のことですが、キリスト教からいえば、父なる神ですから、貧しい人の味方であるべきだ、そうあるべきだ、よって裁判においても、貧しい人に対しては温情をかけるべきだ、依怙贔屓もされるべきだというようなバイアスがかかるのです。
貧しい者を憐れむべきか、そりゃあ、憐れむべきだ。貧しい者をかばうべきか、そりゃあ、かばうべきだ。弱い人の肩を持つべきか、そりゃあ、肩を持つべきだ。
というような考え方をもとにして、日本語訳を行うと、貧しい人に対しては、当然配慮があるべきだという思想、主義、主張が盛り込まれた日本語訳になってしまうのです。
私は、旧約の神は厳しさに満ちた神であり、新約の神は慈しみに満ちた神であると考えています。