さて、私事になり恐縮ですが、2013年は私にとりまして非常に大きな人生の転機を迎えた1年でありました。

 

鉱山関係の鉱石処理技術移転の専門家としてJICAから派遣されてメキシコに赴任したのが1980年9月16日でした。メキシコではスペインからの独立記念日が午前中に盛大に祝われた数時間後の夕方に、JALの直行便で夕方にメキシコ市国際空港に降り立ったのが、34年目になる私のODA人生の始まりでした。

 

当時のパスポートが見当たりませんが、その年の8月20に取得した国際免許証の写真の部分を、恥を忍んでご紹介いたします。31歳と1ヵ月半、体重は55kgにはなっていなかったと思います。

 

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そしてこの年賀状(年頭所感)を書き始めていたところ、新年になって、私が1984年12月まで勤めていた鉱山会社の友人から次の写真が送られてきました。

 

いまから30年前に彼(左から二人目)が、私がまだJICAの専門家として派遣されていたメキシコ連邦政府の鉱山エネルギー省鉱業振興庁(CFM:Comisión de Fomento Minero)に日本の通産省の外郭団体の金属鉱業事業団の技術指導コンサルタントとして派遣されてきたときの写真です。一緒に写っているはお二人会社の大先輩(一人はもうお亡くなりになっておられます)。

 

この時期に私は、日本の一部上場企業の年収600万円か700万円の年収を捨てて、年収が60万円前後のメキシコ連邦政府職員になったのです。

 

若気の至りとはいえ、「ずいぶん無謀な決断をしたものだ!」と、いまさらながら感心しております。

 

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当時は今のかあちゃんと知り合う前でガリガリに痩せておりました。

 

それからもう30年、体重はやっと70kgを切ることに成功しましたが、一時期は肥満気味で苦労しました。そして今年の3月にJICAと慶應義塾大学山本純一研究室が実施していた草の根技術協力事業『メキシコ国チアパス州先住民関連3団体に対するコーヒーの加工・焙煎およびコーヒーショップの開店・経営に関する技術協力事業』の現地コーディネーターを1年間勤めさせていただいたのを最後に、ODA人生をめでたく(?)卒業いたしました。

 

思えばJICA専門家時代の4年と3ヶ月(1980年9月から1984年12月)とメキシコ政府職員の約7年間(1985年4月から1992年2月)の合計12年間近くのサラリーマン時代、そしてその後は、日本のNPO法人の雇われマネージャーと先のコーヒープロジェクトの現地コーディネーターをしていた約4年間(2005年5月から2008年3月と2012年4月から1年間)は給料をもらっていましたが、20年間以上に及ぶフリーターとして、メキシコで日本のODAのお手伝いをさせていただいたことになります。

 

今年の4月以降も、ODAにかかわるチャンスはありましたが、私と同じ年代でサラリーマン人生を全うされた方たちの半分ぐらいですが、厚生年金の老齢給付金を頂いておりましたので、これを生活の支えと『ポケットマネーで出来る国際協力』の原資として、今まで片手間にやってきたチアパス高地の先住民族が生産する織物と有機コーヒーを販売するBOPビジネスの真似事に専念しよう、つまりこれをライフワークとして専念して取り組もうという決意をいたしました。そして以下の衝撃的(笑)な写真をフェースブックの記事にいたしました。

 

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このライフワークは、ODA関係者のご家族がチアパス高地に来られたときの観光案内人として接触したあるご家族のお勧めで、多分、2011年の春頃だったと思いますが、ポランコのその方のお宅を会場として15人程度の在留邦人の奥様方を対照とした販売会を始めたのがきっかけでした。それが今では、メキシコ市内では大きなグループが2つ、アグアスカリエンテス市に1グループ、そしてバヒオ地域では、ケレタロ市、セラヤ市、イラプアト市(サラマンカ市からもお声がかかっております)とレオン市にそれぞれ奥様方のグループを訪問できるようになっており、多分、250家族ぐらいのネットワークが出来上がっているという感触を得ています。

 

次にご披露する写真は、この11月に、メキシコ市のポランコ地区のあるご家族のお宅のパブリックスペースをお借りして行った展示販売会のお手伝いをしてくださった奥様方とご一緒に撮らせていただいたものです。右端から4人目のご夫人は、タイ国大使の奥様です。インドネシア大使館の奥様方も、大使夫人を初めとしてご来場いただいたこともあり、アジア諸国を中心にした国際化の兆しも見えます。

 

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さて、先に書きました、JICAと慶應義塾大学山本純一研究室の草の根技術協力事業は、私にとりましては、『遅れてきたコーヒーマニア』としてのコーヒー人生のスタートのきっかけとなりました。なにしろそれまでは、オーガニックコーヒーでしたが、インスタントコーヒーしか自分で淹れることが出来なかった人間が、今では次の写真のように、プロジェクトに関連したコーヒー生産者組合から、「メキシコ政府が派遣する日本の市場開拓のミッションの一員として東京に行って下さい。」と言われるようになったのです。

 

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そして、その組合がこの12月18日に、チアパス州の州都である人口50万人近いトゥクストゥラ・グティエレス市に開店したカフェテリアで、日本から買ってきたサイフォンと、ハンドドリップのペーパーフィルターホルダー(HarioV60とコーノ式に限りますが)を使ってコーヒーを淹れる模範演技を買って出ております。次の写真は、そのカフェテリアの取材に来た有力地方紙の美人の記者さんにコーヒーの淹れ方を説明する様子です。

 

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最後の写真は、州知事の従兄弟が開店した別のカフェテリアにも模範演技に出かけて、織物でも売れ筋のカフェエプロンを2枚買ってもらって、ふざけているところです。

 

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もちろん、コーヒー人生の1年半で、コーヒーのカップテストをしたり、バリスタとしてデビューするようになったのではありません。メキシコに住んでいる限りは、世界に名だたるコーヒー産地の豆を比較する機会に恵まれませんので、今まではマヤビニックのコーヒー豆だけでしたし、これからも、CESMACHのコーヒー豆も加えたごく限られた素材をひたすら味わって、それらの品質管理と、コーヒー消費の先進国である日本のコーヒー抽出に関する情報の提供に専念するということです。

 

幸いなことに私は社会に出てから20年近く、鉱石処理(Mineral Processing)の技術者として経験を重ねてきましたが、40年後の今になって始めて踏み込んだコーヒーの世界で出会ったコーヒー処理(Coffee Processing)の技術は、プロセス工学という観点からは、破砕・粉砕、洗浄、脱水・乾燥、分級、比重選別、光学的選別、焙焼(=焙煎)、抽出といった、まったく同じ単位操作が利用されていることに気が付きました。そしてCESMACHのカフェテリア開店を機に、『コーヒー抽出技術者』として、先ほど述べました日本のサイフォンとハンドドリップのペーパーフィルターホルダーでコーヒーを淹れる模範演技でデビューしたわけです。

 

長くなりましたが、2014年は、250人に拡大した行商のお客様へのサービス向上、そしてコーヒーラボの拡充に取り組んで行きたいと思います。

 

本当はここで締めくくってブログに投稿する予定で構成をしておりましたところ、アフリカはケニアのJICAの方のフェースブックの記事に、さだまさしさんの『風に立つライオン』という歌の動画が投稿されました。(http://www.youtube.com/watch?v=fu1jaGSI_mE)最近ノスタルジーモードにある私は「これはJOCVの元隊員の方の完璧の域まで完結した物語である!」と訳の分からない感激モードになって、以下のコメントを間違えて投稿された方の記事に書き込んだのです。(その後ちょっとした家庭内のトラブルがありましたが、自分のシェアした記事に移転する作業もする羽目になりました。詳しくは私のフェースブックの記事『ボップ爺さんの行商絵日記その10.特集号メリークリスマス¡¡¡Feliz Navidad!!!』をご覧ください:https://www.facebook.com/photo.php?fbid=720958391261832&set=a.717359338288404.1073741858.100000430323945&type=3&theater

 

以下にそれらのコメントを少し脚色して貼り付けます:

 

「日本やあなたを捨てた訳ではなく僕は『現在(いま)』を生きることに思い上がりたくないのです」

 

・・・・・

 

「僕はよどみない生命を生きたい」

 

・・・・・

 

「僕は風に向かって立つライオンでありたい」

 

これらのフレーズは良く分かるような気がしました。

 

1970年前後に、共産党の歌声運動で次の歌を大声で仲間たちと歌っていたのを思い出しました。

 

「若者たち」作詞:藤田敏雄、作曲:佐藤勝

 

君の行く道は はてしなく遠い

だのに なぜ

歯を食いしばり

君や行くのか そんなにしてまで

 

君のあの人は 今はもういない

だのに なぜ

何を探して

君は行くのか あてもないのに

 

君の行く道は 希望へとつづく

空にまた 陽が昇るとき

若者はまた 歩きはじめる

http://www.youtube.com/watch?v=CuSrnpY-kjc

 

この歌の動画を貼り付けましたが、色々バージョンがあり、左翼系なら、佐藤織江さんの出演していた映画の主題歌の部分の動画でも良かったのですが、何となく今の気分では、百恵ちゃん以下『花の中三トリオ』の動画をクリックしてしまいました。

 

おそらく2005年の1月5日だったと思いますが、このサンクリスに住み始めて、満9年となります。そして時々ですが、私の子供、あるいは早婚のメキシコでしたら、孫にもなろうかという年代の若者たちが訪ねて来てくれて、語り合い、そして旅を続けるために去っていきます。

 

あの時代でしたら、共産党や左翼運動が我々若者の『行く道』を示してくれていたのだなあと思っております。

 

しかし、『挫折』という言葉もはやりましたし、ソ連共産党という『親亀』がこけたら小亀たちも『皆』こけたのでしょうか。

 

いまどき朝鮮半島の金王朝や、中国共産党に魅力を感じて、付いていく若者に会うことはありません。しかし若者は、何かを求めて、何かを探して旅を続けています。

 

私のあの当時は、単に「親の束縛から逃れたかったのだ」と、今では思うようになりました。しかしこのメキシコの辺境の地に流れ着いて人生の終章を書き始めています。いや、描き始めましたといったほうが良いのかもしれません。


果たして、単なる思い出だけではなくて、このさだまさしさんの歌のように、完結させることが出来るのでしょうか。

 

以上がコメントですが、3年ぐらい前から、YouTube、フェースブック、そしてこのブログと、結構露出狂気味に自己主張を始めた自分を、ハラハラしながら自分で見守っていることに気が付きました。

 

ついこの間には、日本のテレビ番組に出演する可能性さえチラついていたのです。この話は沙汰止みになりそうですが、そのような状況の中ではっきりと、「メキシコの辺境の地に流れ着いた人生の終章を演出してやろう!」という意識が頭をもたげているのです。

 

この織物の行商を始めた頃は、「ポケットマネーで出来る国際協力をやるんだ!」と意気込んでおりました。しかし最近では、日本社会からドロップアウトしておきながら、幸運にも日本の公的年金を享受できる立場にあり、さらにその公的年金は日本の若い人たちにある程度の負担を強いるメカニズムで支払われることを考えますと、「年金生活者の生き方を真剣に考えなければならない。」と思い始めました。