名前だけは聞いたことあるかも、という人が多いかもしれません。
ロシア文学の長編小説「カラマーゾフの兄弟」
作者はドストエフスキーで、彼の代表作の一つです。
人によっては、これが一番の最高傑作であるとも言われます。
海外の文学小説は、日本語に訳すとややこしく伝わりにくいものも多く、特にドストエフスキーの作品は彼の独特な思想や感覚が描かれており、読みにくいと言われます。
(登場人物もかなりくせのある人ばかりです・・・)
私は2年ほど前に彼の著作「罪と罰」を読み、今まで感じたことのない感覚を味わいました。そこで超名作とうたわれる「カラマーゾフの兄弟」も読んでみてやろうというわけでした。
一度、同じロシア文学であるトルストイの「戦争と平和」に手を出してみたのですが、場面の切り替わりが多く読みにくと感じてあきらめてしまいました。
ただ訳者によって文章の雰囲気がかなり変わるそうで、自分に合った訳を見つけられると読みやすいかもしれません。
私は新潮文庫が好みで、ドストエフスキーの2作は新潮文庫で読み、トルストイは光文社でした。訳の好みが大きいのかもしれません。知らんけど。
新潮文庫の「カラマーゾフの兄弟」は上中下巻の3巻にまとまっており、面白いのはやはり後半で、上巻は淡々と読み進め、登場人物の把握に努めていました。
みんな個性的なので、はじめは言動が理解できません…
こんな調子だったのですが、下巻の裁判で弁護人のセリフにハッとさせられました。
「この事件には、何の先入観もなしにはじめてこの町に来た人間をおどろかす、一つのきわめて特徴的な点があります。それはすなわち、強盗の罪を責めながら、同時に、いったい何が盗まれたのかを実際に指摘することがまったく不可能な点であります。たしかに三千ルーブルの金が盗まれた、と言われながら、本当にその金が存在していたかどうか、だれも知らないのです。・・・」 (カラマーゾフの兄弟(下) 新潮文庫、第十二編「誤審」より引用)
ずっと読んでいると自分はもうその世界の人の感覚と同調しているんだ・・・と気づかされました。
これは、長男のドミートリイが持っていたお金がどこから得たものなのかという問題で、
・ ドミートリイは「自分は三千ルーブルを持っている!」と大金を握りしめていた
・ 父フョードルは部屋に三千ルーブルを隠し持っていた
この二つは村中の人から当然のこととして認知されていました。
しかし、ドミートリイは自分で三千ルーブルと言い張っていただけで後に半分の千五百ルーブルしか見つかっておらず、フョードルの三千ルーブルは召使のスメルジャコフしか実際に見ていない。なお、フョードルとスメルジャコフはすでに亡くなっている。
当然のこととなっているが、どちらも話に聞いていただけで事実であるか知る人は当事者以外いない。ここを弁護人は指摘したのです。
この裁判のシーンを、上中巻を読まずいきなり読んでいたら、弁護人のいう不自然な点に当然気がついたと思います。しかし上中巻を読んでいれば、もう気持ちはその村の人でしかない。
はじめは淡々と第三者として読んでおり、冷静に起こりうることを捉えていたはずなのに、いつの間にかカラマーゾフやその周りの人の言葉に翻弄されていたことに気づきました。
よく評価されるのは、ドストエフスキーの宗教観だったと思います。
「罪と罰」と読んだときは、神への信仰心でここまで苦しみここまで救われるのか、と感心しました。宗教に無頓着な日本人にはあまり縁のない感情ですから。
これは当時のロシアの状況で、科学が広まり神の存在が揺らいでいたようです。
熱心なロシア正教会教徒と無神論者、人々の意見は割れてかなり精神的に不安定な時代であったように感じます。
神に対する信仰と不信心、このはざまで苦しみ揺れ動く心が細かく描かれています。
私も宗教や哲学を好んで勉強していた時期はありましたが、今ではあまり興味がないというか、あの分野はゼロから学んでゼロに戻るというか、面白いけど前に進まないというか、ただの言葉遊びなのはわかっていたんですけど・・・
まあそれはさておき、
ドストエフスキーの作品は私の場合、感情移入がすごいんです。
焦りや妬みなど、自分の感じたことのないような激しい感情がありありと描かれており、自分のことのように伝わってきます。
感じたことが多すぎて、それを外に出しきれず自分の内側でぐるぐる回り続けているような。
いい作品を読んだときにはだいたい一週間くらい気持ちが引っ張られるのですが、しばらくこのもやもやした状態が続くのはちょっと嫌です。
もし興味をもっていただければ、「カラマーゾフの兄弟」ぜひ読んでみてください。
