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英語から翻訳したもんです。まだ日本語が下手ですので、何が間違いがあったら、ご指摘くださいね。



                ローマ皇帝:ホノリウス

                      若い頃

  フラウィウス・ホノリウスは384年、帝国東部に生まれた。皇帝テオドシウス1世とアエリア・フラウィア・フラクキラの末っ子である。子供の時、彼は「最も高貴な子」と呼ばられた、そして386年、執政官の称号をもらった。彼は五歳の時、父にローマへ召喚された、でも391年、父と一緒にコンスタンティンノープルに戻り、393年、そこに皇帝の称号を得た。394年、彼はミラノへ召喚された、その後395年テオドシウスが死去し、兄のアルカディウスと共に王位に坐し、アルカディウスが帝国の東半分を、ホノリウスが帝国の西半分を統治した。その年はローマ帝国が事実上の東西分裂の始まりとなった、各々部分は独自の皇帝の支配下になった、理論的には、帝国はまだ単一の統一性が残っていた。どちらの子も強力なアドバイザーの影響を受けて統治を行いました。最初、西部でこのような権力を持っていたのはヴァンダル人の将軍のスチリコ。ホノリウスは、彼の二人の娘と結婚した(398年マリアと、408年テルマンティアと)

                      治世 

  402年に西ゴード人がイタリアを侵入した後、ホノリウスと彼の宮廷はミラノからかなり擁護した都市・ラヴェンナへ撤退した。一方、宮廷の陰謀で、408年にスチリコが暗殺され、ホノリウスは一人でアラリック(西ゴート王国の王)と西ゴート人を直面しなければならない。この優柔不断な皇帝は、各々アドバイザーの影響を受けて、反抗するか譲歩するか動揺して、410年にローマ城の陥落を招いた。

  西ゴート人はホノリウス在位中の唯一の蛮族侵入者ではない。405年、蛮族の冒険者・ラダガイススが帝国のダニューブ属州に巨大な軍隊を集めた、そしてイタリアを侵略し、多くの都市は台無しにされた。406年10月に彼と彼の軍隊はスチリコに殲滅された。でもその年の年末、ブルグント人、アラン人、スエヴィ人とヴァンダル人の部落が凍ったライン川を渡り、南方へゆっくり前進した。409年に全ブルグント人がスペインを渡った。そして東北ガリアでは、フランク人が彼らの影響力を拡大していた。418年、西ゴート人に南西ガリアの大部を与える約束をした。このようにして、ローマ人はだんだん西部帝国を失った。

  ホノリウス在位中、ローマ帝国は色々な反乱と僭取に苦しめられた。397年、北アフリカに近衛兵隊長のギルドが反乱したが、398年に彼は弾圧された。ブリタンニアには、孤立された不満な兵士たちが連続的に反乱した(マルクス(406ー407)、グラティアヌス(407)と コンスタンティヌス3世(407ー410))。407年、コンスタンティヌスはブリタンニア海峡を渡ってガリアに到着し、順風満帆にアルルへ前進した。一方、409年に元老のプリスクス・アッタルスが皇帝の称号を僭称した。でも、ホノリウスとアラリックが短命の平和を達成した後、彼はすぐに退位させられた。同時に、コンスタンティヌスの将軍・ゲイロンテウスもスペインで反乱し、とあるマクシムスに皇帝のパープルマットをつけてあげた。そして410年にホノリウスは、彼の将軍の一人・ コンスタンティウスをガリアへ派遣し、コンスタンティヌスを制圧して監禁した。コンスタンティヌスが滅亡するが早いか、もうひとりの叛乱者・ヨウィアヌスがガリアに現れた。彼はやっと413年制圧された。そして、417年にそのパワフルな将軍・コンスタンティウスはホノリウスの妹のガラ・プラキデイアと結婚し、421年に共同皇帝の称号を得た。でも彼はその年の年末病気で死んだ。一方、420年、「暴君」と呼ばれたマクシムス(コンスタンティヌスと一緒に反乱したマクシムスと同じ人かも知れない)がスペインに権力を集めた。最終的に、彼は422年に制服された。

                      死去

その無能で気弱な皇帝ホノリウスは、一般的にあまり公務を参加しなかった。性格は受動的だったが、恐怖に強いられた場合を除く。彼は軍隊の指揮を諸将軍に与えたが、418年にローマ主教の選挙紛争に巻き込まれた。最終的に、彼は423年に浮腫で死んだ、肺浮腫かもしれない。彼は子供を残さなかったので、彼の死後すぐに首席秘書長のヨハンネスが皇帝を僭称した。425年に至って、ようやく彼の甥のウァレンティニアヌス3世(ガラ・プラキデイアとコンスタンティウスの息子)が正当な王朝を引き戻した。ホノリウス在位中、帝国の統一は辛うじて維持されていたが(ブリタンニアだけを除く。ホノリウスはブリタンニアの人々に「自分で自分を守る」と言った手紙を書いた)、彼の断片的で弱々しく見苦しいリーダーシップは最終的に、西部帝国の崩壊の禍根を残した。
まあ、大学生活はさて置き、今度は青海への旅行を述べましょう。

10月1日は国慶節(建国記念日と同じ)ので、7日の休みをもらいました。見聞を広めるために、その間に青海へ旅行することを決めた。(別の候補地はウルムチ・新疆ウイグル自治区、ラサ・チベット自治区、敦煌・酒泉・甘粛省。青海は近いだから)路線は蘭州==西寧==青海湖です。


1日午後4時ぐらい青海の省都・西寧に到着しました。ホテルに荷物を置いた後、西寧市内で遊びました。


チベット高原入り口にあたる大都市・西寧。海抜は2275m(蘭州は1700、青海湖は3205m)。通行人は大体漢族、回族(イスラム教徒)である、たまにチベット仏教の僧侶を見ることが出来ます、とても神秘的な感じで合っていますね。


夜の西寧(蘭州より西寧のほうがとても綺麗です)


西寧で買った彼女へのプレゼント、チベット民族の数珠です(真ん中のです)。


2日に青海湖へ行きました、湖辺のチベット旅館に下宿した。


道は一直線である、その両側は広々とした牧場(大部分は羊とヤク)で,見渡すかぎり果てしがない(或いは高くそびえ立つ雪山)




初めて雪山を見ました




不知名の雪山(後、私は「チベット高原に対して雪山はばかりです」と言う真実を了解しました。。)

あれ、今度この文章を書くことはもう3時間かかりました、疲れたな。
では、青海湖のことは次回だな。


青海湖は中国最大の湖であり、地球上でも米国ユタ州のグレートソルト湖に次いで2番目に大きな内陸塩湖である。


その建物は中国魚雷試験セーターである。
お久しぶり、
大学入学試験ので、長い間にアメブロを使いませんでした
日本語を使わ無かったので、今でも私は日本語が下手です、残念だな

試験結果は甘粛省の蘭州大学合格。自分はこの大学に満足しています、しかし南部・長江中下流・洞庭湖の南に生まれた私に対して遥かな中国西北部は全然見知らぬ地です。(当時の私は「大体砂漠と砂塵ばかりだな」と思いていました、当然真実はそうじゃない)従来「江南水郷」と言う湖南省に住む私は甘粛省の日照りと乾燥の気候に不適応を起こし、到着した日に鼻血が出ることもありました。(笑)

省都の長沙市の黄花国際空港から飛行機で出発し、途中高空から下界を見下ろす、「千溝万壑」と言う黄土高原はとても雄大で壮観です。



蘭州大学本部の正門
(本部は大学四年生と大学院生用、私のような新入生に対しては榆中キャンパス。本部に中国科学院国家重点研究室が複数ある)


蘭州駅
(「馬踏飛燕(馬、飛燕を踏む)」と言う甘粛省に発見した有名な西域風の靑銅器の模造品は真ん中にあります)



甘粛の光景
(青海省へ行き途中で撮った写真)


日本語が下手で、こんな長い文章を書くことは本当に難しい、約2時間かかりました、文法の間違いと語弊がたくさんあるかも知れない。大学生軍事訓練と青海省への旅行を述べたいが、もう遅いですからまた今度かな。

2015年も、どうぞよろしくお願いいた。