十夢矢夢君(とむやむくん)の常夏日記

十夢矢夢君(とむやむくん)の常夏日記

このブログではタイの自然の中で馬と体験する馬旅や、地元の日本人が知らないタイ料理の店、タイの文化のオモシロ不思議、タイ人との愉快なコミュニケーションを中心に綴っています。タイ在住30年だから見えてくるタイの不思議な”当たり前”についても紹介しています。

  常夏タイランドで暮らしていると、週末の過ごし方というのにも一苦労するものである。

 大抵は家の掃除をしたり、靴を磨いたり、なにかと家の中で、こちょこちょと動いているとほどよい運動にはなる。

 窓の外に広がる港の景色を見ながら、ベランダで熱いコーヒーを飲もう思うなら、じわじわと汗が出てくる。

 12月というのに昼間の気温は30度を超える。日本にいたときは、熱いコーヒーがなんとも冷えた身体を温める癒しの飲み物なのだが、その癖か、30度の炎天下でも熱いコーヒーは欠かせない。

 しかし、偶にはふらっとドライブとか、近所の公園へ散歩しようかという、本当に勇気のいる選択も時には大切だということで、先の週末の一日、ぶらりと近所の鉄道の駅に車を転がした。

 鉄道好きの私は、とにかく、鉄道が好きなのである。 ただボーッと列車を眺めるのも好きなのである。

 私の住む、小さな町の鉄道駅(タイ国営鉄道=タイ国鉄)のベンチに座り、ぼけーっと通過する貨物列車を、煙草をくわえて眺めていた。

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重油を満載したタンク車

   若い駅員のPさんが近寄って来て、

 

 「兄さん、これからどこへ行くのですか?」と訊いて来た。

 「うーん、特にないよ、ふらっと来ただけ」などと意味不明な回答をした。
 

 「もうすぐ軍港行き(正確にはタイ国鉄東部線終着駅のChukSamed駅)が来ますよ。軍港で軍艦見るのもいいし、白砂のビーチでビールでも飲んできたらどうですか?」

 

 初めて会うのに、こんなに親切な提案は、心に沁みるほど嬉しい。(その後、Pさんとは言うまでもなく友達になった)
 

「は?ここから軍港まではどれくらいかかるの?」
 

「約1時間半ですかね?向こうで40分ほど時間があるので、散歩に丁度いいですよ、チケットは14バーツ(70円程)です」
 

 その運賃の安さに私は二つ返事で「ほな、行く」

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平日は朝夕の1往復しかないローカル路線

  待てど暮らせどその”列車”が来ないじゃないか?

 

 駅舎に歩いていき、Pさんに「列車来ないね?」

「あーいつものことですから、あと20分ほどできますよ、大丈夫(マイペンライ)ですよ」

 “おいおい、大丈夫ですよ!というのはこちらのセリフだよね?”

「あ、そうなの? うん、大丈夫」ーやっぱり言ってしまった。(笑)

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遅れてバンコクからやってくる三等列車

  列車は遅れてやってきた。

  日本ではもう昔話に出てくるような「三等列車」がディーゼル機関車に引かれてギシギシと音を立ててやってきた。

  扉は開け放たれ、車内の窓は全開、木製の座席、ノスタルジックな映画のような光景が目の前に現れる。

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今や日本の鉄道博物館でしか見れない代物か?

「タイムトリップかよ・・・」

 にわかに”鉄ちゃん”の血が騒ぐ(いや、騒がないが)。

 列車は駅を出ると、心臓が飛び出すくらいのスピードでぶっ飛ばしていく。

   小さな町の駅を縫うように走り、小高い山のふもとにはキャッサバや、パイナップルの畑が続く。

 

「たまにはいいなぁ・・・鉄道の旅も」

 容赦なく目に飛び込んで来る埃に悩まされながらも、列車は終着駅に滑り込む。

 遅延のために、帰路の出発時間までにわずか30分しかない。

 1日二本のダイヤでは、この列車を逃すと家に帰るには一苦労する。
 まぁ、逆境に立ち向かうのが鉄道の旅の極意でもある。

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駅まで客待ちしているソンテウが2台

ー白砂のビーチか、軍艦を見るか?
ー究極の二択である。

 

 持ち時間は30分…

 

 確か、軍艦は子供たちが幼いころに連れて来た思い出がある。懐かしい思いでもう一度見てみたい。
 方や、白砂のビーチ…シンハビールを一本飲んでぼーっとするのも悪くない。

 究極の選択は…軍艦。
 駅前のソンテウ(ピックアップトラックを改造した乗り合いバス)の親父が手を上げる。

 

 「兄さん、帰りの列車に間に合わせるなら軍艦しかないよ…」

 「はいはい、それです、軍艦です」

 

 運転手の親父はそういうと、運転席に乗り込んで軍艦の前まで連れて行ってくれた。

 軍艦マニアでも、ミリタリーオタクでもない私だが、やはり、軍艦色の船というのは壮観なものだ。

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タイ海軍唯一の輸送船
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貨物船だろうか…名前を忘れた

   近年は外国人の乗船が許可されないと聞いていたが、この日はタイ人にも乗船が許可されず、外から眺めるだけだった。

 この軍艦(チャクリナルベート丸)、先日のタイ南部の洪水被害の支援活動で出動していたとのこと、人道支援、ご苦労様です。

 ドックの横にはお土産屋や、クィッティオ(タイ式麺)屋台があって、船を眺めながらのランチをなかなか乙なもの。

 あっという間の30分だが、軍港の厳かな雰囲気とは違って、なだらかに、穏やかに吹く海風がとても優しくて、軍艦の鉄の塊の匂いと混ざったファンキーな雰囲気を味わいながら、ソンテウの親父に促され、駅まで戻った。

 次は白砂のビーチでシンハビールにしよう…

 

 こうして次の休日の過ごし方が、決まったのである。

 

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タイ国鉄の駅には今でもこの発車ベルが吊ってある



      薄明かりの中、竹林の回廊を歩く。


   緑の影が長く伸びて、揺れるたびに心まで静まるようだ。奥に佇む寺は、まるでスクリーンに浮かぶ幻影のようにぼんやりと姿を現す。

 

 タイの土の匂いに混じって、ふと嵯峨野の湿った空気が蘇り、遠い記憶が胸に触れる。


   参道を抜けると、荘厳な仏教寺がひっそりと建っていた。



  堂内に入るとき靴を脱ぎ、仏陀の像の前に座して手を合わせる。静寂が堂内を包み込み、仏の輝きが首筋をやさしく撫でる。



   その瞬間、時間が止まったように感じられた。

外に出れば、参道には近所の農家が並べた屋台があり、焼きとうもろこしや新鮮な野菜、ココナッツ菓子が並んでいる。湯気と香りが漂い、地元の人々が憩う姿に、日常の温もりが広がっていた。

 

 

 

 

 

 タイに住んでかれこれ35年、生活の基盤が既にこの国に包まれて、いいことも悪いことも、祖国日本を離れて、人生の流れの中で生きて来た。


 「微笑みの国・タイランド」と言われるこのアジアの一国に住んでいながら、過去の日本との関わりの歴史など、あまり興味も抱くこともなかった。仕事でタイに赴任することになったせいか、タイという国自体への興味や関心はほぼなかった。むしろ、赴任が決まった日に、「地球の歩き方ータイ」(今でもあるのかな?)という旅本を買ったくらいだ。その本を捲って初めて、あの南国のリゾート“プ-ケット” や “コ・サムイ”がタイにある事を知った。


今はタイ国軍の士官学校


 

 そして徐々に自分がタイに来る前の、ちょっと昔の話、と言っても30年前のことは、昨日のように覚えているが、もう少し遡った80年ほど前の話を紐解いてみたい。

 第二次世界大戦が、大東亜戦争と呼ばれていたころ、日本は破竹の勢いでアジアへ進出し、西洋列国の植民地国に上陸し、独立と共栄を大義に戦っていた。しかし,時勢は祖国に味方せず、各地で屍の塁を築いていった。

 私の住むタイは、当時から西洋列国と日本との権勢のはざまで唯一独立を保っていた国だ。アメリカ・イギリス率いる連合軍につけば、タイ全土は日本軍との衝突により焦土と化すと判断し、それは逆もしかり。当時の優れたタイ国王(ラマ9世、プーミポン王)の判断と魑魅魍魎とした政治界の思惑により、日本軍のタイ国土への上陸を許した。

 

 日本軍はタイ湾から上陸し、イギリス軍の植民地、西はミャンマー(当時はビルマ)、南はマレーシア・シンガポールへの進撃を企てた。日本軍の進撃は止まらず、瞬く間にシンガポール、マレーシア、ビルマを占領した。
 しかし、戦禍の勢いは日本軍に有利にはゆかず、アジアでの制海、制空権を失っていった。そして、ついに広島・長崎の悲劇の後、日本は降伏した。



   そうした状況の中、日本軍は最後の決戦とばかり、各方面に散兵している師団、兵団をタイの中部の都市、ナコンナーヨック県にある日本軍添う指令本部としての駐屯地へ集結した。その数は1万5千人規模だった。1945年8月、終戦、敗戦の知らせを知った将校、兵士たちは、俘虜(連合軍の捕虜)になるくらいなら、徹底抗戦と決起した。駐屯地は既に連合国へと接収されていく中、数千の兵士たちは付近の村や集落に潜伏し、地形を活かしたゲリラ戦略に出た。険しい山の中腹の洞窟をアジトとし、また、切り立った山肌にバンカーを築き連合国軍を迎え撃つ準備をしていた。

 

   いくつかの小競り合い、衝突があって、日本兵の中にも数百に上る負傷兵、戦死者が出た。

 それらの死体はそのまま放置され、“草生す屍”へと。人知れず放置され、祖国の土を踏むこともなく、野ざらしのままに、月日は過ぎていく。

 80年がたった今、私はタイ人でこのナコンナーヨック県に住む、無二の友人とともに、その痕跡を見聞きして歩いた。

 駐屯地から街へ抜ける、また、街からの補給路として、森の中の集落を切り開いて作った幅3メートルほどの道路に車を進めた。道路の標識を見ると、「Japanese Road」(タイ語表記だが)と読める。現代でもこの道路は集落の人たちの生活路として今も活きている。

タイ語で「日本街道」と書かれた標識

 

 たまたまバイクで通りかかった初老の男性、ソムポン氏(68歳)に声をかけてみた。

私:―この道「日本街道」とはどういう謂れですか? と。

 ソムポン氏は親切にバイクを停めて話を聞かせてくれた。

氏: この辺りには駐屯地の日本兵が自国の敗戦を知った後に、駐屯地から逃れて身を隠し徹底抗戦をたくらんだ集落だよ。千人以上いたかなぁ…彼らは街へ通ずる抜け道としてこの集落の道を舗装していったんだよ、今でも重宝してるよ、誰から問わず、この道を「日本街道」って呼び始めたんだ。

たまたま通りかかったソムポン氏とー

私:―今でも日本人は住んでますか?子孫の方とか・・・?

 

氏:どうかなぁ…いたとしてもお爺ちゃんだろうし、もう死んでる人も多し、孫がいたとしても、当時の日本兵だということは伝えてなかったと思うよ。言ったら連合国に捕まるし、脱走捕虜として処刑された人もいる。でも俺が見たわけじゃないからね、父親から聞いただけだけどね…そして、なんかえらい軍人さんは、山の上にある洞窟で手りゅう弾で自〇したり、ハラキリっていうのか?腹を切って死んだり、はたまた拳銃で頭撃って死んだよ。

ソムポン氏と奥さん 収穫したバナナの荷詰中

私:じゃぁ、お父様は当時のこと、よくご存じだったんですか?


氏:そうさ、俺は親父からいろんな事を聞いたよ、ほらそこの坂のある小山ね、あそこは日本兵が最後の徹底抗戦でバンカーを築いてたところだよ。つい近年になって、タイ王妃(プラテープ)の命で整理されたけど、手りゅう弾や軍刀、ヘルメットなど見つかったよ。そして、連合国に撃たれて死んだ兵士の死体とかね。ほらそこの洞穴のとこさ。どうして死んだかは知らない。

 

 ソムポン氏は指さした。私達はその小山へと移動した。


 バナナやパパイヤの畑となっていた小山のバンカーの下に、わずかな窪みがあり、そこに日本兵の死体があったそうだ(ほぼミイラ化していた)虫の音もない、緑の葉に突き刺さる灼熱の南国の太陽の光しか感じない。

小山の下には小さなバナナ畑がー

 

氏:この辺りには千人以上の日本兵がいたはずだが、連合国に捕まったか、自〇したかのいずれかだろう。。。捕まってないとすると、タイの僧侶に化けたかくらいしか考えられないけどね。だから探せばそこら中から日本兵の骨とか、遺品がたくさん、今でも見つかるよ。

 

 ソムポン氏はそう言ってあちこちの林の方角を指して言った。

我々はこの小山のバンカー下に暫くとどまり、煙草に火を点けて、持ってきた日章旗を置いた。

上にバンカーがあって下の洞穴に日本兵の遺体が

 

 ソムポン氏いわく、
ーお前は俺が生まれて初めて見た“生きた日本人だ”、タイ語も上手だしまるでタイ人みたいだな、顔つきまで…

 そう言って大笑いした。

ソムポン氏と筆者

 

ー俺たちはもう死んでいく世代だけど、お前のような日本人が、お前の国の若い人たちにも伝えないとな。俺の役目でもあるよ、タイ人の若い奴らはこういうのには全然興味がないからな…悲しいけどね。頑張るよ。

 

―よく考えると、今のタイと日本の友好も、我々の先人たちが最初にその礎を作ってくれたんだよな…

 

私: そうかもしれませんね、顔も声も時代も変わるけど、私達日本人とタイ人がこれからも仲良くやっていく平和な手段はいくらでもありますね。

 

私: (ソムポン氏と奥さんに)ではお二人のご両親は当時のこと、よく覚えてますよね? 当時の日本人、日本兵のことを何と言ってましたか?

 

氏: それはとても礼儀正しかった。背筋を伸ばして軒先に立って、何やら日本語で言って、手を口に運ぶ真似をして・・・・親父は畑でとれるバナナや野菜と米を上げたよ。ほんと礼儀正しくかっこいい人たちだった。

 

私: 暴力や強奪、いじめとかは?

 

奥様: そんなことする人たちだったら今頃、タイ人は日本人が大嫌いなはずでしょ?(笑) さぁ、これ、今朝とって来たばかりのバナナよ。持って帰りなさい…

 

私:  あああ、これで僕もタイに住む日本人の一人として誇りが持てました。ありがとうございました。(泣)

 

氏:そうだな…そうだよな。。。

ソムポン氏の遠くを見る目が寂しくもあり、力強くもあったのが印象に残った。

日章旗を持って黙祷
残っていた一本の煙草を差し上げた🚬禁煙者ならごめんなさい🙏

 

 週末は友人の転職祝いも兼ねて、いつもの静かな海辺のシーフードレストランを選択した。天気予報ではアジア全域に温帯モンスーン台風が接近中ということで、こうした“半”屋外のレストランでの食事はリスクが伴う。タイの天候は今は雨季なので、スコールが来ようが台風が来ようが常に天候のリスクはある。

 

 

 前回はまだ雨季に突入する手前だったので、海辺でビールと美味しいタイ料理を楽しみながら、西の水平線に沈んでいく夕陽を見ながらの癒しのディナータイムだった。しかし、今日はレストランに着くと、”特等席”でもある海に近い側のテーブルはガラガラで、内側の屋根のある席から順に埋まっていった。

 

 なるほど…雨が降ると料理を持って屋根の下へ避難しなければならないな、わかってはいるが、やはり海辺に打ち寄せるさざ波の音を聞きながら、そして沈む黄金色の夕陽を見れるのは魅力的だ、しかもこの店の”売り”はそこなのに、屋内のテーブルを選択するのは躊躇してしまう。

 

 「雨が降ったら屋内テーブルに移動していいですか?」 と店員に訊いてみる。

 

 「はい、屋内テーブルはもうすでに満席状態ですから、そこでどうでしょう?」と海辺に面した”特等席”を指さして答えた。

 

 

 

 “うーん、これはひとつの賭けだな…“ 楽しい夕食を期待していたが、意外に難しい人生の選択を迫られることになってしまった。

 

 友人は「ここでいいよ、降ったら降った時のことだよ」 と意外で楽観的なことを言う。一抹の不安を抱えながらも海辺のテーブルに着いた。空はどんより、鉛色に変化し、期待の”黄金色の夕陽”を拝みながらの乾杯の期待は、あっさりと裏切られてしまった。

 

 まぁ、気を取り戻して鉛の塊が、強風と共に空から落ちてきそうな状況の中、店員がメニューを持って来て、いつものお勧めメニューページから順に注文していく。黄金の夕陽など、すでに太陽がもう何処にあるのかもわからないくらいに空は荒れ始めていた。気を取り戻してメニューに目落とす。

 

 今日のメンバーは所謂”呑み助“はいないので、とりあえず”ビアシン”を一本頼む。

 

 

 飲むより食う、それがモットーの私は、ここの名物メニューから蟹の身が入ったチャーハン(カオパッド・プー)から注文する。高騰する世界一美味しい日本のお米を懐かしみながらも、少しドライで噛み応えのあるタイ米を使った、粘り気の無い香ばしいタイのチャーハン、少しのナムプラーをかけて食べるのだが、実際このチャーハンだけでも充分満腹感を感じるのである。なので美味しいからと言ってたくさん食べてしまわないよう注意が必要なのだ。

 

 

 「パット・プラムック・カイケム」(イカの塩卵炒め)

 

 これがまた珍味である。タイ料理の1軍メニューには間違いないが、タイ料理通の日本人でもすぐには思いつかない完ぺきな”定番メニュー”なのである。イカと塩卵をベースにして、玉ねぎ、赤唐辛子、ネギなどと炒めた不思議な懐かしい味の逸品である。タイ米に絡めて食べるとなんとも言えない風味を醸し出し、口いっぱいに広がるイカと塩卵のコンビネーションが幸福感を増幅するのである。

 

 

 今夜は友人の転職祝いでもあり、メニューは気持ちいいくらいにどんどん運ばれて来る。

 

 この「プー・ニム・トーッ・クローブ(ソフトシェルクラブのカリカリ揚げ)」

 

 タイ料理通を唸らせる絶品、脱皮したての蟹の柔らかい殻ごとニンニクでカリカリに揚げ、ソフトシェルクラブの柔らかい噛み応え、歯ざわり、そしてニンニクと一緒に揚げたカリカリ感、すべてのポイントで満点をあげてしまう。これもお皿に目を向けていないとあっという間になくなってしまう逸品なのである。

 

 

 極めつけはこれ! 「カイ・トゥン・タレー(タイ風卵の茶わん蒸し)」

 

 茶わん蒸しならず、火鍋蒸し?この店の定番お勧めメニューなのだが、これまで何度か注文したが未だにどう調理してるのかがわからない。蒸すというよりふっくら火鍋で炊き上げるような、ふわふわとした綿菓子のような卵の風味と、うっすらとナムプラーで味付けされたあっさり感。

 

 エビやイカの風味が混ざって、まるでデザートのような軽さで、しかも最後にずっしりと満腹感を味あわせてくれる。日本の茶わん蒸しとは全く違う、それでいて、“なるほど茶わん蒸しか…”としんみり感が更なる幸福感。

 

 

 台風が接近しているとはいえ、楽しい話題に美味しいタイ料理に、あっという間に夜のとばりが下りてきた。気にしていた雨も一滴も降ることはなかった。鉛色の空が優しい夜空に姿を変えている。

 

 小さな星が一つ、雲の切れ間にきらりと光る。

 

 こんな週末…毎日あればいいのになぁ。

 

 

 日本はゴールデンウィークという、全国民の大移動という忙しくも楽しくも儚い長期休暇が終わったようだ。


  以前はこの時期になると、私が棲んでる街にも日本人観光客が増えたなぁ…なんて思っていたが、最近の超円安のせいか日本人の海外旅行も減ったようで、少し寂しくもあった。



 そういう状況もなんのその、タイに住んでる日本人には関係ないのであるが、私には私の隠れ家的”ゴールデン”な海辺のレストランが絶好の週末の過ごし方なのである。

 

 自宅から10分程度の漁師町のはずれ、海に面した萎びたレストラン、ただここの”隠し技”とでも言おうか、タイ料理の美味しさ以外に満喫できるのは、この夕陽なのである。静かなタイ湾に沈む夕陽は午後6時半、丁度、夕方の冷たいビールと、ピリ辛のタイ料理が欲しくなるベストな時間に合わせ、その”黄金”で荘厳な光を注いでくれるのである。



  あと、5分もすれば夕陽はすっぽりとアジアの水平線に吸い込まれる頃、冷たいジョッキの“シンハ・ビール”が運ばれて来る。(タイでは”ビア・シン”と呼びます)少し重たいジョッキを掲げると、黄金の夕陽の色合いとが絶妙のマッチング!



 続いて運ばれて来る新鮮な海の幸を使ったピリ辛のタイ料理…あれこれ。


 

  夕陽が落ちて、海面をなぞって海風をが少し汗ばんだ身体を癒してくれる。


 

  これが私のゴールデンウィーク“エンド”なのである。


(笑)