「本能寺の変」新史料 光秀はなぜ信長を襲ったのか…謎解きに挑む大発見(京都・岡山)
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岡山   林原美術館(岡山市北区丸の内)に行こう!
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「本能寺の変」新史料 光秀はなぜ信長を襲ったのか…謎解きに挑む大発見(京都・岡山)

光秀はなぜ、信長を襲ったのか。「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所在地論争と並んで日本史最大の謎とされている。さまざまな説が出されてきたが、今回の石谷家文書は、謎解きに挑むための大発見といえる。

 変を考える主な史料は、信長の伝記「信長公記」のほか、関係者の間で交わされた書簡「兼見卿記」「晴豊記」など当時の公家の日記、さらには「川角太閤記」などの編纂物がある。

 編纂物は面白いのだが、光秀が安土城での徳川家康の接待をしくじった話や領国を取り上げられた話など、後世に作り上げられたフィクションが多い。

 その点、石谷家文書は変の直近の史料であること、しかも出したのは長宗我部元親、受け取ったのも斎藤利三と、四国攻め交渉をめぐる当事者であり、史料価値は高い。

 書状からは、信長の四国政策の突然の方針転換に対する長宗我部側の率直な戸惑いと反発、そしてあきらめの心情も生々しく伝わってくる。

 もちろん、これで変の謎解きがすべて決着かといえば、それほど簡単ではない。しかし質の高い史料を突き合わせて、当時の政治状況を考えていけば、歴史の空白は少しずつ埋まる。今回の発見をもとに、新たな議論が始まるのを期待したい。
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本能寺の変に新資料 光秀側に長宗我部“嘆願” 「四国攻め回避」説を補強

明智光秀が主君の織田信長を討った「本能寺の変」について、林原美術館(岡山市北区)が所蔵する「石谷家(いしがいけ)文書」に土佐の長(宗我部元親(ちょうそかべもよちか)が光秀の腹心に宛てて四国攻めに苦悩する書状があったことが23日、明らかになった。

 変の要因には諸説あるが、長宗我部との関係を重んじた光秀が四国攻めを回避するため決起した可能性を示す史料として大きな論議を呼びそうだ。

 石谷家文書は、美濃国(岐阜県)の武将・石谷光政・頼辰(よりとき)父子の書状などで構成され、天正年間を中心とした3巻47通。同美術館と岡山県立博物館(岡山市北区)の共同研究で、本能寺の変直前の天正10(1582)年5月21日付で元親が光秀の側近、斎藤利三(としみつ)に宛てた書状が見つかった。

 当時の元親は四国統一の途上。ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどから信長は当初の友好関係を転換し、長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求していた。

 今回発見されたうち、6月2日の本能寺の変の約5カ月前にあたる1月11日付書状では、利三が元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力している」と助言。

 これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答。信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが初めて分かった。

 本能寺の変の要因については、光秀が天下取りを目指した「野望説」をはじめ「怨恨(えんこん)説」などがあるが、今回の発見は光秀が信長の四国攻めを回避しようとしたとする「四国説」を補強するものといえ、今後の論争に影響を与えそうだ。

 同博物館の内池英樹学芸課主幹は「この発見で50点程度だった四国説が80点までになり、他説に比べ一歩抜きんでた」と話している。
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