坂本龍馬が暗殺された「近江屋」は、京都三条通りと四条通りにはさまれた、蛸薬師下ル、河原町の土佐藩邸のすぐそばにあった醤油屋でした。

この頃、大目付永井が坂本龍馬の捕縛及び、殺害を禁ずる通達を出していたのですが、民衆を統制する事の出来る力はもう幕府には残っておらず、通達が末端まで行き届いてはいませんでした。

その為、もともと酢屋に宿泊していた龍馬ですが、いまだ幕吏が龍馬の回りを連日嗅ぎ回り、危険を感じた後藤象二郎が土佐藩邸に泊まる事を勧めましたが、下士という身分の龍馬には肩身が狭かったようで、「藩邸は窮屈でいやだ」と拒否しました。
そこで、海援隊の者達が龍馬の為に別の隠れ家を用意したのが、醤油
屋「近江屋」井口新助宅でした。

井口新助宅では、裏庭の土蔵にこしらえられた密室のなかに匿われ、主人の井口新助が家の者にも内緒でこしらえたものでした。
もし万が一、刺客に襲われても裏手の寺に逃げ込めるように梯子まで用意されていました。
食事などの身の回りの世話も、龍馬の下男の山田藤吉が一人で請け負っていました。

山田藤吉は、もと雲井龍という力士で先斗町の料理屋の出前持ちをしている時に、海援隊書記の長岡謙吉に可愛がられ、龍馬の世話をするようになったといいます。
龍馬自身も藤吉を大変可愛がったそうで、藤吉も龍馬を尊敬していたようです。

龍馬は井口家の者たちみなに気に入られ、夫人すみには真綿の胴衣を着せてもらい、家に伝わる「海獣葡萄鏡」を前に髪を結ってもらったと伝えられています。

たが、龍馬は慶応三年十一月十四日からは、離れの土蔵から母屋の二階に移っています。
離れの土蔵であれば、刺客に狙われにくく、仮に狙われても、逃げる事は容易であるはずなのに、何故か暗殺前日に危険な母屋へ移動しています。
それには便所に行くのが不便であったことと、もう一つ重要な理由があったからです。

其の三へ続く……。