画像は坂本龍馬が学んだ北辰一刀流の開祖、 千葉周作です。
北辰一刀流は、北辰夢想流と小野派一刀流を合わせたもので、剣術が現在の剣道へ進化をするにあたり、大きく影響を与えた流派だと言われています。
以前の記事で記述したとおり、坂本龍馬は近江屋で数名の刺客により暗殺されます。
その暗殺を語る前に、まず坂本龍馬の剣の腕前はどの程度であったのか?
刺客に斬られてしまう実力であったのか?
その真実を私なりの解釈を交えて、ご説明していきたいと思います。
まず、坂本龍馬が本格的に武芸を習い始めたのは、十四歳の頃だと言われています。
龍馬の家から歩いて五分ほどのところにある、高知城下築屋敷の日根野弁治の小栗流を習いはじめます。
この小栗流は、和術を中心に、柳生流の剣、居合い、槍法、騎射、長刀、水泳術などの武芸を指導していました。
龍馬は、とても努力家で練習熱心で、打ちのめされても、そのたびに立ち上がり、何度も何度もかかってきたと師範代の土居楠五郎は語っていたそうです。
夏になれば毎日、龍馬は鏡川で水泳術の稽古を怠らずしていたようで、ある大雨の日も鏡川で水練をする龍馬を疑問に思った者が、「この雨降りのなかで、なぜ水泳するのか」と問いただしたところ、「どうせ川で泳いでも濡れるので、雨が降っていても関係ない」と平気な顔をして答えたといいます。
また、のちに龍馬が幕府の武芸訓練機関「講武所」の師範と柔術の試合をした時のことです。
龍馬の相手は、柔術日本一と名声の高い柔術家で、龍馬は小栗流で和術を学んでいたとはいえ、剣術家なので柔術のルールでは圧倒的に不利な内容での立ち合いでした。
しかし、試合が始まると案の定、龍馬は何度も気絶させられてしまうのですが、龍馬が何度も何度も、「もう一番」と言ってかかっていく忍耐力に、相手の柔術家の方が「もう、よそう」と根をあげてしまったそうです。
こういった龍馬の諦めない姿勢もあり、十九歳の若さで「小栗流和兵法事目録」を伝授され、同じ月の嘉永六年三月一七日、龍馬は剣術修行が藩から許され、北辰一刀流のある江戸へと旅立つことになります。
そのとき、父親が「修行中心得大意」を書き与え、龍馬は紙に包み、肌身離さず大事にしていたといわれます。